蠍蝗
 

□アリスのワンダーランド

 古くから自然に根付いたものではなく、人が手を入れた真新しいものなのだろう。等間隔に並んだ木々の密度が薄いお陰で不思木の森は夜になっても真闇に包まれることはなかった。疎らな枝葉の合間から漏れる月明かりに照らされ、そこいら中で綻びた花――不思木の花が、ペンキでも塗りたくったかのように赤く艶めく。
「毒々しい」
 村に住む人間ならば誰しもが美しいと評する花に対してクドシュは端的な感想を呟き、大きなあくびを一つして眠たげに目許に滲む涙を拭った。
(毒花だ)
 己が生命を謳歌するかのように咲き誇った花から目を外し、改めて正面を向き直る。家というよりも小屋といった装いの、こぢんまりとした白壁の家――アリスが住むという家は、もう目と鼻の先だった。
 家の窓には薄橙色の明かりが灯り、辺りには甘いクリームシチューの匂いが漂っていた。家の中には確かに人の気配もある。
(ここだな)
 クドシュは確信を持って頷いた。
 悪魔はとても狡猾で自分の生に対する執着が凄まじい。用心に徹して自分が殺されない為の策を練り、住み処を持てば二重三重と罠を張る。クドシュは悪魔のそういった性質を知り尽くしていたし、それに対する術もまた同じく知っていた。何度か悪魔の住み処に乗り込んだこともあり、クドシュが今生きているという事実がその結果だった。
 しかし、そういった点を差し引いたとしても悪魔は強い。単純な力の強さは対処のしようもなく、そのままで大きな驚異になる。だからクドシュはどんな時でも悪魔への警戒を怠ったことはなかった。
 今回もまた注意深く、それでいてもうこちらに気付いているともしれない相手へと不穏なものを伝えないように、白く塗られた扉の前に立つ。
 ――有無を言わせる隙を与えず、一気に叩き潰す。
 クドシュは悪魔に相対する方法を知っている。狡猾な相手に下手な小細工など通用しないことも。だからこそ“不意打ち”と“力技”が最も有効なのだ。
 ――ざわざわ。
 涼やかな森の風が木々を揺らし、予定通りに身構えるクドシュの衣服の袖の中で何かが微かに月の光を反射した。
 途端。クドシュは攻撃の姿勢ではなく、両腕を体の前に防御の姿勢をとる。それと全く同時に目の前の扉が内側から砕け、クドシュの衣服を裂く木っ端の中心を貫いて岩のような拳が細い腕にめり込み、少女の体は容易く宙に投げ出された。
 そして、銃声。一発が響けば立て続けに二発、三発、四発――次々。森の中、四方八方から撃ち出された鉛の球は貪欲に、身を躱す術のない少女の身体を食い破らんと真っ直ぐに突き進んだ。
 ――ぎゃりんっ。
 およそ生物の肉を穿ったには似つかわしくない、金属的な鋭い音が森をつんざく。仰向けに吹き飛ばされた筈の体をいつの間にか俯せに反して、クドシュは両手も使い軽やかに“着地”する。それどころか、ゆっくりと身を起こして真っ直ぐ前を――アリスの家と、その前に立ちはだかる大男を睨み据えた。
「クドシュは」
 風がクドシュのローブを揺らした。確かにローブは銃弾が空けたのだろう穴だらけになっていた。しかし血の一滴も流れてはいない。何事が起きたのか確かめようと、木々の間からぞろぞろと各々武器を手にした村人たちが姿を現す。
「人間にはきょうみはない」
 人々の敵意に満ちた視線に曝された中、クドシュは気怠げな瞳で大男を睨みながら冷ややかに言い放ち、ボロボロになったローブをもぞもぞと少し手間取りながら脱ぎ捨てた。
 ――ざわり。
 俄かに人々の間で言葉が波立つ。
 少女の少女らしからぬ肢体は、腕といわず脚といわず、首から爪先まで鈍く光る太い鎖が巻き付けられており、それが全ての鉛の弾を受け止めていた。鎖の下にはぐるぐると隙間無く包帯が巻かれているが、唯一包帯の及ばない背中は黒々と焼け爛れて、少女の異様な姿を一層に引き立たせている。
「悪魔を――アリスを出せ」
 覇気の薄いクドシュの瞳が刃のような鋭さを纏い、その言葉の有無を言わせぬ強さに誰しもが黙り込んだ。緊張を孕んだ森の空気がぴんと張り詰める。使い慣れた猟銃を構えた人間ですら威圧という武器の前に人差し指一つ動かせず、アリスの家の前に徒手で身構える大男もまた同じだった。
 周囲の人間を圧倒しながらクドシュは、大男の背後に小さく震える人影を見た。
(そこか)
 呟いたのは口の中でだけ。他の人間を、己を狙ういくつもの銃口などは全て無視してクドシュが片腕を振り下ろすと、腕に巻かれた鎖が波打ちながら解けて猫の尾のようにしなった。
「アリスは、俺たちが守るんだ!」
 そう叫んだのは誰だったのか、村人たちにすらも解らなかった。しかしその言葉はこの場に居合わせた、クドシュとアリスの二人を除く全ての人間の意志の代弁であり、集まった村人たちは冷や水でも浴びせられたように一気に我に返った。人々は素早く包囲の輪を狭めると同時に、鎖の鎧が解けた腕やそもそも始めから防具のない頭を狙って次々と引き鉄を引いた。いくつもの銃声が爆発音のように重なって、しかし今度の銃弾はクドシュに届くことすらなかった。
 赤々とした“炎”の壁がクドシュを中心に立ち上がって襲い来る銃弾を呑み込み、そして熱だけを残して消え失せてしまったのだ。クドシュの前に立っていた人たちには何が起こったのかわからなかったが不幸だったのはクドシュの後ろにいた人たちで、彼らはそれを目の当たりにして、更に真正面から対峙することになってしまった。
「ぬるい」
 地を這うような低い声。
「ぬる過ぎて話にならん」
 自ずと立ち上る炎のような黒い髪に、こめかみから後ろに向かって伸びた刻みのある角。その下の獣のような大きな耳。赤い瞳を爛と光らせ炎のような下衣を纏う、クドシュの背丈を容易く越える筋骨隆々とした男。
「悪、魔……?」
 クドシュが“悪魔”だと言う少女よりも遥かに“悪魔”らしいそれが、クドシュの背中、黒い爛れからずるりと這い出したのだ。
「あ、悪魔だ! 悪魔が、」
「ぬ」
 男を指差し叫んだ村人の視界は、次の瞬間にはその“悪魔”の獣染みた顔に占められた。身じろぎさえ見せずに陽炎の如く彼の目の前へと移動した男が、三日月型に吊り上げた口の裂け目からぎざぎざと鋭い歯を覗かせた。
「クドシュ、鼻が利くのが居る様だぞ」
「違う。見たまんま」
“悪魔”は大きな手に掴んだ村人の顔を矯めつ眇めつしながら嬉しそうにクドシュへ背を向けたまま報告をしたが、少女は淡々と首を横に振る。
「なんだ、つまらん」
 ――ばぎゃり。
「がぐぁっ……!」
 砕けた。男がたった指先に力を加えただけで村人の顎は木っ端か何かのように容易く砕け、男はこの世のものとも思えぬ陰惨な悲鳴を上げる哀れな被害者をもう要らないとばかりに投げ捨てた。
「悪魔はクドシュがやる。人間はお前にまかせる。なるべく殺すな」
 放置された村人を助けに駆け寄ることもできず、ただそうしただけで怯んで退いていく人々を面白くもなさそうに見回す男に、少女が単純な命令を下す。
「――“悪魔”アジタート」
“主”を脇目に入れる表情は不服といったものだったが、名を呟く声に呼応して、男――悪魔が、咆えた。

