MIRROR-NEURON |


「チッ」

 あたりはすでに、先程までの薄暗さを忘れ周囲を照らし出されている。夜が明けていた。
 黄色のテープとビニールシートで囲われた一帯を、通勤中のサラリーマンや学生達が怪訝そうに邪魔そうに避けて通っていく。そのビニールシートの中で、ナニが転がっているのかも知らぬまま。
 青峰の目の前には、ひとりの男が横たわっている。
 おとこ――おとこ、だったもの――もはや、ただの肉塊だ。夥しい血量を垂れ流し、その肌の色と言ったらそれがかつては人だったとは思い難いほど青ざめくすんだ色味であった。
 開ききり、乾いて筋硬直した瞳の濁りよう。そこにはもう、生気もなにもなく、ただ、恐怖心の名残だけを残している。
 青峰が警官になってすでに10年経つが、その10年のなかでも随一の凄惨さだった。
「青峰」
 所轄署の先輩刑事に声をかけられる。そちらに向かうと、同署の同僚達が集まっていた。
「今回は相当やっかいだぞ。マスコミもすぐに騒ぎ出すだろう。」
 青峰の属する強行犯捜査係の係長が、殊更険しい顔をして口を開く。輪になった刑事達も同じような顔で頷いた。
「早期解決が第一だ。本日からこの件を署の最重要案件とする。青峰班だけでなく、若松班とも連携して当たれ。」
 男達の低い返事を聞き、係長は解散を言い渡した。
 みれば遺体も回収されようとしている。黒の死体袋に、あのおとこだった物が収拾されていった。朝の明るみのもと、すべてを隠す事出来ずそのあまりの残虐性を晒していた肉塊が、袋のなかに隠されていく。現場には、血で薄汚れたコンクリートだけが残った。
 そしてそれも、

「――――ああ、降り出したなぁ。」

 徐に降り出した雨に、流されていった。




 署内講堂にその張り紙が張り出されたのは、6月12日の事だった。
 事件発生から4日後の朝である。初動捜査にて犯人逮捕に至らなかった今回の事件は、本日から警視庁捜査一課の刑事達も加わっての特別捜査となる。"帝光町高架下猟奇殺人事件特別捜査本部"と書かれた墨書を、青峰は眠気眼でまじまじと見て、大きな欠伸をかみ殺した。寝汚い青峰がこんな早朝に起床したのは、この本部設営の騒がしさによってであるらしい。昨夜も遅くまで大量の書類どもと睨めっこしていた青峰は、家には帰らず署に泊まり込みを敢行していた。これは事件が煮詰まるとそう珍しいことではない。署内には青峰と同様に徹夜や泊まり込みでこの朝も早くから署内にたむろしている者は多い。
 渋く不味く匂いのない、もはや取り柄といったら火傷しそうなほどに熱い事くらいのコーヒーを啜りながら青峰は目の前の墨書を何度か読み直した。青峰が取り扱ってきた事件の中で、こうした正式名称のようなものがついた事件はこれまでなかった。つまり、特別捜査本部というものに加わるのはこれがはじめてだった。機捜では基本的に初動捜査にしか加わらないし、春先に刑事課に配属となってからもいくつかの殺人事件に携わってきたが、どれも比較的早期での解決が実現し、故にここまで捜査が長引くことはなかった。いよいよ大変なことになってきたな、というのが、起き抜けで頭の回りきらぬ今の青峰の、正直な感想だった。
 墨汁が乾いたばかりらしい、真新しい張り紙をこれは誰が書いたのかなどと無為なことを思いながらもう一度見直して、自分のデスクへとすごすごと戻っていった。
 SITに所属していた頃までは青峰も警視庁――所謂本店勤務であったが、その頃もSITの任務特性上本店刑事課との関わりがそうあった訳でもない。SAT在籍時などもっての他である。SAT隊員は警察官名簿からその情報一切が抹消される。同じ警察官と言えどその正体を晒すことは厳重な機密厳守義務のもと制限されていた。機捜に配属になってからは、本店刑事と関わる事も増えていったが、今回のように本格的に捜査を一緒にしたことはなかった。さてどんな奴らが来るだろうかと、朝の陽光もはっきりしてきた窓外に目をやりながら、青峰は伸びをしてデスクへと収まった。

