イントゥ・ザ・ロスト
/作中、実際に存在する病名やまた死ネタなどの描写が淡く出てきます。苦手な方、読んでいる途中で少しでも駄目だな、と思った方はすぐにお引き返し下さい。
/青峰くんが精神的に不安定です。




 青峰にはなぜだかその瞳に見覚えがあった。青峰はどうしてかその瞳の全てを知っている気がした。青峰はなんでだろう、今、泣かなければと思った。

 今涙を流さずしてこの人生でいつ、泣き暮れる事が出来るだろう。




 突然だが、青峰大輝はバスケットを辞める事になった。まあ仕方のない事だ。なんたって青峰は自身の膝がパリンと言うのを聞いた。散らばった骨の形のガラス片がコート上に散らばった瞬間、青峰のバスケットボール人生は幕を閉じた。仕方のない事だ。
 ところで見舞いには沢山の友人達が来てくれた。遠路遥々海を越えてまで来てくれた者もいる。青峰はそれに「よう」と挨拶し、それなりの礼を持って歓迎した。職業というものを得て青峰もそろそろ10年を迎えようとしていた。いい加減常識というものも身に付いてくる。ああ、でも、その職業を青峰はつい最近失った訳だが。
 今後はどうしようか。取り敢えず日常生活に支障がない程度まではリハビリをしないといけない。まあこれは、以前アキレス腱を切った時や肩を壊した時に行ったアスリート用のリハビリに比べたら余裕のあるものだろう。なんたって青峰は今後、これまでのように48分間コートを駆け回る訳でも赤いフープと白い編み紐目掛けて高らかにジャンプする訳でも、なんでもないのだから。普通に歩行し、普通に座り・立ちと出来る程度まで回復出来ればいいのだ。あ、でも医者はなんと言っていたか……あの診察室で、レントゲンを見ながら何を言っていたのだっけ。駄目だ忘れてしまった。今度の診察でもう一度聞かなければ。人の話を聞かない癖は、未だ抜けきっていないらしい。これではまたさつきの奴に呆れられてしまう。
 ノックの後に巻き毛のグラマラスな看護師が青峰の病室に入ってくる。アメリカの看護師服は色気がない。そこを少々惜しいと思いながら、しかし青峰はこのくりんとした睫毛の女をそこそこに気に入っていた。
「Good mooning, ダイキ。今日の調子はどうかしら?」
「Hi, エルダ。いつも通りさ。」
「それは良かった。今日は外はいいお天気よ。散歩でも行く?」
「そんな気分じゃねぇかな。」
「そう、残念。でもずっと病室に居ても暇でしょう?映画かなにか、行ってくれば良いじゃない。」
「映画?って言っても、見たいのなんてないし。」
「今ね、素敵な映画をやっているのよ。美しくて、思わず泣いてしまうくらい。」
「お涙頂戴物は好かねぇんだ。」
「そんな映画じゃないのよ!ダイキもきっと見た事があるでしょう?夕暮れのラグーナ・ビーチのさざ波を。そんな静かで、自然体なお話なの。」
「へえ……。」
 エルダはベッドサイドのバインダーに何か書き込むと、微笑んで病室から消えていった。
 青峰はおもむろに、ベッドから起床した。


 未だ慣れないと、青峰は両の腕でせっせと車輪を漕ぎながら思った。バスケを辞めた癖に、腕ばかりは太くなっていっている気がする。車椅子とはただ直線に進むだけでも一苦労だ。青峰はまだ不慣れだった。
 ずいぶんな大回りで角を曲がりきり、青峰は汗をかいて病院から近場の映画館にたどり着いていた。座ったままではチケットカウンターが高いので、片足で立ち上がるとカウンターに体重をかけて支払いをする。スタッフが一人出てきて補助を申し出たが、それには及ばないので丁重に断る。
 チケットを確認しシアターへ向う。車椅子用に空けられたスペースに収まり上映を待つ。しばしもせずに照明は落とされスクリーンに光が点った。