 悪魔が支配するのだから、この場には地獄絵図という言葉がうってつけだった。人々が軽々と宙を跳ね、炎に巻かれた人間が辺りを転がり回る。逃げようとした者は脚の骨を砕かれ、攻撃を加えようとした者は武器諸とも焼かれた。とはいえど悪魔が自ずから止めを刺すことはなく、命を落としたのは“たまたま当たり所が悪かった”人だけで、大概は重傷か酷い火傷を負うぐらいのものだった。
 その“地獄”から小柄な影が転がり出る。両腕に鎖を引き擦った少女――クドシュだ。クドシュは転がったままの勢いで真っ直ぐにアリスの家へと突っ込んでいく。それを止めようとした何人かは悪魔の灼熱の腕に捕われ、誰一人として妨害は叶わなかった。
 クドシュを阻む者はただ一人。始めにクドシュ自身を弾き飛ばした、未だ扉を守る大男のみ。
 ――じゃりんっ。
 駆けながらクドシュが鎖を真横に振るう。大男は丸太のような腕を盾に、今度こそクドシュの息の音を止めるべく身構えた。あの炎の悪魔さえここにいなければ、少女一人を叩き潰すことなど彼にとっては簡単なことだった。
「じゃ、ま、だ」
 その筈だった。少女一人が足を止めぬまま片腕を振り上げ、それに従い鎖がわななく。たった一本の鎖は大男の足首に巻き付き、次の瞬間、たった一本の鎖で大男は空を飛んだ。何が起きたのか解らぬまま彼は眼下に悪魔が描く地獄絵図を見送って、それから木々の砕ける音と全身を打ちのめす衝撃の中で気を失った。
 もはや、クドシュとアリスの間に立つ者はいない。後ろの人たちは悪魔が足止めをしている。呆然と立ち尽くすアリスの目の前に立ち塞がって漸く、クドシュは足を止めた。
 ――ちゅいぃーん。
 クドシュが掲げる両腕の先、意思を持つかのように鎖が絡んで組み上がり、巨大な銀色の鎚を成す。
「出てこい、“悪魔”」
 アリスの大きな瞳が更に、零れそうな程に見開かれた。



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