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はじめまして、
恋ですか?


01普通の人間なんですけどね。







恋愛ってものには昔から縁がなかった。というか、興味がなかった。気付いた時には野球に没頭していて、それ以上に胸を熱くさせるものになんて出会わなかったから。勘違いしてほしくないのだが、俺は別に女が嫌いってわけじゃない。好きだと言われたら嫌な気持ちはしないし、男なので性欲ってもんも存在する。だから、人並みに恋愛経験は済ませた。ただそれは通過儀礼的なものであって、どうしても自分から欲して、というわけではなかった。モテるのに勿体ねぇよなあ、と。チームメイト達によく言われる。が、何が勿体ないのだろうかといつも思う。そんなに女って必要か?少なくとも俺には必要ないけど、って感じだ。
プロ入りを果たして随分と年月が経ち、俺は今月で28歳になる。高校最後の夏からもう10年か、と思うと歳を取ったなと実感せざるを得ないけれど、まだまだ現役バリバリでキャッチャーマスクは被るつもりだ。俺には野球しかない。周りの連中が女子アナと付き合いだしたとか、そろそろ結婚するだとか言っているけれど、俺には全く関係のない話である。
今シーズンが終わり秋も深まってきた11月初旬。俺は久し振りに近所にある行きつけの定食屋に向かっていた。ちょっと街中に出て飲食店に入ろうもんなら、俺の周りには結構な人だかりができてしまう。自慢じゃないがこれでもプロ野球選手の端くれなので、老若男女問わず大人気らしいのだ。有難いことではあるが、飯ぐらいゆっくり食いたいというのが正直なところ。だから俺は自炊か出前で食事を賄うことが多いのだが、そんな俺が唯一ゆっくり飯を食える店というのが今向かっている定食屋である。
古びた看板に質素な内装。でも、値段は安いし味も美味い。何より、その店には行きつけの客しかいないことがほとんどなので、俺が客として行こうが大騒ぎになることはなく、いつも応援してるよ、と声をかけてくるおじさんがちらほらいるぐらいなのだ。今日も今日とて、そのお店には数人の年配男性しかおらず、俺がガラリと音を立てて店内に入っても振り向く人間は誰1人いない。いつもの空間にほっとしつつ、俺はお決まりの店の奥の席に座った。


「御幸君いらっしゃい。久し振りだね。今シーズンも大活躍だったなあ」
「来年も大活躍する予定なんで応援よろしく。おっちゃん、いつものおまかせ定食」
「はいよ。名前ちゃん、こちらさんにお水頼むね」
「はい」
「名前ちゃん?」


聞き慣れないフレーズに、思わず首を傾げる。この定食屋はおじさんとおばさんの夫婦で切り盛りしており、確か2人には息子さんしかいなかったはずだ。息子さんのお嫁さんでも手伝ってくれることになったのだろうか。
そんなことを考えている間に、先ほど返事をした女性(恐らくというか確実に名前ちゃん)が、おじさんの言いつけ通りに俺のところに水を運んできた。見た感じ俺と同年代ぐらいだろうか。女性のことには疎い俺だけれど、彼女がイマドキの、化粧ばっちり!流行りの服で着飾ってます!って感じのタイプじゃないということだけは分かった。これが褒め言葉になるのか悪口になるのかは分からないけれど、良くも悪くも、この定食屋にいても納得できる雰囲気であることは確かだ。
先ほども言ったように、俺はそこそこ有名人で、自慢じゃないが女性からの人気も圧倒的にある(らしい)。ということは、まさか彼女もサインを強請ってきたりするのだろうか、と思ったけれど、彼女は、どうぞ、と静かにコップを置いただけでそれ以上は何も言わず去って行った。なんだか拍子抜けだが、冷静に考えてみれば、まあ、そりゃそうか。日本国民全員が野球に詳しいわけじゃないだろうし、俺のことを知らない人間だっているだろう。逆にぎゃあぎゃあ騒がれなくて好都合だ。


「おまかせ定食です」
「どーも」


丁寧に運ばれてきたのはサバの味噌煮定食。こういう素朴なメニューが1番美味いのだ。今日のサバは美味いだろ?と得意げに声をかけてくるおじさんに、俺は頷くことで返事をする。そうして、客足が途絶えて暇になったのか、俺の席の近くまできて話を始めたおじさんに、俺はなんとなく尋ねてみた。


「あの子ってバイト?」
「ああ、名前ちゃんか。あの子はうちの近所に住んでる子でね。実は最近になって女房が体調崩しちまって…元気になるまで手伝ってもらってるんだ」
「へぇ」
「いい子だろ?」


いい子だろ?と尋ねられても答えようがない。俺はあの子のことを何ひとつ知らないのだから。俺が答えを濁して食事を続けているとおじさんが、そういえば、と何かを言いかけた。けれどもそのタイミングで新たな客が現れたので、おじさんは厨房の方へと向かってしまい話の続きは聞けず。何を言おうとしたんだろうかと、ぼーっと考えながら食事を続けていたのがいけなかったのだろうか。
コップを取ろうと手を伸ばしたら、机の端っこに置いていた小さなお皿にコツンと手が当たって落としてしまった。しかもなんとも運の悪いことに、通路を歩いていた名前ちゃんにぶつかってから落ちたらしく、名前ちゃんの服には醤油のシミができているではないか。


「ごめん」
「いえ、大丈夫です」
「でも服汚れたよな?」
「洗濯すれば落ちますよ」
「醤油のシミは落ちにくいだろ」
「御幸選手、そんなこと知ってるんですか?」
「……俺のこと知ってんの?」


醤油のシミのことよりも彼女の口から自分の名前が出てきたことに意識が逸れてしまい、服から彼女の顔へと視線を移して尋ねてみれば、なぜかドギマギしていて目を合わせてくれない。これは一体どういうことだと首を傾げている俺に、助け船を出してくれたのはおじさんだ。


「さっき言おうと思ったんだけどね、名前ちゃんは大の御幸君ファンなんだよ」
「え?」
「おじさん!」


俺のファンなら、店に入った瞬間、真っ先に声をかけてきてもおかしくはない。それに、水や料理を運んで来た時とか話しかけるチャンスは幾らでもあったはずなのに、挨拶ひとつしてこなかった。なぜだろう。
不思議に思いながらも、いまだに視線を彷徨わせてどうしようかとオロオロしている彼女に、サインいるなら書くけど、と申し出たら、一瞬静止した後にブンブンと首を勢いよく横に振られてしまった。ファンなのにサインいらねぇって。意味不明なんだけど。


「プライベートの食事中にサインをいただくなんて…恐れ多くて…」
「は?」
「あの、騒いだりしませんし、御幸選手がこのお店によく来られるってことも黙っておきますので…」
「いや、別にそんなの心配してねぇけど」


どうやら大ファンというのは本当らしい。恐れ多くてサインを断るって、どんだけ俺のこと好きなんだよ。挙動不審なのも、大ファンである俺と会話していることや距離が近いことに関係しているのだろうか。反応の面白さに少し口元を緩めていた俺だったけれど、そこで唐突に思い出した。ああ、そういえば醤油のシミ。早く落とさねぇと。
俺は手元にあったおしぼりでトントンと彼女の服の汚れた箇所を押し拭きする。ひっ、という悲鳴めいた声が聞こえた気がするけれど、俺は別にセクハラしているわけじゃないし化け物でもなんでもないので、その反応はやめてほしい。


「自分でやります!大丈夫です!」
「そんな慌てなくても…」
「あの、本当に大丈夫ですから…御幸選手の手を煩わせてしまってすみません…」
「汚したのこっちだし。お詫びにやっぱサイン書くわ」
「え!でも!いや!ほしいですけど!うう…いえ、やっぱりプライベートでそんな…いただくわけには…」
「俺が良いって言ってんだからもらっとけば?おっちゃん、紙とペンない?」


何やら勝手に葛藤を繰り広げている彼女のことは無視して、はいよー、とおじさんが用意してくれた色紙にさらさらとサインを書いて渡す。すると彼女は俺と色紙を交互に見ながら、ありがとうございます…と素直に受け取って胸に抱き締めた。サインでこんなに感激されたのは初めてのことで、俺の方も少しばかり感動する。
その後、食事代を会計する時も彼女は結局目を合わせてくれなかったけれど、本当にありがとうございました、と何度もお礼を言われ、イマドキ珍しい律儀な子だなあと思った。元はと言えば俺が不注意で皿を落として服を汚してしまったお詫びみたいなもんなのに、逆にめちゃくちゃお礼を言ってくるなんて。
名前ちゃん。俺の大ファンで、ちょっと面白い定食屋の子。俺の頭に、珍しく野球以外のことがインプットされた。

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