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「思水一景」

(2014/12/20)

#深夜の真剣文字書き60分一本勝負 
お題「水の音」「甘い誘惑」


 あの子の声が呼んでいる。
 なにを言っているのかまではわからない。でもそれはあの子の声だとすぐにわかる。またあの子の声だ、と、不思議な確信があった。
 それはいつも水辺で聞こえる。浴槽だとか、顔を洗おうとしたときだとか、第二校舎との間にある池だとか。
 私はいつもその声を振り払ってきた。だって水辺には、水面には、決まってあの子の顔が浮かんでいるのだ。水の間から、眠るように目を閉じて、浮かんでいる。
 なぜ水辺なのか。それは明白だ。あの子が水で死んだからだ。水で死んだ――自殺、したのだ、おそらくは。
 死の理由はわからなかった。その子はクラスでも取り立てて問題のあるような子じゃなかったのだ。大人しくて、目立たない。いじめられていたという話も、そんな様子もなかった。――少なくとも、私が関知しうる範囲では。
 遺書も残されていなかった。だからあの静かな女の子がどうして死んだのか、誰もわからなかった。だから私は責められた。責められた、ように感じた。彼女が死んだ理由に心当たりはないのか、本当にクラスにいじめはなかったのか。何度も何度も尋ねられた。その理由には、私がこの四月からの新任だというとも、深く関係したのだろう。監督不行き届き、私の処分が決まるのにそう時間はかからなかった。副担任との交代、それが私に告げられた処分だ。

 そしてあの子は今日も、水面に浮かんでいる。
 私は私にぶつけられた質問をそっくりそのまま繰り返す。
 どうして死んだりしたの。
 あの子は答えない。私は続ける。
 私がどんな思いになったか知らないの、私がどんな立場になるか、考えたりしなかったの。どうして、どうしてよ。どうして、死んだりしたの。
 あの子は答えない。動かない。死んだように、目を閉じている。
 どうして私を呼ぶの。どうして私の前にそうやって姿を見せるのよ。やめて。もうやめてよ。そうやって私を責めないで。私になにをしてほしいの。

 私の肩を誰かがつかんだ。決して強くはない力、けれどその手はしっかりと、私を柵まで引き戻した。私は池を囲う柵の向こうにいたのだ。
「泳ぐには寒いと思いますけど。水、もう十二月ですし」
 まだ若い声。声の主を振り返る。制服を着た男の子が、困ったような顔で私の後ろに立っていた。まだ幼さの残る、私のクラスに座っていてもおかしくないような男の子だ。どうしてそんな子が私の肩を掴んでいるのか、私はちっとも不思議に思わなかった。
「寒中水泳ならもっと、ちゃんと用意しないと」
「でもあの子、あの子が呼んでいるの」
「あの子?」
 彼は眉をひそめた。私は指をさす。水面にはまたあの子の顔が、目を閉じてたゆたっている。
 ああ、あれ。そう言うと彼は辺りを見回し、近くにあった手頃な石を手に持つと「よいしょ」と池に向かって放り投げた。ばしゃん、波しぶき。なんてことを、と私は思ったが、大きく波紋が広がるだけで、そこにあるのはごくしずかな水面だけだった。

「水はのぞき込む人の心を写す鏡らしいですよ」
 彼は私を柵の外に出させると、へたり込む私を支えてそう言った。
「受け売りなんですけどね、クラスメイトの。『呼び水』っていうらしいですよ。なにかの本にもそういう話があるって言ってたけど、そこまでは」
 忘れちゃったな、と頭をかく。その仕草はどこか子供っぽかった。本当に、どこにでもいそうな顔立ち。学校ですれ違っていてもわからない。そう思ったところで、彼の制服が他校のものだと気づいた。
「水は心を写すから、自分がしっかり心を持っていたら引っ張り込まれたりしないんです。心の持ちようってやつですね」
 私は半分上の空で聞いていた。この男の子は、ちょうどあの子と同じくらいの年頃だ。あの子――水で死んだあの子と。あの子が生きていたら、彼みたいな恋人ができたろうか。大人しいあの子には案外こういう普通の子が幸せをくれるものだ。

「ここ結構深いから、落ちたら上がってこれないかもしれませんよ」
「でもあの子が呼んでいるんだもの」
「駄目ですよ」
 彼はきっぱりと言い放った。
「先生はその子のことを言い訳にしてるだけです。本当は、仕事がつらいとか、家族とうまくいってないとか、たくさんあるつらいことを、その子の死と結びつけて、逃げ口上にしてるだけです。そういうのって、うまく言えないけど、駄目ですよ」
 ぼんやりとした風貌からは想像もできないほど、その言葉は耳に刺さる。あっけにとられる私に向かって、彼は続けた。
「生きてる人にあんまり強く思われると、死んだ人の方でも気になって成仏できないから。だからつらいけど、どこかで整理をつけなきゃ駄目なんです」
 どうしてこの子はこんな風に私に語りかけてくるのだろう。私はふと、それまで思いもしなかった疑問が浮上した。どうして彼は、私の学校の生徒でもないのに私が「先生」だと知っているのだろう。
「あ、すみません」彼はそこで我に返ったように頭を下げた。「今のは伝えてくれって頼まれて。ちょっと言い過ぎですよね」
 誰から、とは説明しなかった。
「あなたいったい」
「じゃあオレはこれで」
 誰なの、とこちらが問う前に、彼は立ち上がった。名前を聞く間も与えてくれないらしい。去り際にもう一度こちらを振り返り、困ったような顔で笑った。
「どうしてもっていうなら、お墓参り、来てください」

 そして私は今度こそひとり取り残された。
 ひとりになってようやく、冷えきった地面の冷たさを思い知った。もう十二月ですし、という先ほどの彼の言葉がよみがえる。柵に腕を伸ばし、私は立ち上がった。スーツのおしりは泥だらけだった。年末に入る前にクリーニングに出さないと。
 私はもう一度、水面をかえりみた。
 そこにあの子の顔はない。
 水面には、水面を見つめる私の姿が写っていた。





追記

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