 警察学校在学中、柔道等の術科の成績で好成績を収め、その運動能力を評価された青峰は、卒業後は地域課の交番勤務ではなくすぐに機動隊へと配属された。そこで2年近くを過ごした後は警視庁警備部警備第一課特殊部隊――通称SAT――に転属された。ここではSATの概ねの在隊期間である5年を勤め上げ、除隊後は刑事部捜査第一課特殊捜査第1係――通称特殊犯、またSITとも呼ばれる――に転属。元SATの隊員が配属される事も多いこの捜査係では、主に人質立てこもり事件や誘拐事件・恐喝事件などを担当する。その任務には現場への突入行動などの強硬手段も含まれている。そこから機動捜査隊に転属されたのが29の時。機動捜査隊とは主に事件の初動捜査や警らを担当する部署である。警察学校卒業以降、機動隊、SAT、SITと、警察内でも特に体育会系色の強い実動部隊に長く居た事から、元々の志望である"刑事"事件へ捜査員として介入したのはこの時がはじめてであった。そして、刑事への登竜門とも言われる機捜から念願の刑事課へ青峰が配属になったのは、30歳も終わりに差し掛かった春先の事。
 SATからの熱烈な再入隊コールをどうにか振り切っての転属だった。

 デスクにて書類を整理する事しばらく、青峰と同じ泊まり込み組の刑事らも起き出しデスクに出揃った頃、署の正面入り口が俄に騒がしくなってきた。廊下から同僚のひとりが顔をだし声を上げる。本店のお成りだ、と。
 ゾロゾロとスーツの一団が廊下を通っていくのが青峰の座るデスクからも見て取れた。映画やドラマのように、本庁と所轄の刑事の仲は必ずしも険悪という訳ではない。警察は異動の多い職場であるから本庁と所轄を行ったり来たりしているような刑事も多いのだ。なかには確かに、所轄刑事を下に見るような嫌みな本庁捜査員なんかもいたが、そういった警察内の確執でいうとキャリア組とノンキャリ組の間にあるもののほうがより顕著で陰湿だ。
 たとえば、ノンキャリ組であれば50年をようして、しかも大勢居るなかからのほんの一握りがようやっと警視まで昇進するが、キャリア組であれば30歳前でそこまで登り詰める事もさほど難しい事ではなかった。
 まず、警察庁に入庁した時点で階級は警部補となる。そこから1年もすれば警部で、現場にはほぼ出ぬまま警視になる。20代後半にもなれば所轄で警察署長をやることも可能だ。そしてその後も出世街道をひた走り、いずれは警視長、警視監、果ては警視総監。
 このような分かりやすまでの二重構造で、確執は出来ぬ方がおかしいだろう。
 今回特設される特別捜査本部の本部長も、青峰と同い年の警視であった。副本部長には、本庁捜査一課の課長と事件管轄の所轄署所長――つまり青峰の属する桐皇署の所長がつく。と言っても、この三人が捜査に関わる事はほぼない。報告を聞き、書類を整理し、時たま口を挟んで来る程度だ。本格的な陣頭指揮を執るのは強行犯係をまとめる管理官になる。
 廊下を行くスーツの輩の先頭にも、その管理官の相田の姿があった。
 この様子だとそう時間をおかず捜査会議が始まるなと、署内の刑事達も慌ただしく自分のデスクに散らばった書類達の整理に入る。
 よれて乱れたスーツもせめてネクタイくらいはキッチリ整えるべきだろう。青峰も、嫌いなネクタイを引き出しの奥から引っ張り出した。

 角が擦り切れよく使い込まれた手帳に、資料を纏め直した捜査ファイルを抱えて廊下に出る。署内の人口密度がいつもより多い。見慣れない顔の刑事が多くいた。
 そんななかで、ふいに青峰は声をかけられ、怪訝そうに振り返った。
 聞き覚えのない声で、振り返ったとてその顔にも見覚えはなかった。黙ったまま用を問うと、その相手は無表情のまま手を差し出してきた。
 それにしても、地味な男である。
「警視庁捜査一課第二強行犯捜査 殺人犯捜査第四係所属、黒子テツヤ巡査部長です。」
 折り目正しく、ご丁寧に長たらしい所属部署名を正式名称で言い並べてくれた黒子巡査部長は、続けて自身が今回の捜査で青峰がコンビを組む本店の刑事であることも述べた。
「桐皇署刑事課強行犯捜査第一係、青峰大輝警部補だ。まあ、よろしく」
「はい。」
 聞けば同じ年であると言う黒子に青峰はその堅苦しい敬語を和らげる事を求めたが、「普段からこの口調です。」と素気なく却下された。
「それに青峰警部補は上官でありますから。」
「いや、まあその通りだけどよ。」
 確かに青峰は、ノンキャリ組の同年代の中では階級が上であることが多い。これは青峰のこれまでの経歴が関係した。
「つっても俺、特殊部隊出だしよ。刑事歴はお前のが長ぇと思うし。」
 SATでは、全体的な隊員年齢が若い事もあるが、隊員全員が警察内でも選ばれた精鋭故、ノンキャリでも特に優秀と認められれば若くして20代の内に警部補や警部に登り詰める事がある。青峰もその例で、SATでの最後の1年間は、チームの小隊長も勤めていた。
「存じてます。」
「あ?」
 因に、SAT内の情報は如何なるものでも機密扱いである為、青峰が元SATであることはまだしも、その時の役職までは例え同職の刑事とてなかなか知り得ない情報なのであるが・・「なんで知ってんだ?」
「うちの上司――今回の捜査本部長ですけど・・赤司警視からペアの相手が青峰警部補だと言われた時に、そう一緒に仰っていました。」
「ふぅん・・まあいいか。分かってると思うけど、その事はあんま言いふらすなよ、一応機密?だし。」
「機密"?"ではなく確実に機密、です。分かってますよ、口は堅い方ですから。」
「はっ、結構言うなお前。ってことでよ、同年な訳だし、敬語は兎も角"警部補"ってのはやめてくれ。もうちっと軽く呼んでくれて良いから。」
 黒子は、一貫して変わらぬその無表情に、ほんの少し困ったような色を乗せつつも、どことなく固さの取れた響きで「はい。」と言った。
「では講堂に行きましょう。捜査会議が始まりますから。」
「おう。」


