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 きゃー、と、どこか遠くでそんな声がした。いつのまにか頭を垂れていた体勢からふと覚醒して起き上がった青峰は、いつものざわめきの教室内に特にとなんの感想も抱かず、まだのろい動きで頭を掻いた。
「青峰、脚ジャマー」
 投げ出した脚を小突かれて、それを軽く畳む。高校男子の平均身長どころか日本男性の平均身長すら軽く超越した青峰にとって、学校机に脚を収めることなど苦痛の他何物でもない。青峰よりもさらに大分長身の紫原など、それはもう可哀想な有り様だと思う。律儀に毎度、窮屈にも机に収まってやる緑間の気が知れない。
 今も緑間の背は、ピンを真っ直ぐに張って脚も綺麗に揃えられるばかりだ。ほんとうに、まったく、気が知れない。今は休み時間で、あと2時間も退屈な授業は続くというのに。
 昼休みの時間がまだ充分残されていることを青峰は確認すると、その長躯でぐっと伸びをし、財布を手に教室を後にする。弁当はすでに早弁で消えている。購買の売れ残りのコッペパンとコーヒー牛乳のコンビが、青峰は決して嫌いではなかった。

 ざわめきの校内。マンモス校とだけあり、生徒の数はゆうに2000を越える。正確な数に青峰は興味がなく、知り合いや友人も取り立てて多い方ではない。バスケ関係で外の者と交流する方が多い位だ。故に、すれ違う生徒たちのほぼを青峰は存在すら知らず、また知ろうとも思わない。
 購買にて、そこらの生徒達なんかよりずっと気心の知れたおばちゃんからコッペパンと、コーヒー牛乳がなかったからイチゴ牛乳を受け取った青峰は、廊下の奥で上がったきゃーという声を片耳に聞きながら、踵を返す。背を向けた食堂入り口のほうから、女達のかしましい声が重なってする。青峰の目的地は体育館で、方向は逆だ。
 歩くにつれ遠ざかっていく女達の声。動かない声の発信地から、きっと足留めを食っているのだろう。ご苦労なことだ。

 青峰が、その存在を知ったのはきっと遅い方であったのだろう。青峰がそれを知った時にはすでに全校生徒がそれを認識していたと思っていい。
 自分たちバスケ部に関する噂話にすら疎いのに、その他のことになど機敏である訳がない。――5月のおわり、とても中途半端な時期に転校してきたその存在は、登校初日の門を潜った一瞬にして・・・否、登校途中の段階ですでに、学校中の話題を攫ってしまった。人は、口を揃えてその存在をこう言った。あそこまでの美貌をこれまで見たことがない。
 青峰はそれを聞いた時、まずその噂話を齎したサッカー部の友人が"美貌"なんて言葉を知っていたことに驚いた。そして、その存在というよりもこの阿呆な友人がそんなこっ恥ずかしい言葉まで持ち出して表現したことに、感心した。ビボウ、青峰の口からはいくらこねくり回しても出てきそうにない形容だ。
 噂話を聞いても、青峰には特にと思うこともなかった。人並みに、そこまで言われる転校生の容貌がどんなものであるか見てみたいような興味にも駆られたが、そこまでだ。実際に行動に移すことも、それ以上の情報を他から聞こうともしなかった。
 青峰はぼちぼち口に馴染できた弁当の味と、そこそこ気に入りのコッペパンとコーヒー牛乳のコンビと、そしてバスケと、つまらなく冗長なだけの授業があればそれで満足だった。

 時折のイチゴ牛乳もアリである。青峰はそんなことをつれづれ思いながら、第1体育館近くの水場まで辿り着く。第1は主に授業や全校集会、そして放課後はバドミントン部やバレー部に使われる体育館で、授業以外ではあまり青峰の用のない場所であった。しかし校舎からは一番近く、建造も一番古いためコツを知っていれば裏手の倉庫から簡単に用具――バスケットボールを取り出すことが出来る。古倉庫で、壊れた器具や古くなった道具を収めているだけの場所らしいから、管理も甘いのだろう。
 黒ずみ、凹凸は鞣され、ロゴプリントなど当然のようにかき消えた古い古いバスケットボール。使い古されたそれは、しかし空気を入れ直せば未だ充分な鼓動を青峰に伝えた。水場に寄り掛かり、コッペパンを齧りながら片手間でボールをつく。
 別に健気にも昼練などをしに来た訳ではない。第1のリングは常時上に畳まれているし、本気で練習するつもりならこのボールは使わない。一応ボールにも、古い新しいがあるのだ。経過年数ではなくて、ボールのデザインや性能の話だ。新しいモデルの方が当然、性能はよく大会公認球に近い。微々たる差ではあるのだが。
 慣れ親しんだ振動、鼓動。柔らかくしなる手首に、見る者はまるでボールが手に吸い付くようだと表現する。青峰は違わず、天才であるが、青峰の今があるのは幼い頃よりこうして常にボールとともにあった故であったり、それとともに積み重ねてきた努力故であった。人は知ろうとしないだろうが、青峰は毎日欠かさず、風呂の中で手首のマッサージをする。決して感覚が鈍らないように。いつも柔らかく、そのボールを操ることが出来るように。

 青峰にもかつて、人の目が、口が、恐い時期があった。人の噂する自分の話が怖くて、向けられるなんとも言えない瞳たちが恐かった。
 しかし青峰はそれに、長い時間をかけ、ゆっくりと、折り合いを付けた。今の青峰はもう、やけくそに近かった中学最後の頃の姿では、ない。
 高校にあがり、様々な出会いをした。なかには青峰と同じような苦悩を抱えた者もいた。バスケのみならず、ここはあらゆる部活動が盛んな超強豪高校だ。全国各地から、優秀な、そして強い意志を持った若者たちが集まってくる。
 欠かさぬ努力の末に、それでも破れることもある。青峰は一年の夏頃よりすでに一軍だったが、反面、3年間3軍にいる者もいる。実家を遠く離れてまで、ここに来る者もいる。同じ一軍の赤司や紫原も、そんな内のひとりだ。
 ここにはある種の完全なスタンドプレイが存在し、そしてそれと同時に、チームプレイも存在する。どちらも、高みを志すには欠かせぬ要素。
 青峰は多くの仲間と歩むことを知り、そしてもう、孤独に耐えることが出来る。
 静かに鼓動する、ボールの音。校舎と体育館の間、人の姿のない影のかかった空間。茂った木の向こうからの、木漏れ日。
 ボールを掴み、ぽーんと上へ放り投げた。垂直に上がったボールは素直に降りてきて、それを掌ではなく手の甲で弾く。再びボールは上へ、また落ちてきたところで、今度は肘で弾く、上へ、落下、今度は肩。――舞い上がったボールを追う視線の向こうに、木漏れ日が瞬いた。思わず目を細めて、ヘディングするのはやめて掌に収める。そういえば、こうやってボールを片手で掴めるようになったのは、いつからだったっけ。

 ――校舎から体育館へ繋がる、屋根のついた渡り廊下。木漏れ日を逆光に浴びてきらきら光っているそれ。目が、

 それ、が、噂の転校生であると知ったのは、随分遅れてからのことだった。
 言われてみれば確かに、体育館の低い窓の向こう、その色の影を見るようになったのは5月の終わり頃からであったか。
 気付いてからこれまで、毎日、毎日、その影は欠かさずやってきた。いつの間にやらいて、そしていつの間にやら消えている。
 変な奴だな、と思っていた。遠目に見る限り同校の制服であったし、ミーハーな気配も感じなかったので放っておいた。気になって気が削がれるほどでもなかった。でも、なんとなく。時折見てしまう。
 だってふわふわと風に揺れるそれがとでも目を惹く色をしていた。
 なんとなく、目に、とまった。

 かしましい女達から逃げてきたのだろうか。こんな特にと用の無さそうなところまでやってきて。転校生はふっと目を逸らすと、長いコンパスで去っていった。遮られていた木漏れ日が戻る。ちょうど、置いたイチゴ牛乳に陽がかかる。
 温くならぬうちに、とそれを口にくわえて、青峰はドリブルを再開した。




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