蠍蝗
 

□悖の水面

「ほら、退け。喰っちまうぞ餓鬼ども」
 土の上にのたうって、かけらにありつこうとしているモトリをしっしと足で払ってやると、モトリたちは蜘蛛の子を散らすように水なり土なり各々の逃げ場へと逃げていく。
 泉と地面との境に立って、何処までも見透かせるような水を覗き込む。モトリの白の合間に揺れる、深い藍。捕らえ損ねられたか、捕らえる程でもないと見做されたか、自由になってゆらゆらと水中を漂う片一方の腕が、こちらへ延ばされているように見える。
「何やってんだ、馬鹿」
 揺れる掌を、嘲笑う。
 この泉は古くからモトリが棲んでいた泉だ。そこに後から人間たちがやってきて、神の住み処だ何だと言ってモトリからこの場所を奪った。僅かに残ったモトリたちは長い間虫や小動物の魂を喰いながら少しずつ数を殖やして、漸く人間からこの場所を奪い返した。だからこの場所のモトリたちは人間を憎み、居心地が良いとは言えない泥に隠れてまで人間を襲い、この場所を守り抜こうとする。その道理は重々承知で、自分も人間は好きではない。それにこの女を逃がせば、モトリたちに待つのは一匹すらも逃さない駆逐なのだろう。
 それを自分は知っている。自分がそれを知っていることを、モトリたちは知っている。モトリは弱い存在だから、他の存在の思考が解るのだ。モトリたちは、存在として存在していたいだけだ。だから自分と同じだ。
 昔いくらかの付き合いがあったとはいえ、今となっては女とは何の関係もなく、助けてやる義理などもない。ないが、
「餓鬼にゃあ勿体ねえ」
 モトリなどにくれてやるには、惜しい。
 水を分けて泉へと踏み入れる。水面から見下ろすよりかは深く感じるが、底に足を着けて胸あたりまでが水に入る程度の深さだ。彼女でも十分に立てるだろうが、それは身を戒めるものが何もないときの話だ。
 上体も水に沈め、底に蠢く白いうねりへと向かう。水が冷たく息苦しいものだとは知ってはいるが、潜ったところで冷たさも息苦しさも感じない。彼女はどうだっただろう。モトリの塊に手を延ばせば延ばした指先からモトリは逃げていく。やめて、たすけて、と懇願しながら逃げるしかないモトリの悲鳴を聞き流して、彼女の見かけよりも細い腰に腕を回す。数匹のモトリがそれを止めようと手首に噛み付くが、みせしめの代わりとして喰い殺してやると、やがてモトリの群は彼女を放して底に沈んでいった。モトリたちに対して謝ることはしない。謝ったところで、救われるモトリは居ないのだろうから。抱き抱えるようにして彼女の体を水面へと連れて行く。
 モトリに喰われないようにするには、単に強い魂を持てば良い。モトリは弱い存在だから、弱った魂しか喰えない。弱った魂は柔らかくて喰い易い上に甘くて美味いのだ。自分も魂を喰らって存在しているものだからそれが解る。弱った魂というのは、要するに絶望や苦痛や憎しみや悲しみといった、良くないものを多く蓄えた魂のことだ。多くの果実と同じように魂も腐りかけが一番美味い。
 彼女の魂は、いつから弱いものになったのだろうか。
「オイ、息、できるか」
 土に仰向けに寝かせて、傍らに身を屈めて眠っているような顔に問う。応えはなく、呼吸の音も聞こえない。普通の人間よりは死ににくい筈だったが、果たして彼女は溺死するのだろうか。少し考えたが。
「……仕方ねえなぁ」
 仕方なし、本当に仕方ないだけで、やましい気持ちなどはある筈もないのだ。

 気が付くとぬかるみを背にして寝ていた。辺りは暗く、夜風がしとどに濡れた服と髪の上を掠め抜け、寒いと気付けば途端に体中に鳥肌が立つ。こんな場所で何をしていたのだろう、と考えて一拍。まざまざと思い出されるのは意識を埋め尽くす白いうねりと、体の芯を侵される例えようもない感覚。慌てて重い上体を跳ね起こして、足元で揺れる水を覗く。陽光に負けじと辺りを照らす月明かりを透かして、限りなく透明に近い水の、底のモトリは心なしか縮こまっているように見える。モトリも夜が訪れれば眠るのだろうか、こちらに襲い掛かってくる様子はない。
「助かった、のか?」
 どこか浮ついて、はっきりとしない思考を無理矢理纏めようと呟いてみる。魂は喰われていないように思う。しかし、何故、捕らえておきながらモトリは喰わなかったのだろうか。或いは喰えなかったのか。懐かしい声を聞いたような気がするが、覚えていない。
 ……ともかく。早いところこの場を去った方が良いだろう。またいつモトリが動き出すとも知れず、考えることならばここでなくともできる。自分でも呆れる程緩慢に立ち上がって無用心にも泉に背を向けると、土に刺さった剣が目に入る。凝固して茶色くなった血がこびりついた刃を見て今更ながらに現実だったということを実感する。もうモトリに襲われる気はしなかったが、仕事の続きをするのは止めておいた。

 それからのろのろと宿に戻ると、宿では長が待っていた。長に自分の手には負えないことを話し、必ず討伐隊を呼ぶということを約束した。調査など行わずとも、体験が何よりの報告になるだろう。翌日は陽が昇ると同時にその地を後にして、その後、あの泉のモトリがどうなったのかは知らない。もう二度とモトリとは関わりたいとも思わないが、モトリの水底はどうしようもなく居心地が良く、モトリに喰われるのも悪くはないと、そう思っていた。

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