蠍蝗
 

□アリスのワンダーランド

 ――どぐしゃっ。
「あっ」
 鎚は重量そのままにアリスの小振りな頭を叩き潰す。鎚が叩き伏せるまま俯せに倒れた体は命令するものを無くしてひくひくと僅かに動くばかりで、すぐにそれすらしなくなった。跳ね返った血だとか脳だとか頭蓋骨のかけらだとかは蛞蝓のようにクドシュ自身やその武器にこびり付いて、じわじわと広がる真っ赤な血は床や地面に吸い込まれていった。
 それを後ろから目撃していた村人たちは誰しも動きを止め、その相手を一手に引き受けていた悪魔もまた暴れるのを止めた。
 大勢で作る長い長い長い沈黙。
 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………。
「どうやら“悪魔”はいなかったようだ」
 暫く足元を見詰めた後、クドシュはやれやれとばかりに呟いた。“アリスだったもの”に食い込んでいた鎖が解け、するするとクドシュの体に巻き付いていく。
 ――ざわざわ。
「アリス、が」
「アリスが、死んだ……?」
「俺達のアリスが」
「死んだ」
「死んでしまった」
「殺され、た……」
「アリスが」
 ――ざわざわ。
 ただ立ち尽くしていた人々の間に波が起こる。口々にアリスの死を嘆き、そしてクドシュは人知れず悪魔を見遣った。悪魔も密かに頷きを返す。こういう場合にどうすれば良いのか、クドシュも悪魔も良く知っていた。
(にげるぞ)
(うむ)
「どうすれば良いんだ」
 ところが。
「アリスがいないなんて」
 今回は、
「俺達は明日から誰を支えに生きていけば良いんだ」
 いつもとはだいぶ様子が違うようだった。
「誰か、代わりに――」
 大勢の視線が一気にクドシュへと集中して、次なる声にクドシュも悪魔も身構える間もなく拍子抜けした。
「良く見ろ、可愛いぞ」
「アリスにはなかった胸がある!」
「なのに顔は少女だ!」
「きょにゅうろり!」
「名前は?」
「クドシュだとよ!」
「クドシュたん!」
「飾り気がなくも色っぽい包帯姿!」
「気怠げな目!」
「控え目な髪の色! しかもツインテール!」
「俺も縛ってください!」
「いや!」
「俺達の心の支えになってください!!」
「む?」
「ぬ、ぬぬ、待て貴様ら!」
 一気に沸き上がる人々が雪崩となってクドシュのもとへと押し寄せた。その勢いは悪魔ですら止められぬ程で、怪我をしている者もそうでない者も男も女も誰も彼もクドシュへと殺到し、アリスの死体を踏み付けながらクドシュを揉みくちゃにしてあっという間に担ぎ上げた。
「クドシュ! クドシュ! クドシュ! クドシュ! クドシュ!」
 巻き起こるクドシュコール。人波に洗われながら、クドシュは抵抗どころか反論することもできなかった。
「貴様ら……」
 ただ一人、取り残された悪魔が握る拳を震わせる。
「貴様ら! クドシュはワシだけのモノだ!!」
「そこまでだ!!」
 ――たーん。
 悪魔が咆えると殆ど同時に一発の銃声が夜空に響き、再び森に静寂が戻った。
「む。けいぶとやら。助けろ」
 祭り上げられたクドシュの視線の先には、銃を手にした警部とそれから巡査がいた。そうしてまた一悶着の後、漸くクドシュは人々の上から下ろしてもらうことができたのだった。

「アリス・キャロル、四十九歳。――死亡。遺体の損壊が激しく、直接の死因は不明。恐らく“事故”による頭部損壊、だと……」
 夕日の良く入る小さな警察署のデスクについて、巡査が出来上がったばかりの書類を読み上げた。アリスが死んでからほぼ一日が経ぎて検死に現場検証、事情聴取といった業務が一通り終了し、警部と巡査は漸く一息つくことができた。今は清掃員の装いの警察官が家の掃除にあたっていることだろう。
「“事故”、な……」
 警部は煮詰まったコーヒーに口をつけながら、部下が手に持つたった数枚の紙を睨んだ。アリスの死は間違いなく事故などではない。警部はその瞬間を目撃していた訳ではないが、長年勤めた刑事としての勘がそう告げていた。
「こればっかりは……仕方ありませんよ。相手が“教会”の人間となると、我々一介の警察に手出しは……」
「ふざけんな!」
 警部がデスクの隅に拳を叩き付けた。ぎしぎしとデスクが軋み、警察署内の疎らな視線が集中する。
「金だ? 権力だ? ふざけたこと吐かしてるんじゃねえ、警察はそんなモンに屈したりしちゃいけねぇんだ! 嘗めやがって!」
「警部……」
 世界の裏を掌握する、目に見えない強い力。そういったものは何よりも警部が嫌うものだった。凶悪な犯罪を暴くべく刑事の道を選んだ警部だったのだが、実際は突き止めた犯罪の一部はそのまま闇へと葬られていく。犯人がその人間では都合が悪い、というだけの理由で。そして今回のこの事件だ。長い間追い続けたアリスが死に、不自然に書類が改竄された。
「俺はこの犯罪を暴く……必ずな」
「お付き合いさせて頂きます、警部」
 決意に滾る警部の目に迷いはない。強く頷きを返す巡査の目にも迷いはなかった。
「それにしても――あの外見で四十九とは……悪魔でなくとも魔女ぐらいではあったかもしれませんね」

「クドシュ、クドシュさんは見付かったか!?」
「いや、こっちにはいない! あっちを捜せ!」
 てんてこ舞いに右へ左へと人が走り抜けていく。不思木の枝の上に潜みながら幹に身を寄せて、クドシュは右往左往する人々の動向を見下ろしていた。
「けっきょく誰でも良かったんだな」
(つまらん奴らだ)
 クドシュが心底呆れたように呟いて、背中に戻った悪魔がそれに同意を示した。
「人間って、ばぁか」
 漏れる欠伸はそのままに、涙で滲む視界を伏せた。一眠りして、真夜中静かになった頃にこっそり逃げ出して、それから二度とこの辺りには近付かない。クドシュはそうすることにした。クドシュがいなくなっても彼らはまた都合の良い“アリス”を見付けるだろう。これから何十年と先、大勢の人間の心の支えとして生きるだなんてまっぴらごめんだった。何よりも自分には“悪魔”を祓うという立派な役目があるのだ――“悪魔”は例外なく、一匹たりとも残しはしない。
(ワシはクドシュ一筋だぞ)
 そんな内心を知ってか知らずか、背中の“悪魔”はお気楽そうだ。クドシュは外からじゃそうと解らない程ほんの薄く、瞼を持ち上げた。
「……ばぁか」

「いた! いたぞ! あの木の上だ! 捕まえろ!」
 村の人たちは、まだまだゆっくり寝かせてくれそうにはない。クドシュと悪魔は、揃って深い溜息を吐き出した。

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