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cheery-bye


 今日は最高の日になる予定だったのに、最低の日になってしまった。隣を歩く名前も、俺と同じ…否、俺より更に「最低だ」と感じていることだろう。折角のデート中だというのに、俺達の足取りは重かった。
 天気は快晴。絶好のデート日和。平日だから店は混んでいないし、ランチの値段も安くなっているし、出だしは間違いなく最高だったと言い切れる。しかし思わぬハプニングにより、最高は最低へと転がってしまった。


「あれ?侑?」
「ん?」
「やっぱり侑だぁ!全然返事してくれないんだもん…寂しかったぁ〜」


 安くて美味いランチを腹一杯に食べた後、次はどこへ行こうかと話しながら、名前と手を繋いでのんびり歩いている時だった。突然名前を呼ばれて声の主の方へ顔を向けたものの、じっくり顔を見ても誰なのかちっとも思い出せない。
 確か今、返事をしてくれない、と言われたが、そもそも連絡先を交換した記憶もない女だ。しかし、相手の方は俺のことを知っている。ということはかつての浮気相手の1人でほぼ確定だと推察した俺は、真っ先に隣に立つ名前の顔色を窺った。
 名前も大体の察しがついたのだろう。怒っているというよりは、非常に気まずそうというか、戸惑っているのが窺える。声をかけられた俺ですら僅かばかり戸惑っているのだから、そんな反応になるのも無理はない。
 一方、名前も思い出せぬ女は、名前がいることに気付いていないのか、気付いているがお構いなしなのか、恐らく後者だろう。気安く俺に近付いてきた。非常に不愉快だ。
 こんな性格の悪いブスと少しでも関係をもっていた過去の自分がとんでもなく浅はかに思えて、頭痛がし始める。浮気するならするで、もうちょい相手選んどけや、俺。
 まああの頃の俺は相当荒んどったし、自暴自棄になっていた。きっとどんな女でもいいという気持ちで適当に穴埋めしていたのだろう。今となっては浮気の「う」の字もないが、女の方はまだ俺に未練があるらしい口ぶりだ。めんどくさ。


「自分、誰?」
「ひどーい!マミだよぉ……一緒にホテル行ったじゃん。覚えてないのぉ?」
「覚えとらん」
「キスもエッチも?」


 誰もが行き交う(と言っても幸い今は誰も通らなかったが)歩道のど真ん中でそんなことを尋ねてくる女とは、一刻も早く距離を置きたい。それ以前に、名前にこの手の話をこれ以上聞かれたくない。
 俺はその一心で、短く「知らんわ」と吐き捨てると、名前の手を引いて歩き出した。本気で身に覚えがないのだ。そもそもエッチは絶対しとらんし。キスはそっちから勝手にしてきたんやろ。まあそういう問題ちゃうけど。
 言いたいことは山ほどあるが、相手にするだけ時間の無駄だと判断した俺は、名前を連れて足早に通り過ぎようとした。しかし、その行動が女を逆上させるキッカケとなってしまったらしい。


「私は忘れてないんだから!」
「なっ、」


 女の横を通り過ぎようとした、まさに一瞬。俺はタックルをかますような勢いで思いっきりしがみ付かれ、挙句の果てには名前が選んでくれたお気に入りのシャツに、下品なピンク色のギラギラしたグロスが塗りたくられた唇を押し当てられたのだ。お陰でシャツにはたっぷりと、忌々しい汚れがついてしまった。
 俺が激怒してこれでもかと冷ややかな視線を注ぎながら身体を引き剥がしたことで、女は漸くヤバいと悟ったのか、また連絡するから!という言葉を残して走り去って行ったが、連絡された瞬間に拒否してやろうと心に誓う。
 最悪すぎる展開に怒りを覚えるとともにテンションもだだ下がりだが、俺よりも名前の方がショックは大きいに決まっている。呆然としている名前は俺が過去に浮気をしていたことも、今は名前一筋であることも知っているが、だからと言って何事もなかったかのようにスルーできることではないだろう。


「名前、今の女は」
「大丈夫。ちゃんと分かってる。怒ったりしないよ」


 まるで俺の口から言い訳は聞きたくないと言わんばかりに言葉を遮って歩き出した名前は、どう考えても不機嫌だった。いや、でも、そうなるよな。俺が逆の立場やったら、状況が分かっとっても名前を責めたかもしれん。そう思ったら、名前のこの対応はかなり穏便だと思う。
 俺が何度謝ったところで、名前のもやもやした気分は晴れないだろう。むしろ謝り続けたら逆に「そんなに謝らなきゃいけないことをした相手だったの?」と言われてしまいそうで、俺は口を噤まざるを得なかった。

 普段は仕事をしている平日の午前中からデート。わざわざ俺が仕事を休んでまでこの日を選んだのは、名前が珍しく、俺の誕生日はどうしても丸1日一緒に過ごしたいと我儘を言ってくれたからだ。
 滅多に我儘を言わない名前の、かなり珍しい我儘の内容が、俺の誕生日を一緒に過ごしたい、という内容。そんなの、俺が喜ばないはずがない。だから今日は俺も名前も、普通のデートとは違う心持ちで迎えたのだ。それなのに現在この状況。これはさすがにまずい。
 この雰囲気でのデート続行は微妙な気がする。シャツが汚れてしまったのも気になるし、一旦帰って気持ちをリセット……できれば良いが、最悪、今日は寝るまでこの空気のままかもしれない。自分が蒔いた種とは言え、何も今日こんな展開にならんでもえかったやろ。俺はぶつけようのない怒りを募らせるばかりだった。