 事の始まりは、6月8日、桐皇署管轄内の騒音被害届提出数では最高記録を誇る、ある意味で有名な高架下からの通報だった。
 人が倒れている。暗いからよく分からないが、血のようなものを流している気がする。怖くて近くに行って確認はしていないが、死んでいると思う――これが、通報の内容だった。都内有数の高デシベル記録地らしく、その通報は雑音混じりで大変聞き取り難く、所在を聞き出すまでに少々の時間を要した。通報者は、恐怖で大きな声を出せない状態であり、さてどうするかと電話を受けた担当者が困っていたところ、隣の席で同様に通報電話の対応をしていた男が、思い出したようにこの高架の事を彼女に教えた。署内でこの高架付近は、"兎に角煩いところ"、という共通認識でもって有名な場所であった。
 そうしてようやっと場所を割り出した後に、近隣の地域警察官、機動捜査隊らに一斉に件の情報が回る。深夜も回った、午前2時14分の事であった。
 現場に最初に到着したのは、ちょうど付近を警ら中であった機動捜査隊の捜査官二名。サイレンを高らかに鳴らしながら到着した車両に、高架から少し離れた場所で恐怖に震えながら警察の到着を待っていた通報者が、ようやっと現れたメシアを発見した子羊かのように一目散に駆け寄ってき、現場へと案内する。
 現場に近寄りたがらない通報者に機捜捜査員のひとりが付き添い、ひとりが現場を確認。蛍光灯が切れ灯っている電灯と言えば数十m先のしがない一本だけ。そのなかでより一層の暗がりを作っている高架下で、懐中電灯を構え倒れている人物を確認した捜査官は、思わず一瞬言葉も息も動悸も忘れたと言う。そうして、一瞬のちにやってきたのは吐き気だった。思わず懐中電灯の矛先を逸らし、息を整える。警察官のプライドとして吐き気はどうにか抑え、再度"遺体"を確認――そう、捜査官は早々に悟っていた。この目の前で倒れている人物が、すでに生きていないだろうということ。
 そこから淀みない手付きで生存確認をし、ダブルチェックを行なった捜査官は気分を落ち着けながら無線を手に取り現場に向かっている全車に情報を告げた。

「現場にて遺体を確認。繰り返す。現場にて通報者確保。通報にあった人物は死亡を確認――――」


 機捜の到着から一分もせず近隣交番勤務の警官が到着、そこからまた時を置かず現場には桐皇署刑事らが到着、速やかな対応において現場は直ぐさま封鎖、深夜のなか、捜査で最も重要とされる初動捜査が開始された。
 しかし前日の夕刻からつい一時間前まで降り続いていた雨の所為で証拠の大部分が流されてしまっており、現場鑑識官らはとても難しい顔で捜査に当たっていた。遺体はギリギリ高架下にあったとはいえ、上半身の一部は雨ざらしの状態にあったし、それに道路自体が少々傾斜しており、調度道の端に雨水の溜まった道のようなものを作っていた。そこに、遺体の半分が乗り上げてしまっている。現場からの指紋採取は絶望的に近く、鑑識官はせめてものと殊更慎重に遺留品らを採取していった。
「どうだ?」
 ちょうど当直で、署内に居残っていた青峰がこの現場には担当刑事として出動していた。
 顔馴染みの鑑識官に声をかけるが、その返事はあまり色好いものではなかった。
「うん・・この雨がね、随分と流しちまってるな。」
 渋い顔でそう壮年の鑑識官は言う。手元の容器に幾つ分か、周辺に溜まっていた雨水や泥などを採取して密閉していた。
「科捜にまわして、何かしら出てくるといいが」
 容器に入った雨水をチャプチャプと揺らしてケースの中に収める。青峰なんかにはただの雨水にしか見えないが、科学捜査官にかかればこのただの汚れた水がなにによって構成されているのか、それはもう事細かく割り出してくれる。時にはそんな目に見えない極々微細な物証達が、事件の真相へと捜査官達を導いてくれる。
「そうか。」
 そういった分野は任せるしかないと、青峰も頷くだけに留める。立ち上がってもう一度眼下の遺体を見渡した青峰に、今度は現場検視官が声をかけた。
「青峰。」
「おう。」
 遺体傍にてしゃがみ込んでいる検視官は、青峰と同署に所属する今吉である。青峰とそう年の変わらぬ今吉だが、検視官というノンキャリの中でもそこそこな出世ルートを歩んでいる者で、その食えぬ雰囲気を青峰は好いても嫌うてもいなかった。今吉の方は、そういった青峰の分かり易く無関心露な対応に、反対に好感を持ったらしくこうして現場が揃った時などはよく気軽く声をかけてくる。
「こない強烈なんは、久しぶりやな。」
「殺しで決定か。」
「おん、疑う余地なし、やなぁ・・・すごい執念や。」
 目を細めて今吉が言う。検視官は、遺体の状態を検分しこれ以降の捜査方針を決める重要な役割を持っている。手袋をした手で胸元の傷を指した今吉は、息を吐きながら続けた。
「傷口は、ざっと数えただけでも20は越えとる。詳しい事は解剖にまわしてからやないと、なんとも言えんが・・どれも、ぶっすり深く体内に達しとる。相当やぞ、これは。」
 今吉は最後の一言に厚い意味合いを込めて呟いていた。それを聞き青峰も、どことない胸騒ぎを感じていた――大変な事件になる。この現場にいる捜査官誰もが、この事件の特殊性を、不確かながらもみな感じはじめていた。
 そしてその感覚は、すぐにも確かなものへとなる。
「警部!」
 捜査官のひとりが妙な顔で、今吉を呼ぶ。
 雨水で流された遺留品の捜索の為か、少し離れた道路側溝のコンクリの蓋を取り外していた体勢のその鑑識課捜査官は、呼び寄せた今吉と青峰に目線でその側溝内を見るように促すと、自身は一歩だけ下がった。
 最初はその側溝内に転がっているものを、今吉も青峰も、すぐに判別出来なかった。
 妙な物体が転がってるなとは思ったが、暗がりでよく形が分からない。現場に焚かれた照明を逆光で遮っていた今吉が体勢を少しずらしその側溝に僅かの光が差し込んだ時に、ようやっとふたりはそれが何物であるのかを判ずる。
 一挙に、ふたり揃ってなんとも言えぬしかめっ面になったのに周囲の捜査官達もそこを覗き込んできて、そしてすぐに青峰らと同様の表情を男達はしていった。
「・・写真。」
 今吉が、疲れきったような、やれやれといった溜め息を再び吐いた。今吉に指示されて写真係がその証拠品の撮影を行う。あらゆる角度で撮影を終えれば、鑑識がピンセットでそれを引っ掴み、容器に回収した。
 現場に集った男どもはとくに、なんとも言い難い顔をそれぞれしている。数人の女性捜査官――ピンセットでそれを摘んだのも女性鑑識官だった――だけが、淡々と再び現場それぞれの持ち場に帰っていった。
「ほんに、これから・・・大変なるぞ。」
 今吉がそう呟くように言った。小さな声は、直ぐ横にいた青峰にしか聞こえていなかった。今吉が、青峰に目線をやり頷く。
「他にも、雨で流された証拠があるやも知らん。側溝も隈無く捜査せぇ!」
 もうじき、夜が明ける。東の彼方が白み出したそんな空を青峰は徐に見上げて、そんな事を思った。雲の厚く滞った夜空を見れば、しばらくも不快な曇り空が続くだろう事が明白だった。それでも朝がくれば、辺り一帯は否応無しの太陽光に、照らし出される。
 その明るみのなかで、この無惨な惨殺死体はどうこの目に映るだろうか。・・・きっとその異常性を、より一層に露とするに違いない。
 女性鑑識官が慎重な手付きで仕舞った先程の容器。そのなかには、今青峰の眼下で横たわり、もう二度と目覚めない男の"肉体だったもの"がある。
 切り離されて、そうして転がって雨に流されて側溝の溝に挟み込んでいたもの。男の嘗ては大事な肉体の一部だったもの。それは、ただの肉塊にかえした、陰茎だった。



prev next









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -