蠍蝗
 

□水底の恋

 モトリという生物がいる。彼らを生物と呼ぶことが正しいことなのか否かは知らないが、とにかくモトリと呼ばれているモノがいる。
 モトリは水のある場所に棲息していて、白い紐のような姿をしている。単体では非常に弱く、容易に踏み潰してしまえるほどだが、群れを成すと多少なりとも厄介な存在になる。モトリの住む水辺を通り掛かった生き物を集団で捕らえて水中に引き込み、その魂を喰って数を殖やすのだ。
 モトリ自体は魂を喰らうだけで、直接に生物の命を奪うことはしない。しかし、水中に引き込むことから、襲われた生物は水死してしまうことが多い。無事に生き延びたとして、魂の無くなったモノを生きていると言えるのかどうかは疑問だ。時たまモトリに襲われても魂を喰われることなく戻る者もいるが、喰われる者と喰われない者の境は未だ人の知るところではない。
 質の悪い性質をもってはいるが生物としては弱いモトリは、こちらが注意さえしていればそうそう被害を及ぼすことはない。それ故に、人間の集落の近くに発生したり、群れが大きくなりすぎなければ討伐指定にされることもなく、モトリの被害といえば、彼らを良く知りもせずに自ら駆除に赴いた人間が喰われた、という報告を時たま目にする程度だ。

 宿の主人に職業を聞かれ、正直に生物学者だと答えたのがそもそもの間違いだったように思う。生物学者ならモトリを知っているだろうという話になり、嫌な予感はしたが頷きを返すと、あれよあれよという間に長の家に連れて行かれモトリの駆除を任されてしまった。
 古くから神が宿るとされて信仰の対象となっていた泉に、モトリが住み着いてしまったそうだ。泉の水を日常生活に使ってはいないので王都の討伐隊を呼ぶこともできず、今まで何人かが駆除に赴いたが犠牲者が増える一方で、非常に困り果てていると長は語った。長の悲痛な表情と必死の頼み込みを無下にすることもできず、そもそも断らせてくれそうになく、渋々首を縦に振ってしまったという次第だ。とはいえ、私自身モトリという存在に興味もあり、謝礼も出るということでそれほど悪い話でもないように思えた。

 昨夜の顛末を思い返しながら一人、件の泉へ続くという道を行く。森とも言えぬような薮の中の道は、道といっても足元が均されているという訳でもなく、草木の占める割合が左右よりかいくらか少ないといった程度のけもの道だ。歩いているうちに薮に迷い込んでいるのではないかと不安にもなるが、水の気配を頼りに道なき道を黙々と進む。手伝いも兼ねた道案内の申し出もあったが、一本道だという説明と、何よりこういう仕事は一人の方がやり易いという経験からそれは断った。
 薮に入って三十分程歩いたところで木々が開け、剥き出し土と土に連なり揺れる水面が目に入る。全く人の手が入れられていない鬱蒼とした薮の中にあって、燦と陽光の入る泉は深く透き通り水底を映し出していた。神性が宿るとされているのも頷ける、美しい泉だ。辺りに一切生き物の気配がないのは、モトリの為か、或いは元よりか。
 普段は外部の人間を一切入れぬという泉に立ち入れる理由を作ったモトリに不謹慎ながらいくらかの感謝をしつつ、その姿を確認しようと土の地面に踏み込む。ひどくぬかるんだ土は靴裏を浅く飲み込み、足の運びをいくらか阻害するが、さして気にする程でもない。モトリを刺激しないよう注意深く、そして襲い掛かられても素早く対応できるよう、剣の柄に手を添えて泉の渕へと近付きすぎぬように近付く。
 できるだけ遠巻きに底を覗き込むと、透明度の高い水の中でゆらゆらと揺れる白が見えた。群はそれなりの大きさがあったが犠牲者の数から予想していたよりも小さく、僅かに安堵を覚える。一人の手に負えない程の群ならば、討伐の要請書を書かなければならなかったろう。要請書には調査報告書を添えなければならず、王都に提出できるような詳細な調査を行うほど暇を持て余している訳でもない。
 その場から二、三退きつつ泉に種を一つ放り、詳しい水中の様子を窺う為に種へと意識を集中させて目を閉じる。水中は至って穏やかで、モトリも遥か昔からそこに存在していたように水に馴染んで静かに揺蕩う。異常といえばモトリが引き込んだのであろう生物の成れの果てぐらいなもので、それも稀に見える程だった。
 ――おかしい。
 モトリの数も、モトリが引き殺した生物の数も、あまりに少ない。そこに思い至るまでに、時間を掛けすぎていた。
 ず、と、背後の下方より耳に触れる液体を擦る音に、種から意識を切り離すと同時に剣を引き抜き様振り返る。姿も、気配すらも、そこには何も見当たらない。右へ、左へ、視線を振る。じわりと嫌な汗が額を伝い、今すぐにこの場から離れろと本能が警鐘を鳴らす。
 過敏になった感覚が、右足、厚い革のブーツの終わりに触れる感触を捕らえ、反射的に足を引きつつ足元へと目を遣る。黒に近い焦げ茶色の土から覗く、白。足に緩く巻き付く紐のようなそれを視界に捉えた瞬間、気付く。少なすぎるモトリの群に、本来ならば居る筈のモトリの居場所。水を多分に含んだ土の、その下の様相。
 瞬時に背中を這い上がる悪寒。“存在”を喰われるという嫌悪感と恐怖感に一瞬身が竦み、それを見透かしたかのように土から飛び出す無数の白が右足に絡む。嫌悪感を煽りつつ蠢く紐の塊へと、がむしゃらに剣の切っ先を突き下ろす。体の中程を分断されたモトリが人間のような赤い血液を吹き上げ撒き散らし土へと引っ込み、土を抉る剣先に刺激されたモトリが倍以上の数になって剣を覆う。その量と迫力に気圧されて、思わず剣から手を離し、左足を大きく引く。
 ばしゃり、と、水音を聞いて、瞬間遅れて、左足で冷たさを感じた。何か叫んだかもしれないし、声なき声だったかもしれない。誰か呼んだのかもしれないし、助けを求める人間などいなかったのかもしれない。
 首に、胸に、腹に、肩に、腕に、顔に、絡む、冷たさ。視界を白が埋め尽くし、強引に、それでいて迎え入れるような柔らかさで引かれるままに体が後ろに傾ぐ。背中が水面を叩く音を聞いて、それからはモトリの動く音しか聞こえなくなった。
 呼吸ができず、おそろしく寒かったが、それほど不快ではなかった。右手だけは自由なことに気付いたが動かす気も起きない。
 ただ一つ、気になったことは。
 ――ああ。
 ――そういえば。
 ――あの馬鹿の姿が見えない。
 意識は、水底に呑まれた。



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