「この後どないする?」
「侑に任せるよ」
「まあとりあえず、デート続ける気分ちゃうよな」


 何気なくそう呟いた後、しまった、と後悔した。名前とのデートは楽しいし、できれば続けたいと思っている。が、名前のモチベーション的に続ける気分じゃないだろうと思って出てきた一言だったのだが、名前はそう捉えなかったのだろうと、その表情を見て気付いてしまったからだ。
 俺の言葉のニュアンス的に、名前には「俺のモチベーションが下がったからデートはもう終わりにしたい」という呟きとして捉えられたのだろう。案の定、名前は「そうだよね、今こんな顔してる私とデート続けてもつまんないもんね」と自己完結している。
 いつも俺は言葉が足りない。そして何より軽率だ。いくら仕事ができても、頭の回転が早くても、惚れた女1人を満足に笑顔にさせてやれない男は、ただの馬鹿である。


「ちゃうねん。今のは、俺はまだ帰りたないねんけど名前がそういう気分ちゃうやろな、って思て言うただけやねん」
「…………じゃあ、ほんとのこと言ってもいい?」
「おん」
「言ったら、折角の誕生日なのに嫌な気持ちにさせちゃうかもしれないけど、それでも?」
「思っとること言わずに隠されとる方が嫌やわ」


 非常に言いにくそうな名前の手をギュッと握って、何でも言うてくれ、と念じてみる。例えそれが罵倒や軽蔑の言葉であっても、俺は受け止めなければならない。誕生日だからとかそういうことは抜きにして、これは俺が精算しなければならない贖罪だから。
 すると、俺の念が通じたのか、名前は僅かに迷う素振りを見せた後、ぼそぼそと口を開いてくれた。


「キスとか、その…それ以上のこととか、どれぐらいの人としたのかなって……気になってたけど、今更掘り返すのもどうなのかなって思って、ずっときけなくて、」
「は?」
「今の人だけじゃなくて、これからもこういうことあるのかなって思ったら…やっぱりちょっと……嫌だな、って……思って…、ごめん、すごく、心狭いよね、ちゃんと侑のこと、信じてるんだけど…ごめ、っ」


 途中から涙声になる名前の手を引っ張って、自分の胸に閉じ込める。それこそ公共の場でやることではなかったかもしれないが、今はこうする以外、名前を黙らせる方法が思い浮かばなかったのだ。
 俺のせいで、名前は今の今までこんなにも苦しんでいた。そのことに気付けていなかった自分に心底腹が立つ。
 確かに俺は「浮気をしていた」とカミングアウトしてその理由についても説明したが、浮気内容に関しては何も言っていない。というか「キスは向こうからされただけで俺の方からしたことはない、セックスも未遂で終わった」と自ら詳細に言うのは言い訳がましいかと思って、そしてそんな生々しいことは聞きたくないだろうと判断して、あえて口にしていなかった。それがまさか裏目に出ていたとは。

 名前が謝らなければならないことは何ひとつないのに謝らせた挙句、泣かせてしまっている。これは夫として、男として失格だ。
 みっともないとかカッコ悪いとか、そんなどうでも良いプライドは捨て、俺は恥を忍んできちんと説明した。言い訳がましくても、陳腐な弁明だと思われても、嘘っぽいと感じられても、言わなければならないと思ったから。
 名前がそれをどこまで信じてくれるかは分からない。ただ、都合の良いことを言って良いのであれば、全て信じてほしいと思っている。俺は名前以外の女に自ら触れたいと思ったことは1度もないということも、どれだけ迫られても身体の関係を拒絶してきたということも、全部。
 名前は道路のど真ん中、より少し端の方に寄った、他の歩行者にギリギリ邪魔にならない位置で俺の言い訳を静かに聞いてくれた。途中で遮られることも耳を塞がれることもなく、最後まで静かに。
 そして少しの沈黙の後でその口から零れたのは「ごめんね」だった。今の話を聞いて、なぜ名前の方がそのセリフを口にしたのか。俺にはちっとも理解できない。


「そんなこと、言いたくなかったよね」
「俺より名前の方がよっぽど嫌な気持ちやろ。なんで俺のことばっか気にしとんの」
「侑が幸せじゃないと私も幸せじゃないって分かったから、もう悲しい気持ちとか嫌な気持ちにさせたくないって、あの日からずっと思ってて……」


 その後も何やらごにょごにょと言っていたが、俺はそれを最後まで聞いてやれる余裕もなく、その身体を抱き締めていた。
 どこまでお人好しで、どんだけ俺のこと好きやねん。俺の方が名前のこと好きやって思っとったけど、ちょっと自信なくなったわ。
 最低の日になってしまったと悔やんでいたはずの空気から一変、今はもう最高に向かっているような気分だ。名前が隣にいる限り、俺が最低な人生を送ることはないのかもしれない。
 俺の記憶の片隅にも残らないような女とも、ドン底の気分とも、今まで名前に与え続けていた緩やかな苦しみとも、今日で決別しよう。全ての忌々しい事柄にさよならを告げて、次に俺がやるべきこと。そんなん、考えるまでもない。


「やっぱ今から家帰ろ」
「デートする気分じゃなくなったから?」
「家で名前を堪能するんが俺の1番の幸せやから」
「そういうことなら喜んで」


 最高の時間は今この時から始まっている。