09





「さて――さっきも言ったとおり、エピメテウスとプロメテウスの兄弟は、作られて間もない人間の面倒を見ていたんだよ。兄弟は人間に、家や、道具や、食べ物、言葉を贈り物として与えた。人間の暮らしは驚くほど発展し、豊かになった。それでもここにはまだ足りないものがある。それはなにか?――『火』だ」

 キッタくんはすらすらと淀みなく話し続ける。

「人間の世界にはまだ火がなかった。だから人間たちは、寒い夜は凍えて過ごさなくてはならないし、食べ物を焼いて食べることもできない。それを哀れに思った兄弟は、天の国から火を盗んだ。火はそのころ、神様たちだけが使うことを許されたものだったんだ」

 まるで事前に台本でも用意していたかのような語りようだ。キッタくんの言葉は丁寧で、口ぶりもしっかりしていて、聞く方は安心して聞いていられた。

「火を手に入れて、人間たちの暮らしはさらに発展した。彼らは文明を産み、数多の財を築いた。けれどそれは――火を盗み、与えたことは、天の国の禁忌にふれることでもあった。そこで、火を盗んだ兄弟と、その火をもらった人間は罰を受けることになった」
「人間も罰せられるの? なんか理不尽だね」
 もらったから役立てただけなのに、とぼくが言うとキッタくんは苦笑した。
「そもそもなぜ神様が人間に火を与えなかったかわかるかい?」
「そうだなあ」
 ぼくは特に考えずに答えた。「火事になると危ないから、とか」
「当らずとも遠からず、といったところだね。――火は人間の生活を助ける。しかし火は同時に争いの元にもなった。兵器や武器、すべて鉄によって作られるものは火が生み出した。火は、それまで平和だった地上に争いをもたらしたんだ。一番偉い神様は、そのことをわかっていて人間に火を与えなかったんだね。だから神様は人間にも罰を下した。どう罰を下したのか?――『女』を作ったんだ。これが最初の女、『パンドラ』だ」
「『パンドラの匣』の?」
 キッタくんがうなずいた。
 たしかこの話は『禁后』のときに似たような話題で出たはずだ。開けてはいけない箱がどうだかいうくだりで一度。それから食堂……もとい、レストランで、話していたときにも一度話題にのぼっている。今さら同じ話題を持ち出して、キッタくんはいったいなにが言いたいんだろう?

「パンドラはあらゆる美を兼ね備えた女性だった。女神に似せたうつくしい顔形や、聞く者を虜にする歌声、花の冠を戴き身を着飾って……という具合に、あらゆる神様がパンドラに贈り物をしたんだ。……それこそ、彼女を一目見た相手が警戒心を忘れてしまうくらいにね。完璧な女性だったんだよ。そうして完璧に仕上がったパンドラへ、神様は最後に贈り物をした。なんだかわかるかい?」
 キッタくんはまるで怪談でも話すような、ぞっとする声色で言った。
「神様がパンドラに贈ったもの――それは『好奇心』だった。神様はパンドラに好奇心を与えたんだ」

 さて、と仕切り直す。
「かくしてパンドラは神々の手により産み出され、兄弟の元に送り出された。弟はかねてから『神様からの贈り物を受け取るな』と、そう兄に忠告していたが、パンドラのあまりのうつくしさの前には忠告などなんの意味もなさなかった。兄はパンドラを家へ招き、ともに住まわせた。――さて、ここからが問題だ。この家には世のあらゆる病気や災害を閉じこめた匣があった。後に『パンドラの匣』と称されるようになる、開けてはならぬ、厄災の匣だ」

 そう言って、キッタくんはおもむろにテーブルのパズルを抱えた。そこでぼくはふと、すっかり話に聞き入っていたことに気がついた。キッタくんはそのパズル、『リンフォン』を匣に見立て、胸のあたりまで持ち上げる。

「パンドラはこの匣の中身が気になって気になって仕方がなかった。おそらく中身について詳しいことは教えてもらえなかったんだ。中身のわからない不可解な匣。そんなものが家の中に置いてあるんだ。考えてもみろよ、毎日そいつが視界に入る。あの匣にはなにが入っているのか、中にはなにがあるのか……気になって気になって仕方がない。パンドラには神様からもらった強烈な好奇心があったからね。好奇心というものは、いくら蓋を閉じても押し開けて出てきてしまう。だって匣は常に隣にあるんだ。目の届く、それどころか手を伸ばせば届く距離――

 僕だったら気が狂ってしまうかもしれない、とキッタくんがしみじみ漏らした。なんとなく、キッタくんらしい回答だ。そう思ってぼくは本人に気づかれないように笑った。匣を膝に置き、当のキッタくんは話を続ける。

「結果、彼女は匣を開け放ってしまった。厄災は世界中にまき散らされ、人間たちは不幸になり、神様はまんまと人間どもに罰を与えた。そのことは『パンドラの匣』という言葉が『開けてはならないもの』を意味する慣用句になっていることからもわかるだろう?
けれどねTくん、ここで僕らは考えなくちゃならない。すべてパンドラのせいにしてしまうには、あまりにひどい話じゃないか。彼女が匣を開けたのは彼女のせいではなく、一から十まで神様がそうなるようにと仕組んだ『人間への罰』だったんだからさ。パンドラは匣をただ開けたわけじゃない。開けずにはいられなかったんだ。偶然の事故じゃない、必然だ。神様は全部こうなることを見越して、女を作り、それに強い好奇心を与えたんだからね。
――ところでそろそろ君は考え始めているね?
『キッタくんはいったいなんのためにこんな話をしているんだろう?』とさ」

「え?」
 急に話を振られ、聞き手に徹していたぼくは言葉を失った。キッタくんはそんなぼくを見てにこにこ笑う。
「顔を見ればわかるよ。ふむ、『この話はいつまで続くんだろう? 帰ってゲームでもやってだらだら無意味な休日を過ごしたいな』、か。それは悪かったね」
「そこまで言ってないし」
「思ってはいるんだろう?……まあ待ちたまえ。パンドラの匣の話には続きがあるんだ」
 ……思ってないのになあ、そこまではさすがに。『無意味な休日』ってのは言い過ぎだ。そんな細かい問題はいいんだと片手を振って払いのけ、キッタくんは話を続ける。
「世に厄災が解き放たれ、パンドラは急いで匣を閉めた。匣の中の厄災はほとんど外に飛び出してしまったが、それでもまだ、匣の隅に残ったものがあった。それが『希望』だった。――『希望』だけがただ匣のうちに留まったのさ」

 そこでキッタくんは立ち上がった。
「いいかい?」と人差し指を立て、部屋の中を歩きはじめる。

「匣の中には『希望』が残った。しかしパンドラはあまりにも急いで匣を閉めてしまったがために、中にそんなものが残っているとは知らなかったんだ。そして残念なことに、彼女が匣の蓋を開けることは二度となかった。再び匣を開けて、これ以上の厄災があることを恐れたんだ。『希望』こそ真に放たれるべき贈り物だったのにね。彼女は最後に残ったものの正体を知らないまま、匣ごと希望を封じてしまった」

 ぼくはキッタくんの姿を目で追った。キッタくんはまるでテレビで見る探偵の推理場面のように歩きながら、静かな声で言葉を継ぐ。

「パンドラが災厄の匣の蓋を開けて以来、人間は好奇心という魔物を胸に飼うことになった。隠されたものを見たい、知りたいと、匣の中身を望まずにはいられない。たとえそれが開けてはならぬものだと知っていてもね。
――君だってそうなんだろう? だから僕を訪ねてきた。違うかい?」

 キッタくんはそっとぼくに目配せした。その言葉に、ぼくは肯定も否定もできなかった。なんと答えていいかわからなかったのだ。キッタくんは少し口調を早めて言った。

「僕は思うんだ。もしもパンドラが匣の中に『希望』があることを知っていたら? 彼女は二度目に匣を開けたんじゃないだろうか。あるいは埋め込まれた好奇心が神様から与えられたものだと知っていたら? 少なくとも厄災の匣を開けてしまったという自責の念を感じることはなかったはずだ。開け放たれた厄災はもうどうしようもない。それより重要なのは匣を開けた、その後をどうするのか、だ。匣を封じて、目を背けていたって、なにも変わりはしない。正しく知ることでしか、匣に残った『希望』を見つけることはできないんだ。じゃなきゃ彼女は救われない。――だからさTくん」
 キッタくんの切れ長の目が、まっすぐにぼくを見た。
 正面から見た彼女の顔は驚くほどに整っていて、場違いだと知っていながら、ぼくは束の間みとれてしまった。――まるで人間じゃないみたいだ、と。上の空でそんなことを思った。人間じゃないならなんだっていうんだ?

「知らなくていい、なんてのは欺瞞だ」

 ――答えが浮かぶ前に、キッタくんの凜とした声で現実に引き戻される。
 
「君は君がなにを視ているのか知るべきだよ。知って、判断するんだ。だってそうだろう? 視力なんてのは自分でどうすることもできない。それが霊能力ならなおさらだ。目を背けてみたところで、すべてをなかったことにするには、君の目はあまりに多くを視すぎてしまう。だったら少しくらい危なくても、怖くても、目を開けて匣の底を見つめるしかないじゃないか」
「どうやって?」
 ぼくはそこで口を挟んだ。やっとだ。震えそうになる声を飲み込み、息を吸う。
「知るっていったって、どうやって?」
「そんなものは簡単さ」
 よくぞ訊いてくれました、と言わんばかりにキッタくんは微笑んだ。悪い笑みだ。キッタくんはぼくの後ろに回り込む。ぼくのちょうど真後ろだ。ぼくのすぐ頭の上で、キッタくんは言った。

「ねえ、僕と手を組まないかい?」





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