誘惑と本気



「なあ、アリステア・リーンっているだろ?」
「ああ、あいつ?」


 デュースや監督生やグリムたちと一緒に次の授業へ向かっている途中で、ふいにそんな話し声が耳をかすめた。その声に足を止めて、声の主を辿っていくと、廊下で話している数人の生徒を見つけた。見た限り上級生たちで、寮章を見ると違う寮生だった。

 上級生たちは廊下でたむろって、なにやら先輩の話をしていた。ゲラゲラと笑って、先輩を下に見たような目をして、言いたい放題。

 自分だって、つい最近入学したばかりで、いくら同じ寮生だからといっても、先輩のことを知っているとは言えない。むしろ知らないことの方が多いだろう。それでも、どうしようもなく腹が立った。





 その日の放課後。

 授業でやらかしたデュースやグリムは、放課後に居残りを言い渡された。監督生もグリムに付き合って、居残りをしている。一人居残り授業を逃れたエースは、軽い足取りで廊下を歩いていた。

 ちょうど中庭の横を通り過ぎようとしたとき、聞き慣れた話し声が聞こえてきた。それに足を止めて、そっと覗くように中庭に目を向けてみると、そこにはやはりアリステアが居た。エースはニッと笑ってすぐさまアリステアに声をかけようと一歩足を踏み出した。しかし声をかける寸前で、アリステアが他の寮生と話していることに気づき、はっとエースは立ち止まった。

 そそくさと身体をかがめて、息をひそめてこっそりと二人の様子を盗み見る。

 アリステアはいつもの調子で笑っていて、話している相手はほんのりと頬を赤らめてる。この距離からでは、正確に話の内容を聞き取ることはできないが、相手の様子を見る限り、いつものアレだろう、とすぐに気づいた。

 こういうことに他人が突っ込むことでもないしな、と内心複雑になりながらも見なかったことにしようとしたエースだが、ふと今朝のことを思い出した。そしたら、踵を返していた足先が、二人に向かって歩き出していた。


「アリステアせんぱーい、なーにしてんの?」


 アリステアの背後からそっと近づいて、肩に手を置いて顔を出す。

 突然のことにアリステアは目をぱちくりと丸くしていた。その様子に少し優越感に浸りながら、肩口から相手を睨みつける。それを見た相手は、真っ赤だった顔を真っ青に染め上げて、逃げるようにアリステアの前から立ち去っていく。

 話の途中だったというのに、突然逃げるように去っていくものだから、アリステアはぽかんと口を開けて、走り去っていくその背中を呆然と見つめた。そして、背中で悪戯っ子のようにクスクスと笑いをこらえているエースに、じとりと視線を向ける。


「……こら、エース」
「オレ、なんもしてないし?」
「もう。せっかく、次の相手が見つかったところなのに」


 頬を膨らまして腕を組んで怒った様子を見せるアリステア。いや、怒っているというより、残念がっている、という方が合っているかもしれない。

 はあ、とため息をつくアリステアを、エースは冷静な眼差しで見つめていた。「さて、じゃあどうしようかな……」エースから離れてそんなことを呟くアリステアに、エースは投げかける。


「ねえ、先輩」
「うん? なあに?」


 声をかければ、アリステアは人懐っこい笑顔を浮かべてこちらに振り返る。


「なんで先輩、そういうことしてんの?」


 そう尋ねると、アリステアは意外な質問だったのか、目を丸くした。そして、そっと目を細めていつものように口元に笑みを浮かべる。


「うーん、エースにはまだ早いかなあ」
「はあ? 歳一つしか変わんないじゃん」
「君はまだまだお子様だよ、エース」


 学年一つしか変わらないのに、大人ぶって子ども扱いをしてくるアリステアに、エースはムッと唇を尖らせる。その様子を見て、くすくすとさらに笑うものだから、エースは眉を吊り上げてさらに不満げな表情を浮かべた。

 拗ねるエースを見てしばらく笑っていたアリステアが、ふと口を噤んで、ぼそりと独り言のように呟いた。


「――人間、誰しも愛されていたい≠チて思うのは当然じゃない?」


 エースには、その言葉がはっきりと聞こえていた。

 アリステアは視線だけをぼんやりと逸らして、どこか思いふけるような表情を浮かべている。そうしてまた視線を目の前に移せば、ニコリと誤魔化すように微笑んでくる。

 エースは固まっていた唇を動かした。


「でも、アイツら別に……アリステア先輩のことが好きって訳じゃないじゃん」


 エースは今朝のことを思い出しながら言い放った。

 アリステアは、来る者拒まず去る者拒まず、といった性格だ。良く言えば温厚、悪く言えば八方美人。なんでも優しく受け入れるような人だから、そういうところに付け込んでくる人間が多い。もちろん、全員が全員とは言わないが、比率的に言えばそちらの方が多い。


「はは、やっぱりまだまだお子様だなあ」


 好きかどうか、好意があるかどうか、と訴えるエースに、アリステアは吹き出すように笑った。


「嘘か本当かなんてどうでもいいんだよ、エース」


 え、とエースは口を開けて固まった。そんなエースの様子を見つめながら、アリステアはふふ、と笑って続ける。


「その一瞬でも、愛されていればいいんだよ」


 当然のことのように口にするアリステアに、エースは呆然とした。その反応を子供だと表現していたのだろうか。アリステアはくすりと笑って、そのまま踵を返した。

 エースはそれにはっとして、急いで追いかけてアリステアの腕を掴んだ。


「……それ、オレじゃダメなの?」


 振り返ったアリステアは、じっとこちらを窺うように見つめてくる。そうして最後には、困ったように眉根を寄せて首を振った。


「ダメだよ。君はまだ純粋で綺麗なんだから、こっち側に来ちゃ。もっとまともな恋愛しないと」
「それを決めんのはオレでしょ」


 ムッとして、反抗的に言ってやれば、アリステアはやれやれと肩を落とした。

 ちらりとこちらを見て、このままでは埒が明かないと悟ったのか、アリステアは「じゃあ、こうしよう」と人差し指を立てて、ずいっと前に差し出した。それに反応して、思わず身体が後ろに仰け反る。

 目の前のアリステアは楽しげに笑っていた。


「僕の愛は欲張りなんだ。君に愛されていたいって思えたら、エースのこと、考えてあげる」


 目を丸くして、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。呆然としている間に、アリステアはくすくすと笑って「じゃあね」と難なく腕からすり抜けて、そのまま立ち去ってしまった。

 一人中庭に取り残されたエースは、これでもかと大きなため息をついて、片手で顔を覆った。


「やってやろうじゃん……!!」


 挑発されたままでいられるか、とエースはもう見えないその背中を睨みつけた。