 青年の瞳はまるで何も映していないかの様なガランドウであり、その透け色の瞳は常に空を彷徨い虚しさだけを注視していた。青年には花がよく似合った。花弁の色とりどりがよくその白い肌に映えた。硝子の様な瞳に色彩を反射させ、まるでその一瞬だけでも青年の瞳に温情を灯した。
 青峰は見ていられなくなって、途中でその場所を辞した。


 この地はカラカラと年中同じ様な天気をしている。だから映画撮影に適した地であるのだという。しかしスクリーンのなかの風景はシアンがかったグレーブルーであり、きっとあの映画は決壊間近の厚雲の空の下撮られたのだろうと、青峰は思った。帰らなければ。


「あらダイキ。早いお帰りね。なにか観て来たの?」
「いや、ただの散歩さ。」
「そう。じゃあ15時からの診察、忘れない様にね。」
「分かってる。」


 青峰の担当医の名前をアブドゥル・ラハーマンと言う。発音し難い名前は中東系のものであり、彼はイスラム教徒だった。イスラムでは先祖の名前をどんどん継承していくものらしいから、正式な彼の名前はもっと長いのだと言うが青峰はそれを覚えるつもりも尋ねるつもりもなかった。
 青峰はこれまでの人生で神というものを真剣に考えたことがない。居ようが居まいがどうでもいいと思っている。が、それを口に出す事はしない。大半の人間が宗教を持つこの国でそれを口にするのは、少々デリケートなことであるらしい。
 アブドゥルは綺麗な発音の英語でまず挨拶をした。彼は2歳の時からこの地で暮らしている。
「やあダイキ、調子はどうかな?」
「変わりはないよ。」
「そうかい。今日は散歩に出ていたって?エルダから聞いたよ。映画を見に?」
「いや、ただの散歩さ。」
「そう。街はどうだったかな?」
「いつも通りだ。」
「車椅子には少し慣れて来た?」
「少しね。まだ角を曲がるのに苦労してるけど。」
「うんうん。歩行練習はもう少し先にしようか。これからの時間はなにする?」
「さあ、決めてねぇ。」
「夕飯までまだ時間があるよ。暇じゃないかい?」
「ここのところ毎日暇で暇で死にたくなるほどさ。」
「…………じゃあ、エルダの話じゃないけど、何か映画にでも行って来たらどうだい?なんでも素敵な作品が公開中だって言うじゃないか。」
「映画?って言っても、見たいのなんて別に。」
「僕もコマーシャルで見たよ。美しい青年の出てくる物語だ。」
「青年?」
「……名前は分からないよ。でもとても慈悲深い瞳の青年さ。興味があれば行ってみると良いよ。そして僕に、感想を聞かせてくれ。」
「ああ……、考えとくよ。」


 内臓や脳に異常がある訳ではない青峰は毎食を病院の食堂に出向いて好きなメニューを食べる。今日はチキンと温野菜。ブロッコリーは少し火の通り過ぎで、青峰の好みではなかった。
 ふと目の前にムニエルの乗ったトレーが置かれる。顔を上げると正面に腰掛けてきたのは青峰の見慣れた幼馴染みであった。
「さつき。」
「大ちゃんはチキンなんだ。私はお魚が美味しそうだったから。」
「いつ来たんだ?」
「ついさっき。どう?元気してる?」
「別に同じ。」
「もう、そっけないんだから。」
 幼馴染みはふうわりと笑むとナイフ&フォークで食事に取りかかった。慣れた手付きで魚の骨を除いている。青峰は箸の使い方は意外に上手であったが、反面いくらやってもフォークは苦手であった。チキンにもそのまま手を使ってかぶりつく。
「大ちゃん今日はなにしてたの?」
「別に。いつも通り。」
「お天気いいんだし、散歩に出たりした?それとも……映画に行ってみたり。」
「ちょっと外に出たくらいだ。」
「……そう。」
「お前は?いつまでこっちいんの?」
「んー決めてないのよねぇ。頃合いを見て、帰るわ。」
「そんなんで大丈夫かよ。」
「あら心配してくれるの?」
「うるせぇ。」


