〃   

 広がった血の海を少年は茫然と、座り込む。
 神父が止めどなく溢れる血を、どうにか取り戻そうと無様に床をもがく。
 海になった血を掻いて、言葉にならない唸りをあげる。
 その叫び声は、部屋の前にいただいちゃんのもとへも届いていた。
 皮肉なことにも、少年の叫び声には反応を起こさないよう擦り込まれていた子供たちだったが、それが神父のものであればその調教の範疇ではない。
 かつて聞いたことのない・・少年の悲痛な叫び声ならば幾度だって聞いてきたが・・神父の声に、だいちゃんは咄嗟に立ち上がり、扉へ駆け寄る。
 神父の私室に勝手に入ってはならない、呼ばれもしないのに近寄ってはならない。これも決められた約束事だ。条件反射的に、取っ手にかけた手のひらは固まって動かなくなる。しかし、扉の向こうから、少年のか細い声が聞こえているような気がしていた。
 これまで一度だって助けを求めることなかった・・・助けを求めることを知りもしなかった、あの少年のとても弱々しい声が。
 その声がだいちゃん、と呼んでいる。
 なにかが頭の中で弾けるように吹き飛び、大きな音を立てて扉を押し開いた。だいちゃんは、ずっとずっと、少年の苦しみを、どうにかしてあげたかった。そう"してあげたい"と思う気持ちの名前を、これまで知らなかったけれど。
 それは少年も同様で、鈍いナイフを握りしめたのは、その感情が起因とも言える。
 この日ふたりは圧された歪な環境のなかで、新たな感情の芽生えを自力で掴み取ったのだ。
 ――まもりたい、お前を守りたい――
 眼前に広がった血の海に、それでもだいちゃんは臆することなく突き進んで、茫然と震えてだいちゃんの名を繰り返し呟く少年を包み込んで抱き締めた。

――だいちゃん・・どうしよう、だいちゃん・・・・
――だいじょうぶ。だいじょうぶだから。今度こそ俺が、お前を守るから。

 互いが、互いの。ほんの僅かな希望だった。
 この右も左も、前も後ろも泥と闇に塗りつぶされた小さな世界において、お互いだけが、僅かな、ほんの僅かな拠り所で、はじめて目にした美しい輝きだった。
 そんな輝きをどうにか守りたかった。
 どうにもままならぬ世は、全く事を上手いこと運んではくれない。泥は足を取り、懸命な一歩を阻む。
 ・・覚悟を、しなければならなかった。

――でも、だいちゃん、おれ
――何も言うんじゃねぇ。・・黙ったまま、これでさよならだ。

 別離を覚悟しなければならなかった。
 けれど見捨てはしない。今度こそお前を守ると、守ってみせると決意しただいちゃんは、ぎゅっとぎゅっとひたすらに少年を抱き締め続けると、彼らを捕らえにくるだろう大人たちがやって来るまでを、そうやってずっと身を寄せて過ごした。
 お前はなにも、言わなくていい。そう優しく囁いただいちゃんは、少年の胸元の爛れた十字架を見て、自身もそれを背負うと、その時決めていたのだ。
 物の散らばった一室。すでに事切れた神父の死体、広がる血の波紋。そこに転がった、机上から転がり落ちたネームプレート。
 そこには神父の名が刻まれている。
 "ジェフ・ブリナン" ・・・・最初に咲いた、骸の薔薇の、名前。

 守るから――
 俺がお前を守るから――――

 14歳。それはある冬の日の出来事だった。
 殺人の罪で捕らえられたひとりの男の子の名前を、だいきと・・・青峰大輝と、言った。


 「マルチェロ」は少年の・・"彼"の美貌にとち狂って無理心中をしかけてこようとした奴。
 「フィル」は敵対組織からのスパイでこちらに潜り込んでいた元部下。
 「ガードナー」は彼の出世を妬む同僚。
 「真田」はその同僚から差し向けられた刺客(アサシン)。
 「シュバイガー」は組織を裏切ったタレコミ屋。
 「アバロフ」は重大なヘマをやらかした下っ端。
 「郭」はちょっかいをかけてきた敵対組織の大物。
 「ヘンリクセン」は組織の金を持ち逃げしようとした馬鹿。
 「ガルシア」はサツとの銃撃戦で瀕死のところに請われてトドメを刺してやったかつての部下。
 「」は仲介屋を騙って情報を流そうとした阿呆。
 「アハマド」は確保していた密輸ルートに横槍を入れてきた中東のゲスい金持ち。
 「ジャクソン」は青峰の出所の手回しに邪魔だったあの刑務所に対し権力を持つ他組織の重鎮 ……

 開いた薔薇、開きかけた薔薇、閉じたままの薔薇。
 ・・・どれも、彼はその名を知っている。誰より。なぜならその薔薇すべて、骸にしたのは彼だったから。


 ――――時はのぼる。
 青峰の独白のような呟きに、黒子は意味が分からない、という顔をして振り返る。

「なにも、していない?――・・どの口がそれを言うんですか!その腕の骸は、」
「俺の手はな、」

 黒子は困惑に、構えていたはずのシグ・ザウエルもさがってしまっている。照準がブレて、行き場なくただ地面を向いている。
 青峰は振り返らない。黒子にはただ夜に紛れかけるブルーの後頭部が見えるだけ。その顔が今どんなものであるか、窺う術はない。

「俺の手は、綺麗、なんだと。」

 "彼"は、真っ白で美しい手のひらでもって青峰の褐色の手を包むと、綺麗だ、と言った。とても無垢な顔だった。
 彼はそれを言う時、どこか誇らしそうで、そして目映そうだった。黒髪の向こうから、サングラスで隠さないありのままの瞳色をのぞかせて。彼は青峰を見遣って、まもれた、と、よかった、と、大事そうにまばたきを繰り返すのだ。

 青峰の手は、その言葉の通り、今も昔も、綺麗なままだった。
 その手が血にまみれたことなどただの一度も。たったの一度も、なかった。
 彼がそれをさせなかった。意地でも引き金を引いたのは彼だった。青峰が殺しかけた相手に対しても、必ず最後には彼がトドメを刺して上塗りした。
 人を斬り続けた刃が脂で曇るように、彼は青峰のあのまばゆい瞳を曇らせることだけはしたくなかった。そうなれば、今度こそわずかの希望を見失い絶望をするのは自分自身だとも彼は分かっていた。

 ふたりはずっと、自由を求めていた。
 なにも多くは求めない。世界が自分たちを放っておいてくれるだけでいい。そんな無欲な自由だけをふたりは欲していた。
 けれども世はそれを認めない。ストリートに出ると同時、出来るだけ目立たぬようにと影を選んで歩んだのに、真っ黒な髪で路地の奥に紛れようとしていたのに。彼は何処に行っても好色な大人たちに目をつけられて、そして最後には抗う暇なくマフィアのボスに首輪を引っ掛けられた。
 それからずっと。そこからどうにか逃れる術を探していた。逃れるには、首輪を外すしかない。けれど首輪を外すには地位を上げるしかなかった。地位を上げるには、権力を得るには、手を汚すしか、なかった。
 彼は最初青峰をその渦へ巻き込むことを拒否した。青峰の最初の出所のとき、彼は青峰に自身の行方を隠していた。・・・けれど、青峰は彼を見付けた。そして青峰の真っ青な瞳は、訴えていた。――もう、ふたりは。少年だったかつての彼があのペーパーナイフを握りしめた瞬間から。一蓮托生なのだと。
 あの瞬間から、お互いの行動理由のなかには常に互いが潜んでいる。
 ふたりは、もはやひとつで、表裏で、それは運命なのだ。運命――嗚呼まるで三文芝居のなかに出て来るような表現。けれどもそれが、真実だ。青峰はそのことを絶対に、翻すことはなかった。彼を、まもりたかったから。彼が青峰をどうにかまもろうとするように。彼を守りたかったから。
 見ているだけでなにもしてやれなかった少年時代を青峰はこの上ないほどに後悔している。
 彼が成そうとしていることを今度こそは支えてやりたい。それに、彼が万が一にも刑務所なんかに入れば、どうなることだろう。あの容姿では、確実に"狙われ"てしまう。たとえ彼がその外見以上にタフであったとしても。――青峰は考えるだけで心が峙つ。マグマのような怒りと不快感で、内臓が煮えたぎる。
 それに彼には青峰には出来ないことをやれる力があった。この世から抜け出す為に。蓄えなければならないものが彼にはあった。
 青峰は自身の無力を知っている。それはずっとずっと過去から、変わらぬことだ。それでも少なからず出来ることはあるはずだと、その事に気が付けたのがあの冬の孤児院での話だ。
 それからずっと、青峰なりの方法で、彼を守ってきた。彼が青峰を守るように。青峰もせめてもと。

