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鍵のないパンドラの箱


第一印象は、少し冷たい人。ヘラヘラと誰にでも愛想を振り撒く人が好きというわけではないけれど、作り笑いのひとつも浮かべない彼――御幸一也先輩からは、どこか冷たい空気を感じ取って。初めて出会った時、本能的に、この人とはあまり関わらない方が良いと思ったことを覚えている。
けれども何の因果か、御幸先輩と同じゼミに属することになってしまった私は、彼と全く関わらないというわけにはいかなかった。学年は違えど、同じ学部、同じ学科でゼミまで一緒となると接触する機会が増えるのは必然で。私はいつの間にか、彼と共有する時間を増やしていっていた。
一緒にいて気付いたことだけれど、彼は恐らく人付き合いが上手くない。人見知りをするようなタイプではなさそうだから、そもそも人と友好関係を築こうという気持ちがないのだろう。だから私と初めて会った時も、愛想笑いのひとつも浮かべないどころか挨拶すらまともにしてくれなかったのだと思う。
彼と知り合って早3年。私は3年生になり、彼は4年生となった。どのような感情の変化があったのかはもはや自分でも分からないのだけれど、出会った当初、関わらない方が良いとさえ思っていた彼に、私は惹かれてしまっていた。
いつから、とか、何がきっかけで、とか、大切なことは全て不明瞭。ただ、はっきりしていることがあるとすれば、私は自分が思っている以上に御幸一也という男に好意を寄せているということだけだ。


「名字も飯行く人?」
「はい。他に誰が来るか知ってます?」
「知らねぇ」
「ですよねー」


今日はゼミ飲みをしようと声をかけられた。待ち合わせしていたわけでもないのに、たまたま5限目を終えて歩いていたところで出くわした御幸先輩と、なんとなくそのままお店を目指して歩く。
男性と付き合った経験は、過去に何度もある。けれども実際のところ、私は彼らのことを心から好きだと思ったことはなかったのだと思う。その証拠に、ドキドキという感情は今まで感じたことがない。そのせいだろうか。過去のお付き合いでは、総じて、名前は冷めている、と言われてフラれている。
そんな過去があるにもかかわらず、今はどうだろう。私は御幸先輩の隣を歩いているだけで妙にそわそわしているではないか。これが恋だと自覚するまでに相当な時間を要してしまったけれど、気付けたことは私にとって大きな進歩だったと言えよう。
何食わぬ顔(のつもり)で会話をしつつ、ゆるりゆるりと歩を進める。私がどれだけ胸を高鳴らせても、彼が振り向いてくれることはない。この3年間で、それは十分すぎるほど分かっていた。


「御幸先輩、また告白されたって聞きましたよ?」
「あ、そ」
「自分のことなのに興味なさそうですね」
「興味ねぇもん」
「そんなんじゃ一生彼女できないんじゃないですか?」
「別に。いらねぇし」


御幸先輩は心底つまらなそうに吐き捨てた。彼は恋愛というものに全く関心がないようで、今まで私を含め色々な人がその手の話題を振ったことがあるのだけれど、総スルーされている。付き合った経験がないということはないだろうし、過去の恋愛で何かあったのだろうかと変に勘繰ってはみたものの、結局のところ答えは与えられないのだから真相は永遠に闇の中だろう。私も、とんだ人を好きになってしまったものだ。
実らない恋だと分かっているのに諦められないなんて、馬鹿馬鹿しい。けれどもそれが恋というものなのだろう。面倒臭い。こういう感情は、苦手だ。自分が自分じゃなくなるみたいだから。
過去の彼氏達に言われた通り、私は恐らく冷めている。だから、人の恋話にも大体の場合は、へぇ、とか、ふーん、とか、気のない相槌を打つだけのことが多いし、自分の恋愛について語ることも今まで一切なかった。きかれれば答えはするだろうけれど、生憎私にはそこまで仲の良い友達がいないので、きかれることもない。
よくよく考えてみたら、私の方が御幸先輩よりも冷たいのかもしれない、などとくだらないことが頭を過ったところで、私達は目的のお店に到着した。大学生にありがちなリーズナブルなチェーン店の居酒屋。予約してくれた人の名前を告げれば、いらっしゃいませー!という元気な掛け声が店内に木霊する。通された部屋にはまだ誰も来ておらず、私は御幸先輩と2人きりという状況。5、6人が座れそうなこじんまりとした個室なので、幹事を含め恐らくあと3、4人は来るのだろう。離れて座るのも不自然かと思い、私は少し迷った結果、御幸先輩の正面の席に腰を落ち着けた。


「そんなに俺達、来るの早かった?」
「少し…?でもそろそろ他の人も来るんじゃないですかね」
「そうだな」
「…あの、御幸先輩」


私と会話を続けるつもりなどなかったのだろう。携帯を取り出して画面を見つめていた御幸先輩は、私の呼びかけにゆっくりと視線を上げる。私は前々から、御幸先輩にきいてみたいと思っていたことがあったのだ。


「先輩は、どうして笑わないんですか」
「……名字が見たことないだけなんじゃねぇの」
「他の人も見たことないって言ってましたよ」


どんな人だって、楽しいことや嬉しいことがあれば表情が緩むものだろう。冷めていると言われがちな私でさえ、大笑いとはいかないまでも、微笑することぐらいはある。けれども、御幸先輩はくすりとも笑わないのだ。私は、それとなく同じゼミの他の先輩に、御幸先輩の笑顔ってレアですよねー、と話を振ったら、アイツ笑わねーもん、と返された時のことを思い出す。同学年の先輩達が口をそろえてそう言うのだ。きっといつも無表情というか、つまらなそうというか。そういう顔をしているに違いない。
御幸先輩は私に向けていた視線を再び携帯へ戻す。時間か、もしくは誰かからメッセージが届いていないかと確認でもしているのだろうか。その手元が誰かにメッセージを送る時のように動くことはなかった。


「そんなこときいてどうすんの?」
「…別に。なんとなく、気になっただけです」
「ふーん」


やはりと言うべきか、眼鏡の奥の瞳が私に向けられることはなくて。チクリチクリと痛む心臓には、気付かないフリをした。


「名字はさ」
「はい」
「挫折したことある?」
「挫折…ですか?」


何の脈絡もなく投げかけられた質問に、私は柄にもなく戸惑ってしまう。挫折、って。そんなことを急に尋ねられても、ぱっとは思い付かない。それはつまり、私の短い人生の中には挫折らしい挫折がなかったということなのだろう。もっとも、挫折を味わえるほど努力をしてきた記憶がないのだから当たり前なのかもしれないけれど。


「俺はあるよ」
「……そう、なんですか」


どんな?とは、きけなかった。御幸先輩が見たこともないような悲痛な表情を浮かべていることに気付いて、目を奪われてしまったから。常に無表情を貫いていて何の抑揚もなく会話をする彼が、初めて見せてくれた感情。きっと、見せるつもりなんてなかったのだろうけれど。
私は、きいてはいけないことをきいてしまったのかもしれない。今更のようにそんなことを思ったけれど、きいて良かったような気もする。私だけが、彼の感情を見ることができたのだとしたら。これほど嬉しいことはないのだから。私はいつから、こんなにも邪な考えをするようになったのだろう。これも恋のせいなのか、それとも。


「お待たせしましたー!」
「お疲れ様です」
「御幸と名前ちゃん、何の話してたの?」
「次のテストの話。な?」
「え、あ、はい」


それはそれは自然な流れで上手に嘯いた御幸先輩に、私はつられて頷くより他なかった。それまでの空気から一変、幹事の先輩や同学年の子、後輩の子が現れたことによって、御幸先輩はすっかりいつもの様子に戻っている。ただ、私の中には、御幸先輩との小さな秘密だけがそっと取り残されていて。飲み会の間も、正面に座る御幸先輩とちらりと目が合う度に、私の脳裏には、挫折、という言葉が走馬灯のように過っていた。

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