 青峰の病室は角部屋だった。壁の二面に大きな窓がある。朝になると毎日、カーテンの隙間からカンカンの陽気が隙間を縫って入り込んで来た。
 ゆっくりと起き上がり病室付きのトイレに行き、適当な時間が経ったら食堂に朝飯を求めて向う。今日はスクランブルエッグの気分である。
 病室に戻りしばしすれば、担当の看護師が顔を出す。
「Good mooning, ダイキ。今日の調子はどうかしら?」
「Hi, エルダ。いつも通りさ。」
「それは良かった。今日は暖かいわ。散歩でもどう?」
「そんな気分じゃねぇかな。」
「そう、残念。でもダイキも暇でしょう?映画かなにか、行ってくれば良いじゃない。」
「映画?って言っても、見たいのなんてねぇし。」
「今とても素敵な映画をやっているのよ。今度のアカデミーにもノミネートされているって言うし。」
「あんまり興味がねぇな。」
「もったいないわ!悲しいけれど、でもとても美しい映画なの。ダイキもきっと知っているでしょう?この地に珍しい雨が降った翌日の、澄んだ空を。そんな純粋で、ささやかなお話なの。」
「へえ……。」
 エルダはベッドサイドのバインダーに何か書き込むと、微笑んで病室から消えていった。
 青峰はおもむろに、ベッドから起床した。


 青年は薄ぼやけたグレーブルーのなかに佇んでいた。明るい色の頭髪だけがそこに煌めいていて、まるで無風のようなくせにまるで舞うように浮ついていた。青年にはその胸に抱いたものがなにもなかった。青年の腕にはなにもなにも残ってなどおらず、なにも掬い上げてなどいなかった。空虚だけをその胴体周りに纏わせている。けれどふとした瞬間に青年はその明るい輝く頭髪を震えに揺らした。何かが揺れ動いた。ぱちり、頭髪と同色の黄金の睫毛が、はじめてのまたたきをした。
 青峰は居たたまれなくなって、途中でその場所を去った。


 カラカラの陽気と映画館の間は、冷房の心地よさと日光の心地よさのちょうど間にあった。上映中のポスターが貼られずらりと並んでいる。グレーブルーの一枚の前に青峰はなんとはなしに立ち止まった。書かれた文字を青峰は追わなかったが、その作品が誰かに捧げられたものであることは、なんとなく分かった。


「あらダイキ、お帰りなさい。どこかへ行ってきたの?」
「ただの散歩さ。」


「やあダイキ、今日の調子は?」
「なにも変わりないよ。」


「さつき。」
「大ちゃん、今日はハンバーグ?」
「お前いつ来たの。」
「ついさっき。」
「そ。」
「大ちゃん今日はなにしてたの?」
「とくになんも。」
「いい陽気なんだし、お出かけしてみたら?映画とかいいじゃない。私も来る途中素敵な映画ポスターを見たわ。」
「映画なんて滅多に見ねぇよ。」
「でも時間があるなら行ってみるのもいいじゃない。ほんとうに、素敵だったのよ。」
「わかったわかった、考えとくよ。」
「……うん。是非、そうして。」