「俺に出来たのは、ほんのわずかだけ・・・、跳ね返る泥を、被ってやるだけ。
 汚泥はいつも、あいつ自身がその手を汚して掻き分けた。
 俺には結局なにも手伝ってやることは出来なかった。
 あいつに降り掛かる泥を消してやることは。
 どうにか守ろうと、盾になるだけで精一杯だった。」

 黒子はその理解しにくい言葉を、なんとなく、漠然と、しかし確かに掴みかけてしまっていた。
 完全に力の抜けた腕が下がりきる。彷徨った視線が、無意識に青峰のスーツの裾から覗く茨のタトゥーを追った。その裾に隠された先。そこにはきっと、噂通りワタリガラスが"被った"罪の証の薔薇がある。
 その身に絡み突き刺さる茨は、青峰が自ら進んでこうむったもの。自らを戒めることを決めた、そして運命を共にすることを決めた、青峰の決意の証。どれだけの蕾が萌えようと必ずふたりで抜け出す。必ず、自由の荒野へ駆け出す。
 なにも多くは求めない。ただ世界から放っておかれるだけでいい。それだけの、なにもないところへ。ふたりだけで。そう求めて。


 青峰は最後まで振り返らず、とうとうその脚を一歩、踏み出して歩き出した。一歩一歩、距離が出来る。黒子にはもうそれに追い縋れる気がしなかった。
 黒子のなかに、これまで以上に複雑な感情が渦巻く。それはもはや複雑というよりも、カオスで、とても言葉では言い表せない色をしている。
 幼い頃抱いた憧憬は、いつまでも黒子の中に、歪な形にゆがみながらも残り続けていた。そんな憧憬などさっさと捨ててしまうべきだと黒子自身も分かっていた。それでも捨て切れない、拭い切れなかった願望。その願望がどれほど現実からかけ離れていることか黒子がなにより一番理解していた。その可能性を請いながら、けれども現実には一縷の望みも残されていないのだと諦めきっていた。・・・・なのにそれが、今になって。こんな時になって。"可能性"がほんとうは本当だったと知ってしまった。
 これは黒子が心の奥底で望んでいたことのはずだ。幼い頃の憧憬の相手が、今もかつてと変わらずのままであってほしい。
 その通り青峰大輝は――変わらず真っ青なままだった。眩しいほど。
 ・・・目眩がする。こんがらがった心の所為で、内臓までがゆがんで吐き気がする。気持ちが、悪い。こんなことってあるだろうか――・・混沌だとしか言えない感情が、黒子を支配した。言葉にできない。

 静かに、右手のシグ・ザウエルを懐に収める。
 スーツが捲れた拍子に、ゴールドのバッヂが見え隠れする。しばしその誇りを、黒子は取り返せそうもなかった。
 けれども激変するこの街は、事態は、黒子を待つことなどしてはくれなかった。
 ふいにポケットの端末が激しく振動する。条件反射に近くそれを耳に押し当てた黒子の携帯の向こうで、焦ったような相棒の声音が聞こえた。
 それは、どこか予定調和のような、予想外のような、事態の急変を知らせる連絡だった。
 黒子は散らばった頭のなかで、それでもピースたちがひとつに結集するイメージを持つ。
 やはり、すべては繋がっていた。まるでモザイクのパズルのように綿密に。周到に。
 鈍る脚をどうにか前後させて、黒子は歩き出した。そして脚は次第に力を取り戻すようにはやくなる。遂には駆け出し、携帯の向こうに現場へ急行することを黒子は告げた。

[内部抗争だ!組織の誰かが裏切って、屋敷で銃撃戦が起こっているらしい。
全員フル装備で召集、踏み込むぞ――!]



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