蠍蝗
 

□アリスのワンダーランド

 ルイスは冴えない青年だった。人目を引く風貌という訳でも特別に賢い訳でもなく、家は平凡な農家で、生まれ持った才能という類のものとも縁遠い人間だった。人並み外れた個性もなく、この村に生まれ育った男がみんなそうであるように、ルイスもまたアリスに恋い焦がれた。
 アリスは誰にとっても憧れの存在だった。短く切り揃えた黒い髪、硝子玉ような大きな青い瞳。小振りの鼻はつんと上を向いて、薄い紅色の口を開けばそれはそれはかわいらしい声で笑った。天真爛漫で細かく気が回り頭も良く、少しでもアリスと話をすれば男でも女でもみんなアリスのことが好きになり、不思木の森の外れのアリスの家には毎日引っ切りなしに贈り物や恋文が届けられた。
 そんなことだから、ルイスは自分とアリスとではとても釣り合わないと自覚していた。アリスには次から次へと取っ替え引っ替えできるぐらいに相手がいたし(もっとも、アリスが誰かと恋仲になったという噂が流れたことはたったの一度もなかったが)、その中に一体どれぐらい自分よりも魅力的な男がいるのだろうと考え始めるときりがなかった。だからルイスは、アリスのことは遠巻きに眺めているべきなのだと日々自分に言い聞かせていた。
 それでもアリスへの強い想いは日に日に募り、やがてとうとう耐えられなくなったルイスは仕事が終わった夕暮れに、農場で摘んだ質素な花々を束ねてアリスの家へと出掛けて行った。結果がどうあれアリスに心のうちを伝えれば、どうにかなりそうな想いも鎮まるだろうと思ったのだ。
 不思木の森はまさに花の盛りだった。艶やかに色付いた赤い花はルイスが用意した花束よりももっときれいに見え、ルイスは少し惨めな気分になったが、アリスのことを考えると引き返す気にはならなかった。
 空にちらほらと星が見え始める頃、ルイスはアリスの家に着いた。アリスの家からは良い匂いが漂ってきていて、花よりも何か食べ物でも持ってきた方が喜ばれたかもしれないとルイスは後悔した。こっそりと窓から中を覗き込むとアリスの家に客はいないようだった。白く塗られた扉の前に立ち、アリスに会ったら何をどう言うか、一人の部屋で何度もそうしたように思い描く。
 ――先ず夜の挨拶を、それから軽い冗談の一つや二つ、アリスを誉めて、笑ったところに想いを告げる。
 花束を強く握り直し、深呼吸をしてたっぷり数分、決心を固めるとルイスは軽く扉を叩いた。
「はぁい」
 ルイスはその声がアリスの声だとすぐにわかって、それだけでもう心臓が痛い程に跳ねた。滝のように流れる汗を森を抜ける夜の風がさらっていったが少しも涼しくはならなかった。
 ――ぎいぃ。
 扉が開く。
「どちらさま?」
 目の前に、アリスがいる。上目使いに不思議そうな顔をして、アリスが自分を見ている。ほんの僅かな瑕疵すらもない、きれいで可愛い憧れのアリス。
「アリス」
「ルイス?」
 ルイスは頭どころか視界すらも真っ白になって、自分が何を言おうとしているのかもわからなくなった。
「アリス、君を愛してる」
 混乱のなかにありながら、冷静にルイスを見下ろしているルイス自身がいた。
「僕と結婚して欲しい」
 こんな言い方をしたらアリスを困らせるばっかりだと、きっとアリスに変な顔をされると、ルイスを見下ろす冷静なルイスは悲嘆に暮れた。
「僕は本当に君を愛してるんだ」
 冷静でないルイスにはただ目の前のアリス以外に何も見えなかった。少し驚いたように、アリスもまたルイスを見ていた。
「……ルイス」
 アリスが長い睫毛を伏せる。やっぱりだと、やっぱりアリスに嫌われたのだとルイスの心は引き裂かれるようだった。
 逃げてしまいたくなったルイスを引き留めるようにアリスは、ルイスの手に握られたままの花束をルイスの手ごと取り上げて、それからもう一度ルイスを見上げで誰しもを虜にした完璧な笑みで口を開いた。
「ルイス、嬉しいわ」
「あなたとなら結婚しても良い」
 ――今、アリスは何と?
 アリスの一言は一瞬でルイスの思考から冷静なルイスすらも消し飛ばした。
「でも知ってる? ルイス。“愛してる”ということは“必要”ということなの」
「あなたは私が“必要”なのよね?」
「ならあなたは私がいないと生きていけない筈よ」
「私は今から少しだけ“いなくなってみる”わ。本当に私を愛しているのなら」
「死んでしまう筈よね?」
 無邪気に笑うアリスを前にして、ルイスは返す言葉を探すことすらできなかった。アリスが結婚してくれると言った。その為には死ななくてはならない。外ならぬ最愛のアリスがそう言ったのだ。
「ねぇ知ってる? ルイス。不思木の花には毒があるの」
「一口でも食べたら森中を走り回って死んでしまうのよ」
 花束は、地面に散った。

「クソ! 今週でもう五人目だ」
 地面に横たわった死体を目にするや否や、警部は口汚く毒づいた。
 死体はひどいありさまだった。足の裏の皮は肉ごと剥がれて指はもはや指の形を成しておらず、膝や臑からは折れて砕けた骨が飛び出ていた。奇妙にねじくれた体は穴という穴から血を噴き出して、血液は森中を真っ赤に染め上げていた。警部が通報を受けて駆け付けるよりももっと早くに駆け付けた蝿が卵を産み付けようと死体の周りを飛び交い、烏が啄んだのかもう既に眼球はなくなっている。
「被害者は恐らくルイス・リデル、二十四歳。昨日の十七時頃、花束を携えて不思木の森へと向かう姿が目撃されて以降、帰宅していないようなのでまず間違いないでしょう」
「花束、な」
 誰彼構わずたかる蝿を欝陶しげに手の甲で払いながら手帳を片手に巡査が警部へ情報を伝え、警部は不機嫌も露わに煙草に火を点けた。
「見たところ死因は不思木の花を食べたことによる中毒死」
「自殺だろう」
「えぇ、恐らく。しかし……」
「アリスが絡んでるのは間違いないんだ」
 警部はずっとアリスのことを追っていた。この村で殺人事件が起きたことは警部の知る限りでは一度もなかったが、とにかく自殺が多く、殊に若い男性の自殺件数は群を抜いている。そして自殺した人間はみんなアリスが住む不思木の森で死んでいた。警部はアリスが殺したに違いないと確信していたが、アリスが殺したという証拠は髪の毛一本だって出てこないのだった。そうして自殺者ばかりが増える。
「毒婦め……!」
「警部……」
 犯人が目前にいながら何も出来ない歯痒さに警部は奥歯を噛み締めた。何でも良い、アリスを逮捕するきっかけさえあればどんな手を使ってでも殺人を自白させるというのに――。巡査はそんな思い詰めたような警部が心配でならなかった。
「悪魔のしわざだ」
 ――がさがさ。
「何者だ!」
 突然に会話に割り込む第三者の声と木々の葉が擦れ合う音に、警部と巡査は揃って身構え声の主を探して真上を見上げた。
「クドシュは――」
 見上げた先。心許ない枝に座っていたのはただの、いや、ただならぬ少女だった。二つに結った薔薇が枯れたような色の髪、眠たげな瞳は赤みがかった焦茶色。年の頃は十代半ばといったところだが、体型を隠す暗色のローブの上からでも豊満な身体は見て取れる。身体と不釣り合いの少女の小さめの唇が今一度開く。
「……――“教会”の祓魔師」
 唖然と見上げるばかりの警部と巡査それぞれに覇気のない眼差しを向けて、クドシュはか細い枝の上に立ち上がった。吹き抜ける風がローブを靡かせ、暗い内で何かが微かな光を返す。クドシュはそのまま何の躊躇いもなく足場である枝から足を外す。
「アリスにはおそらく悪、」
 ――どぐしゃっ。
「あっ」
 真っ直ぐに木から飛び降りたクドシュの包帯を幾重も巻いただけの足が地面に転がっていた死体の頭を踏み抜き、飛び撥ねた頭蓋骨や脳のかけらが警部の皺だらけのシャツと巡査の皺一つないシャツを汚した。
“四”人分の長い長い沈黙。
 ……。
 …………。
 ………………。
「アリスにはおそらく悪魔がついてる」
「現場を荒らすんじゃねえクソガキ!」
 暫く足元を見詰めた後、何事もなかったかのように仕切り直すクドシュの頭頂部に警部の拳骨が振り下ろされる。
「なっ……!」
「警部!」
「悪魔のことはクドシュにまかせろ」
 しかし渾身の力の篭められた拳はクドシュの独特の色をした髪に触れる寸前で、それよりも一回りも二回りも小さいクドシュの手によって止められていた。
「この悪魔は隠れてる。だからにおいがしない」
 それどころか、鍛え上げられた警部の拳はか細い少女の手に握り込まれたまま、押しても引いてもぴくりとも動かない。この少女は一体何者なのだろう、長い年を経て研ぎ澄まされた警部の勘が危険だと警鐘を鳴らす。
「隠れている悪魔を引きずり出す方法は一つ」
「クソッ! 離しやがっ、!」
「警部、ご無事ですか!」
 警部がもう片方の手も使い力任せに引き剥がそうとすると、不意に手が離され反動にたたらを踏んだ警部を巡査が慌てて後ろから支えた。
「主のきゅうち」
 睨み据える二人分の視線に曝されながら、尚も己がペースで言葉を続ける少女が警部と巡査を見返した。
「窮、地……?」
「今夜、アリスをしゅうげきする。じゃまだてはいらない」
 気怠くも瞳には刃のような鋭さが潜み、強い意思は淀みなくクドシュの言葉を繰り返す警部を突き刺す。村人の安全を守る立場にある警部としてはクドシュの意思は受け入れ難く止めなければならないものではあったが、しかしこの意思により長年切望したアリスの逮捕が叶うやもしれぬという良からぬ欲望が首を擡げる。そしてそれ以前に、自分にはクドシュを止めることは到底できないのだろうと、警部は拳の痛みに己が無力を思い知っていた。
「悪魔は、クドシュが祓う」
 足に纏わる血肉を嫌そうに払い、ローブを翻して森へと溶けるクドシュの背中を見送る人間は、警部と巡査だけではなかった。



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