 朝がくる。
 青峰はずっと思っている。どこかへ、帰りたいと。




 桃井の赤ん坊の頃からの幼馴染みの名前を、青峰大輝と言った。たった数ヶ月前まではNBAの大舞台で自由奔放に駆け回っていた男だ。その数ヶ月前、彼は取り返しのつかない故障をした。膝であった。
 桃井はその試合を日本から中継で見ていた。幼馴染みがいつものように高く高く誰よりも勇猛に飛び立とうとした瞬間に、すべての時は止まったのだ。ぴた、と停止した幼馴染みは今にも飛び立とうと振り上げた腕を下ろす事も忘れ自身の左膝を見下ろしていた。そのまま彼の周りの試合は流れ幼馴染みの信じられないターンオーバーから速攻を決められ相手チームに2ポイントが入った。しかしその頃には周囲も事の異変に気付きはじめていた。
 幼いときから地黒で、まるで外国の人のように肌の浅黒かった幼馴染みの顔が、見た事もない程に白く無色になっているのがTV画面越しにも桃井には分かった。
 青峰はおもむろに、崩れる様にかがみ込むと、まるで床に散ったなにかを掻き集める様な仕草をした。しかしそこにはなにもない。影も形も、なにもない。しかしそれが彼には見えている様だった。なにかを掬い上げた幼馴染みは、それをぎゅっとぎゅっと握り締めた。桃井はその握った掌を裂く大量のガラス片を夢想した。それは歪な骨の形をしていた。
 青峰大輝は骨肉腫であった。
 数日の検査の後、下された診断である。


 あの試合の後桃井はすぐにアメリカ行きの飛行機に飛び乗った。そして病室の青峰に対面したとき、彼はまるでなんでもないかのような顔をして「よう」と言ったのだ。だから桃井はもしかしたらなにも大変な事はないのかもしれない、と間違った安堵をその時した。そうそれはただの間違いであった。その翌日には検査の結果が出て、桃井は青峰の家族とともにその診断を聞いた。
 医者は切断の必要がある、と言った。そう言ったのだ。医者は切断しなければと言った。医者はなんと、あの、青峰大輝の脚を切ると言ったのだ。そう確かに言ったのだ。この神様に愛された至宝の様な美しい褐色の左脚を。切断すると言った。
 桃井は貧血で倒れる、と思った。血がざっと下がり目の前が白く染まった。そうまるであの時の幼馴染みの面相のように。白く無色に。しかし桃井が倒れる事はなかった。だってその幼馴染みがたった一言、「そう」、と。そう、と、言ったから。
 まるでなんでもないかのような声音をして「そう」と。
 桃井はその時青峰の心を悟った。


 桃井は助けを求める様に、誰かの名前を呼んだ。
 それに答えてくれるあのやさしくかろやかな声がもうどこにもないことを知っていながら。
 絞り出す様にその名前を呼んだ。

 そしてその日以降今日まで、桃井はその名を封印した。




「とても美しい映画なのよ。愛を知らない青年が涙とともにこの世の愛を悟るの。そして苦しみと悲しみと、愛の為の代償を知るの。青年の瞳のなんて無垢なこと。その姿のなんて尊いこと。とても、言葉で言い表せないくらい、とても素敵なのよ。」

「僕はその青年の瞳を一目目撃した瞬間からね、それが愛の物語であることを直感したんだ。まるで壮大な宇宙そのもののような瞳。つまり世への愛だ。ただ唯一の存在への果てしない愛。君に僕の様な信仰がないことを知っているよ。でも君はきっと、その愛がなにものかは知っているはずだ。だってこれは誰しもが知り得ている筈の真相だから。」

「これは捧げられた物語なの。愛と、そしてその愛を体現した人物へ。捧げられた作品なの。ねえ大ちゃん、大ちゃんならきっと分かるはずよ――――」




 チケットカウンターは座ったままでは幾分高く、青峰は乗り上げる様にして片足で立ち上がる。歩行の練習はまだだから、青峰は未だ義足の手配もしていない。青峰はそこのところにあまり興味がなかった。
 青峰はもうずいぶん前から日常への興味を薄れさせていた。数ヶ月前までであればバスケットボールという青峰にとっての人生の命題――に縋っていられたが、今はそれすらがもう青峰のなかにない。青峰はこの忘却と無常の表出の日々の始まりをやはり忘れ去り、思い出す事が出来なかったが、それでもいつだったか有り得ない程に大きくそして予想外に過ぎた喪失からそれが始まった事だけは、朧げながらに、分かっていた。
 チケットを確認しシアターに入る。カウンタースタッフにこの作品は今週末までの上映だと教えられた。この映画館が国内で最後の上映館らしい。まあ今日見てしまえば、それも関係ない事であろう。
 スクリーンに光が点り、そしてそれはすぐにグレーブルーへと染まった。今にも雨を落としそうな空模様、シアンかがった画面のなかにひとりの青年が佇んでいる。その青年は美しい髪色をしており、美しい瞳色をしていた。両方とも見事な透け色で、繊細な睫毛の先までが見事にそれである。
 しかし瞳はガランドウであった。昔縁日で買ったぺっこんぺっこん鳴るとてもとても壊れ易いビードロのようであった。それは息を吹き込み彩りの音色を放つ事さえ忘れ去られた、ビードロのただ空虚な瞳なのである。
 青峰は見ていられなくなった。
 青年は虚しさだけで形作られていた。それなのに青年はこの上もないほどに美しくあった。揺らぐ光の頭髪。この世の灯火が全て潰えようとも、その頭髪の煌めきさえ残るのならば世は頷き廻り続けるかの様に。そしてそれと同色のくるりとした睫毛がとうとうの、万感の、またたきをする。一瞬覆われてそして再び現れた瞬間の瞳を、そう、その瞳を。
 青峰は分かっていると思った。
 青峰は居たたまれなくなった。
 黄金の瞳に息が吹き込まれる。それとともに青峰の息は苦しくなった。まるでそのビードロに息を吸い取られるかの様。瞳はぺっこんぺっこんと彩りの音色を発し出す。心に迫り過ぎて怖い程の音色であった。
 青峰は恐ろしくなって、エンドロールに入る間際その場所から逃げ出した。


 グレーブルーのポスターには一言、「旅立ちの君へ捧ぐ」。そう書かれている。


 青峰はその日、18時になっても19時になっても、どうしてか起き上がり食堂へ出掛けるのがとても億劫だった。なぜだか分からないが青峰の心はとても愚鈍で重苦しく、それを抱えてものの咀嚼などできないと思った。
 茫然の時をベッドで過ごしていると、ふいのノックを病室は受け取る。
 入室して来たのは青峰の幼馴染みの桃井さつきであった。いつこちらに来たのだろうか。
「さつき。」
「大ちゃん、晩御飯食べないの?」
「気分じゃねぇんだ。」
「ちゃんと食べないと駄目よ。」
「ところでお前いつこっち来たんだ?」
「つい、さっきよ。」
「そう。」
 桃井は窓を背後に椅子を引き寄せ座ると、淡くだけ微笑んだ。
「どうした?」
 どこかその笑みが悲しそうで、青峰は思わずそう尋ねる。
「ううん、思い出しただけ。」
 桃井はその通りどこか遠くを見遣る様な瞳をしていた。
「思い出す?なにを?」
 青峰は心のままにまた尋ねた。なにを思い出すと言うのだろう。なにを、なにもの、を。
「ううん大ちゃん、ううん。私が教えてでは駄目なの。大ちゃん、大ちゃんが自分で思い出さなくては。そうでなくては駄目なの。」
 青峰には桃井の言っていることが分からなかった。そして桃井にはあの日以来封印した名があった。桃井はその者の名を再びこの目の前の幼馴染みがその口に紡ぐ事を、悲願して願い請うて嘆いていた。
「大ちゃん、映画の話をしよう。」
「は?」
 桃井は急に話題を変える。
「映画?って言っても、滅多に見るもんじゃねぇし……」
「ううんそんなことはないはずよ。大ちゃん、大ちゃんには見ないと――、見たい映画があるはず。」
「見たい?そんなもん、」
「なくなんかないわ。きっと、きっとあるの。大ちゃんは目を向けないといけない。瞳を付き合わせて、その瞳に頷き返してあげなきゃ。」
「なに、お前さっきからなに――――」


 青峰は、その映画のエンドロールを見るのが嫌だった。怖くて怖くて、恐ろしかった。あの有り得ない程の喪失が、還ってくる気がした。青峰が帰りたいのはそこではなかった。もっとずっと遡った、青峰と――の、すべての始まりの日々だった。
 しかしそれは叶わない。
 どうやってでも、叶わない。
 第一青峰は何故あの日々に帰りたいなどと自身が望むのかさえ、明確には分かっていなかった。あの日々とはなんだろう。ただ漠然と帰りたかった。帰り着いてあの笑みに迎え入れられたかった。そうすれば今度こそすべての想いを言葉にのせて伝えられる気がした。
 青峰にはその"想い"すら自身で分からなかった。
 桃井が病室を去った後、青峰は一晩眠りにつくことが出来なかった。
 瞳を瞑ればなにかが過った。美しい色をしたなにか。ガランドウからは想像もつかぬほどの彩りを発した、なにか。青峰はそれを目撃してしまう事が怖かった。
 翌朝も食堂へは出掛けず、エルダの問診にも何も答えられなかった。乾燥した唇の表皮が上下の口唇を引っ付けて、一度声を挙げればすべてが裂けて血が出てしまうと思ったのだ。だから青峰はその日一日を黙って過ごし、夕刻にほんの少しだけの眠りを得た。
 僅かな入眠から目覚め、青峰は唐突に今日が木曜日であることを思い出した。明日はフライデー、きっとこれまで通りなんの変哲もない金曜日。しかし青峰はなぜだかその日がある映画の最終上映日であることを知っていた。何故自身が知っているのか青峰は分からなかったし、その映画のことも青峰は知らない筈だった。しかしどこかで聞いた様な気がする。あれは看護師のエルダだったか、それとも担当医のアブドゥルだったか、はたまた他の誰かであったか。
 兎に角青峰はそれを知っている様な気がして、ならば明日、行かなければならないと思った。なぜだかは分からない。それがなぜなのかなど、青峰にはなにも、分からない。


 朝食を済まし病室でしばしの時を過ごしていると、看護師のエルダが今日も顔を出す。
「Good mooning, ダイキ。調子はどう?」
「Hi, エルダ。変わりは特に。」
「そう良かった。今日もいいお天気ね。散歩に良さそうだわ。」
「そうか?」
「そうなのよ。ダイキもずっと病室だと暇でしょう?映画にでも言ってくれば良いじゃない。」
「映画ね。」
「ええ。ちょうど今近くの映画館でとても素敵な映画をやっているの。ダイキも行くべきよ。」
「ああ、ああ――――そうかもな。」
「……そ、うよ!そうに決まっているわ!すごく美しくて、そして心に響く作品なの。ダイキもきっと分かるでしょう?愛しい人と過ごした翌朝の、あの他にない甘酸っぱい香りを。そんないたいけで、あたたかいお話なの。」
「へえ。」
 エルダは両の手をぎゅっと胸元で握り締めると、笑んで病室から消えていった。
 青峰はおもむろに、ベッドから起床した。


 ようよう慣れてきた感のある動作で青峰は両の腕でせっせと車輪を漕いだ。片方のない脚は日に日にひ弱になっていくばかりだけど、腕ばかりはどんどんと太く逞しくなっていっていた。見事なアンバランスだ。
 慣れないながらもしっかり角を曲がって、青峰は映画館へと辿り着く。
 チケットカウンターに向おうとしたら、その手前で映画館スタッフに呼び止められる。彼女の手には既に目当ての映画のチケットが握られており、そして彼女は青峰の差し出したお代を断って微笑んで礼をした。よく分からないが青峰はそれを有り難く受け取ってシアターに向う。
 しばしもせずにスクリーンに光が点った。


 青年のガランドウの瞳に彩りの息吹きが吹き込まれると、画面のシアンはしだいに薄らいでいった。グレーブルーの色彩が次第に明度を増す。そしてとうとう彩度高い美しいそれは青になった。青年の瞳に青が反射する。光り輝く黄色みの黄金がこれまで以上に美しさを増す。
 なにより美しかった。この世の何よりそれは美しく青峰の瞳には映った。スクリーンの黄金を青峰の瞳も反射させた。

 青峰にはなぜだかその瞳に見覚えがあったのだ。青峰はどうしてかその瞳の全てを知っている気がしたのだ。
 青峰はなんでだろう、今、泣かなければと思った。
 しかし泣いてしまうのが怖かった。
 でもそれでも、今涙を流さずしてこの人生でいつ、泣き暮れる事が出来るだろう。

 青年が振り向く。そう、青峰の方へ。軽やかに、まるでいつだかの少年の時の姿のままのように頭髪を踊らせて。ぱちりと長い睫毛でリズムをとって。あらゆる彩りを一心に集めたかの様な、愛の、瞳で。
 青峰はこれに頷いてやらねばならない。俺もだよ、そう囁き返してやらなければならない。
 涙が溢れた。


 合わせ鏡。その瞳は常に青峰が見詰めて生きてきた瞳だった。青峰に生きる活力を与え、生きる勇気を与え続けてくれた瞳だった。そしてそれは、青峰自身の瞳でもあった。
 青峰はその瞳の全てを知っていた。分かっていた。
 それは愛を物語る瞳だった。
 青峰は自身がずっとそんな瞳をして見詰めていた人物を知っている。そしてその人物もまた、青峰のことをその瞳で見詰めてくれていた。
 嗚呼、エンドロールの冒頭で捧げられた彼。愛を体現したこの作品を捧げられた彼。愛を体現した彼。

 青峰はこの日恋を思い出した。
 自身の心の中に溢れた愛を唐突に自覚した。

 泣いてしまうのが怖かった。あの長い時間をかけて彼とともに積み重ねて来た愛が、溢れてどこか遠くへ消えていってしまう気がして。
 でも、それでも。
 青峰は泣いた。全てが喪失されてしまった日から一度も流すことなかった涙を流した。彼を思った。心の軋む音がする。今にも壊れてしまいそうな心、この心を守る為に自身はきっと忘れる事を選んでしまったのだ。すべてを茫洋のなかへ投げ込むことにしてしまった。
 しかしそれではいけなかった。それではただただ虚しいだけであった。空虚の毎日をどうにかこうにか積み重ねて行くだけの、ほんとうになにも意味のない日々でしかなかった。
 青峰は帰りたかったのだ。彼とひたすらに笑んでいたあの日々。
 しかしもはや帰ることなど許されない。
 青峰は生かされていた。

 彼と彼への愛に、生かされていた。

 そのことがどうしようもなく悲しく、痛かった。




 アブドゥルは入室して来た青峰に優しく笑みかけるといつものように「やあ」と言った。
「調子はどうかな?」
 青峰はどう答えようか迷って、結局は情けない顔を隠すことなく返答した。
「信じられないくらい、最悪だ。」
「そうかい。」
 しばしの沈黙が診察室に漂った。
 アブドゥル・ラハーマンの所属は外科でも、ガン科でも、整形外科でもどれでもなく、精神科のものであった。アブドゥルはこの1ヶ月、毎日毎日この青峰大輝という患者の喪失と向き合って来た。
 青峰はそれを忘れたくなっても仕方がない程の悲しみに、苦しみに、痛みに見舞われていた。大きな大きな喪失、そしてその1年後に訪れた更なる悲劇。
 アブドゥルは青峰の存在をかつてより知っていた。だって彼はとても有名なプロスポーツ選手であったから。彼の高らかで常に挑戦的な飛翔を知っている。奔放に巡り巡る自由な四肢を知っている。しかしアブドゥルの前に彼が現れたとき、すでにその四肢のひとつは失われていた。

