食堂は半地下になっていた。食堂……もとい、レストランだ。でもぼくらが普通「ホテルのレストラン」と聞いて連想するようなきらびやかさはここにはない。寂れていて、それだけならいいんだけど、壁なんか打ちっ放しのコンクリート壁だ。 本当に営業しているのか? 不安を感じないでもないけれど、キッタくんがさっさと中に入ってしまうので、ぼくもそれに従わざるを得なかった。 入り口の外から見るより、中は広くできていた。 広いというか、妙に天井が高いんだ。それで必要以上にがらんとして見える。上の方は窓になっていて、そこから土曜朝の明かりが入っていた。倉庫みたいだな、とぼくは思った。レストランというより、倉庫。天井の隅の影と目が合った。 キッタくんはといえば、慣れた感じで右手奥の部屋に入って行くと、数える間もなく出てきて、「座ろう。そう時間はかからないそうだ。他に客もいないことだしね」と言った。 ぼくらは二列並んだ壁側の長机に座った。座り心地はなんとも覚えのあるものというか……学校の食堂が、同じような椅子だった気がする。 そう時間はかからない、とキッタくんは言ったが、この外観からなにが出てくるのかはまるで予想がつかない。普通、ホテルのレストランって結構高いんじゃないだろうか? ぼくは小声でキッタくんに耳打ちした。 「オレ、あんまりお金持ってきてないんだけど」 「気にすることないよ」キッタくんは事も無げに言った。「僕は一応ここの支配人の遠縁の親戚ということになっているから。飲み食いする分にはお金はいらない」 「え?」ぼくは一瞬言葉に詰まった「そうなの?」 「ああ、もちろん嗜好品は別だけどね。ここのコーヒーは不味いからさ、こればっかりは外に買いに行っているよ」 「そうじゃなくて」そう、そっちじゃなくて、「最初のほう。キッタくん、ここの人と親戚なの? その……支配人の人と?」 「一応ね。言ってなかったかな」 「言ってないよ」 少なくとも、聞いた覚えはない。前はたしか、家族の引っ越しが間に合わないから、新学期にあわせてキッタくんだけ先にこっちに来た、という話だったはずだ。……たぶん。どこだったかは覚えてないけど、どこかでそう説明された気がする。 「ああ、その話ね」キッタくんは軽い調子で頷くと「予定が変わったんだ。当分家族に会えそうもない。僕も戻るに戻れないから、あてが見つかるまではしばらくこっちに滞在する予定だ」 「なんか、わかったような、わからないような……」 「そのあたりはちょっと複雑でね。まあ気にすることはないさ。当分は一人暮らしのホテル暮らしだけど、今のところ生活に不自由はないしね」 そう話すキッタくんは、どこか他人事のような言い方をした。 それにしても、家族が引っ越してこれなくなったから娘一人だけで生活? そんなことあるんだろうか。家庭の事情というやつなのかもしれない。 「あのさ、キッタくんの家族ってどんな人?」 キッタくんはそれ以上話す気がないようなので、遠回しに質問する。「ホテルの支配人と親戚ってことは、どっかの社長さんとか、そういう感じ?」 「普通だよ。よくある一般的な家族。気になるかい?」 そりゃあちょっとは、とぼくは答えた。家庭の事情に首を突っ込むのは良くないけど、そこはそれ。好奇心というやつだ。 キッタくんは苦笑混じりに「野次馬根性の間違いじゃないか」と腕を組んだ。 「隠すようなことはなにもないよ。引っ越しが多いのは今に始まったことじゃない。小さいころからずっとだ。父の仕事の都合でね。でもそのくらい、なにも珍しい話じゃない、よくある話さ。両親と兄と、四人家族。上は家を出ているけどね」 「へえ。なんか意外かも。一人っ子か、いても弟か妹だと思ってた」 「どうして?」とキッタくんが目を細める。 「別に変な意味じゃなくて、ほら、しっかりしてるから。キッタくんとこもお兄ちゃんいるんだ」 「『キッタくんとこも』ということは、Tくんにもお兄さんがいるんだね」 ぼくは頷いた。 「いるよ。っていっても、うち五人兄弟で」 「五人兄弟?」 「兄と姉と、妹と弟と」 「君が真ん中なのかい?」キッタくんは少し驚いたようだった。それから笑って、「それはずるいな。よく『兄じゃなくて妹がほしかった』なんて言うじゃないか。君の場合、一人ずついるんだから総取りだ」 「オレの場合はむしろ『一人っ子だったら』って感じかな。あんまり良くもないけど。上はもう家出てるから普通にお兄ちゃん扱いだし。もし兄ちゃんが家に戻ってくれば……」 ――『その話はしないって父さんとも約束したでしょ』 「Tくん?」キッタくんが怪訝な顔でぼくを見ている。「どうかしたのかい?」 「あ、うん。……なんでもない」 「なんでもない?」 そうは見えないけどね。キッタくんが訝るように言う。目をそらした先に、奥の席の影が振り返るのが見えて、視線を机に落とす。 「上はもう働いてるから、家にいるのは弟と妹だけで。うん、キッタくんとこは四人家族なんだ」 そりゃいいね、と付け足す。不自然だったかもしれない。キッタくんが口を開く。――そのタイミングで、料理が運ばれてきた。「助かった」と思わずにはいられなかった。自分から切り出しておいて、都合のいい話だけど。 出てきた料理は「レストランのランチ」と呼ぶにふさわしいものだった。名前はわからないけど、調理された野菜や鶏肉が白い皿に上品に飾り付けられている。 「超おいしそう……」 ぼくは思わずそう呟いていた。それだけおいしそうに見えたのだ。すると視界の端でなにかが、さっ、と動いた。料理を運んできた、男の人の腰のあたりだ。体を傾けてのぞき込む。なにもない。一瞬だった。見間違いだろうか……。 料理を運んできたのは若い男の人だった。若いといっても、年は三十かもっといっているだろう。目のあたりに険があって強面で、ぼくは野生の動物を連想した。コックさんの服を着ているってことは、この繊細な料理はみんなこの人が作ったのかな……そうは見えないけど。 そう心の中でだけ呟いたはずが、ぎろっと睨みつけられたので飛び上がるほど驚いた。 あわてて「こ、ここの料理すごいね。毎日こんなの食べてるの?」キッタくんに話を振ると、「まあね。それよりさっきから落ち着かない様子だけど、どうしたんだい?」……そんな墓穴を掘ることになったので、ご飯がおいしそうだからテンション上がっちゃって、などと苦しい言い訳をするはめになった。なにがあっても気にしない方が良さそうだ。 料理は見た目以上に味も一流だった。こうなると店の内装のほうが悪い気がしてくる。――しかし、ぼくが料理を絶賛するたび、キッタくんは苦い顔をした。 「どうしたの? さっきから。嫌いなものでも出た?」 「いや……そうじゃないんだけどね」 キッタくんの視線の先をたどって、ぼくはぎょっとした。 壁のあたりで、さっきのコックさんが腕を組んで仁王立ちしていた。ぼくたちの机をじっと睨んでいる。ぼくの目には、すこぶる機嫌が悪そうに見えた。……と、目が合うと彼は奥へと引っ込んだ。 ぼくは小声でキッタくんにうかがう。 「もしかしてうるさかった? それか、テーブルマナーとかちゃんとしてないと追い出されたりする?」やっぱりホテルのレストランなわけだし。そう言うと、キッタくんは「そんなことはないさ」ときっぱり否定した。 「だけどそう褒めないほうがいいな」 「料理を? なんで?」 「Tくん君、お腹すいてるかい?」 質問の意図がつかめない。「そんなに。っていうかいま食べてるとこだし。でもここの料理だったらまだ食べられそう」 「……僕は知らないぞ」 苦々しい顔でキッタくんは料理を口に運ぶ。なにをそんなに懸念しているのか、ぼくにはさっぱりだ。 「おいしいものをおいしいって言うだけだったらなにも――」 「そりゃそうだ」 ぼくの声を遮って、野太い声がそう言った。――それと同時に、だん、とテーブルの真ん中に皿が置かれる。声の主を見れば、さっき 「うまいだろう?」 「え?」 呆気にとられて反応が遅れた。それを聞いていなかったと思ったのか、「そのランチ、うまいだろう?」と不機嫌そうに同じ質問を繰り返す。その迫力に負けてぼくは「はい、とても」と何度も頷いた。 「だろ? それは俺の仕込みなんだ。秋の新メニューAセット、キネヅカスペシャルだ。それをうまいとは、味のわかる坊主じゃねえか。気に入った!」 ――と、ぼくは気づいた。コックさんの腰のあたりで、なにかが左右にぱたぱた揺れている。犬が嬉しいときにしっぽを振る、そんな感じだ。そんな感じというか、まさに、その――しっぽだ。 キッタくんを見る。キッタくんはため息と共に食器を置いた。 「キネヅカさん」 「き、キツネヅカさん?」 「きねづか、だ。餅をつく「杵」に塚の「塚」。――杵塚さん、こういうサービスはいらないと前に断ったはずだけど」 「うるせえなあ」とコックさん――キネヅカさんは露骨に顔をしかめた。「そっちの坊主に出したんですよ、二○五号室のお嬢ちゃん。あんた食わねえからそんなに不健康なツラなんだ」 「余計なお世話だね」とキッタくんが片眉を上げる。 ぼくは目の前に置かれた皿に目を移した。こういうのをなんというのだろうか……なんとかアラモード? 真ん中に盛られたクリーム状の物体を、取り巻くように野菜と果物と、あとアイスクリームとが渾然一体としている。これ、まさか一人分じゃないよな…… 「たんと食え、な。足りなかったらおかわりも出してやる」 と言ってキネヅカさんは鋭い犬歯を剥き出しにした。――笑ったのだ、と気づいたのはキネヅカさんが去った後だった。どういう服の構造になっているのかわからないが、服の間からしっぽが揺れている。やっぱり、どう見てもしっぽだ。キッタくんが気にしていないところを見ると、ぼくの気のせいかもしれないけど。――あとには、大盛りの皿だけが残された。 「どうしようこれ」 「さあ。まだ余裕があるんなら食べたらいいんじゃないか」と意地悪く笑う。 キッタくんはテーブルの上で指を組む。「――ところでパンドラの匣の話だけどね」 苦しんでいるこっちを後目に、自分だけは早々に食事を切り上げている。 「……手伝ってよ」 っていうか、キッタくんの口ぶりだと、明らかにこうなることを知っていた様子だ。こうなるって知ってたなら先に言ってほしかった。 「今でこそ『パンドラの匣』と言うけれど、元々この話で災いが詰まっていたとされるのは匣じゃないんだ」 そう言って不承不承といった顔で、ブドウを一粒、指で摘む。 「――瓶だよ」 「カメ?」とっさに浮かんだのは『亀』だった。というのも、この町のイメージキャラクターが亀のキャラクターだからだ。 「甲良のあるほうじゃなくて、瓶」そもそものイントネーションが違うだろう、とキッタくんがあきれた口振りで言う。「瓶、あるいは壷だね。それがどう変わったのか匣の形になった。瓶でも壷でも、蓋を閉めておくことはできるだろう?」 壷の場合は蓋っていうか、栓って感じだなと思ったけど、言うと馬鹿にされそうなので黙って頷く。 「いいかい、ここが肝心なところだ。パンドラの匣は、たとえその形が箱状をしていなくてもいいわけだ。僕らがさっき話した『禁后』では、家そのものが災厄を閉じこめておくパンドラの匣だったわけだろう? 匣でも瓶でも家でも、要は『閉じこめる』という役割が重要なんだ。そして無闇にひらこうとする者に災いをもたらす」 災いだ、とキッタくんは強調する。 「さっき部屋で話した『禁后』の話を思い出してごらんよ。引き出しの中身を直視した女の子は精神を病んでしまった。昔話にもよくあるじゃないか。見てはいけない、開けてはならないという約束を違えたために、ひどい目に遭うというお話は世界中、いくらでもある」 「よくわかんないけどそれって、浦島太郎が玉手箱を開けてじいさんになった、みたいな話だよね」 小さいころにこの話を聞いて、ぼくは子供心になんて理不尽な話だと思った。浦島太郎は好意でカメを助けたのに、どうしておじいさんにならなきゃいけないのか。そもそも開けちゃいけないなら、おとひめ様はどうしてそんな物を土産として持たせたんだ。……そういうことを訊いて、母さんを困らせた記憶がうっすら残っている。 「そう。理不尽だ」 キッタくんがひとつ笑って頷く。 「では、そうした昔話から得られる教訓はなんだと思う?」 「人との約束は守りましょう、とか?」 「人間は好奇心にはあらがえない、ということさ」 キッタくんが椅子を引いて立ち上がる。 「さあTくん、行こう。見せたいものがあるんだ」 「え、でもまだ」 食べ終わってないけど。ぼくがそう言うとキッタくんは「そんなものは後からどうにでもなる」と自分だけさっさと行ってしまう。 いいのかなあ。店の奥をちらっと見る。そこにさっきのコックさんがまた立っているような気がしたのだが、あいにく誰もいない。心残りなものもあるけど、まあいいか。ぼくはキッタくんの背を追いかけた。 back |