「少しだけ、君の話をしよう。」

 青峰大輝はNBAに所属するバスケットボールプレイヤーだった。チームは東海岸の大都市を本拠地としており、あの試合はクリスマス前最後のホームゲームであった。しかしその日青峰はその街で一番大きな病院に運び込まれ、あの診断は下されることになる。彼はそこで左の脚の膝から下を失った。
 当初の予定ではリハビリまでをその病院にて行うことになっていた。しかし予定は変更される。それは彼の幼馴染みである桃井さつきという女性の言葉からだった。
 青峰大輝は御し難い、大きすぎる程の喪失を抱えている。そして今彼はその痛みに耐えきれず、忘却の道を選んでしまおうとしている、と。
 それは秘密の愛の話であった。砂漠の微かな岩陰の片隅、誰にも見えない所でひっそりと咲く花ほどに健気な恋の話であった。
 その日から、青峰大輝は毎日毎日、映画館に通っている。彼の忘れ去られていく記憶の中で、それでも、毎日。
 映画はひっそりとした小規模作品であり、監督はそこそこに有名な欧州の名監督ではあったが、普通の娯楽作などとはまったく扱いが違った。すぐに映画は公開最終日を迎え、その街で作品を扱う映画館はなくなった。
 青峰は未だ忘却のなかを生きていた。喪失を忘れ、しかし喪失に生きていた。
 桃井は国内を隈無く探し映画のまだ上映されている地域を見付け出し、青峰を連れて転院した。そうやっていくつかの地を点々と青峰大輝は旅したのだが、いよいよ上映館がなくなってしまう。途方に暮れた桃井とそして医者達であったが、幸運は彼をまだ見捨てては居なかった。
 映画界最大の祭典、アカデミー賞。その外国語映画部門に作品がノミネートされた。そしてそれに合わせ映画の街であるこの地は単館ながら上映を再開したのだ。
 ここは映画の街、アカデミーアワードの行われるLos Angelesはハリウッドを目と鼻の先にした、ロサンゼルス・セントラル・メディカル・センターだった。
 美しいビーチ群を臨む、西海岸の大都市である。
 青峰大輝の愛の為の秘められし旅は、国を横断するまでに至った。

「僕は君が忘却の彼方から戻って来ることを心より願っていた。しかし心の隅で、ほんの少しだけ。戻って来た曉に君が直面する喪失の激痛を思い惑いもした。ほんとうにその帰還が正しいのか、僕には自信がなかったからだ。」
 そして予想の通り、そして想像を超えて。今青峰は褐色の肌色を見たこともない程に白くさせ痛みに苦しんでいた。見ていられない程の悲しみの瞳。見えない心のありありと聞こえる軋みの音。
「でも」
 それでもアブドゥルは信じた。エルダが信じたように、他の医師達、友人達、家族達、桃井が信じた様に。
「僕は信じた。
 何故なら君の瞳がほんとうに、ほんとうによく、あの映画のなかの青年に似ていたから。」

 青峰は一度俯いて、歪んで引き攣ったとても不格好な笑みを浮かべて面を上げた。泣き笑いのそれは悲愴ながらもたしかに生きる力をどこかに宿していた。
 これがようやっとあの日からの、青峰の一歩目である。

「さあ、僕にあのとても慈悲深く愛に溢れた瞳をした青年の、話を聞かせてくれよ。」




 歩行練習が開始されたのは、あれから2日後の、ちょうどアカデミーアワード開催の日であった。ただの偶然である。
 外国語映画賞にコールされたのは「bon voyage」。旅立つ者へのエールであるその題名。壇上に上がった年老いた名監督はただ二言、「ありがとう」と「よい旅を」とだけ言ってスピーチを終えた。
 青峰の心は未だぐちゃぐちゃのままである。悲しみが去ることはまだない。否、きっとこの先一生ない。けれども青峰はそれと永遠に付き合って生きていくことを決めた。失われた片足で立つのはこの上もなく不安定だったけれど。どうにかこうにかして青峰は歩いていかなければならない。
 青峰大輝は愛に生かされていた。
 愛を知り今を生きている。
 愛の為に、生きることを願った。








 きっといつか、君の耳には再びあの鼓動の音が聞こえてくることでしょう。力強いリズムを刻む、橙の丸みの跳ねる音。
 リハビリ施設に併設された体育館のメープルの板材。よくひかれたワックスの擦れる甲高い音。車輪が廻り、廻り、それは凄まじいスピードとぶつかり合いをしながらコートを縦横無尽に駆ける。
 君はまた旅立つ。



(愛は尽きず、命題は終わることなく。)

prev next









「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -