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第五話


 彼女は、本来の人魚の姿から人間の姿になる力を持っていたらしい。上半身が人間の姿であるから、おそらく陸に適した身体に変化させることができたのだろう。彼女は魔法使いではないが、少なからず魔力を持っていた。そのせいもあるだろう。

 人間の姿になったことで、彼女の体温は少しばかり温かくなった。今までは、人魚として水の中で生活するのに適した体温だったが、人間の姿になったことで、陸に適した体温に変化したのだ。とは言っても、彼女の体温は人間でいう低体温体質であった。

 また、やはり人間の姿では水の中で息をすることはできないようだ。水の中で生きるすべを代償に、陸を歩く足を得る。陸では不自由だが水の中では自由で陸でも息をすることができる人魚の姿と、水の中では生きられないが陸で自由を得る人間の姿。どちらが良いのかは、シャイロックには分からない。けれど、本来の姿である人魚の彼女の方が、シャイロックにとっては好ましかった。

 彼女の様子を見るに、人間の姿になったことは今までに無いようだった。人間の姿になり二つの足を得たのは良いが、彼女は生まれてきたばかりの小鹿のようで、一人で立つこともままならなかった。今まで一本足で水中を泳いでいたのだ。陸を二本足で歩く、という感覚が無いのだから仕方がない。

 それからというもの、彼女に二本足で歩く方法を教える日々が始まった。

 まずはひとりで立てるようにならなければならない。シャイロックは彼女の両腕を掴んで支えながら、彼女が自力で立てるように手伝った。最初は足の感覚に慣れず、がくがくと足を震わせては膝を崩して座り込んでいた彼女だったが、徐々に足の感覚を掴んでいき、立つことができるようになった。彼女は飲み込みが早い、とムルが言っていたが、運動神経にも優れているらしい。

 最初はシャイロックの腕に支えられて、次はテーブルや物に手を付きながら立ち上がった彼女は、数日後にはなんの支えも無しに一人で立ち上がることができるようになっていた。

 その一連の成長を見ていると、なんだか赤子が自力で立ち上がった姿を見た親のような気持になったのを覚えている。その様子を隣から、にやにやとし笑みでなにか言いたげにムルが見てきたが、気にしても無駄だと無視をした。

 立ち上がることができたら、今度は歩く練習だ。彼女の両手を取って、少しずつ引いて行き足を前に出すように促す。けれど、立ち上がることはできても、やはり足を動かすことは難しいようだった。足を一歩前に踏み出した途端、自分の体重を支え切れずに何度も彼女は崩れ落ちた。それでも何度も手を取って立ち上がる彼女は、健気で可愛らしい。水槽の中で不自由に閉じ込められていた彼女より、今の彼女の方がなんだか庇護欲を煽ってくる気がした。

 自力で立ち上がれるようになるまでより時間はかかったが、それでも徐々に彼女は歩けるようになっていった。


「そう、右足を前に……ええ、上手ですね」


 彼女の両手を優しく包み込みながら、足を一歩一歩引き、ゆっくりと自分の方へ引いて行く。彼女はそれに従って、おぼつかない足元で、しっかりと一歩一歩地面を踏んで歩き出す。

 毎日歩く練習を繰り返していれば、気付けばいつのまにか膝から崩れ落ちることは無くなり、しっかりと足の裏で地面を踏んで自分の体重を支えられるようになっていた。少しばかり淋しいけれど、彼女がひとりで歩けるようになる日も近いだろう。

 焦らずゆっくりと部屋の中で練習をしていると、ふいに彼女の足が上がりきれずに地面につまずいて身体がバランスを崩した。


「おっと……大丈夫ですか」


 倒れ込んできた彼女を抱き留めれば、腕の中にすっぽりと納まる。腕の中に捕まえた彼女を覗き込んで伺えば、彼女は顔を上げてこくこくと頷く。


「少し休憩しましょうか。焦る必要はありませんからね」


 足が上がらなくなったのは、疲れた原因だ。そう言って、シャイロックは彼女を横抱きに持ち上げて、部屋の片隅に置かれた水槽に向かって歩き出した。

 今では水しか入っていない、空っぽの水槽。水槽の目の前に来れば、彼女は首に回していた腕を離して、水槽に向かって腕を伸ばし始めた。それに従ってシャイロックがさらに水槽へ近づけば、そのまま彼女は腕の中から離れて、水の中へ身体を沈めた。

 じゃぱん、と水の音がして、辺りに水飛沫が舞う。濡れた場所を魔法で乾かして、再び水槽へ視線を向ける。そうすれば、人魚の姿に戻った彼女が、以前のように水の中から顔を出してこちらを見つめていた。視線を少し下げてみれば、水の中で尾ひれがゆらゆらと揺れていた。


「人の足で歩く貴方も素敵ですけれど、やはりその姿の方が貴方らしくて綺麗ですね」


 水で濡らして手で彼女の頬を撫でれば、人間の時に比べて低いひんやりとした体温が手のひらから伝わってくる。手のひらに押し付けてくる頬は柔らかくて、いつまでも触れていたい。そっと瞼が開いて、真っ青な瞳に自分の姿が映り込んだ。それが、なんとも言い難い気持ちを溢れ出させる。


「貴方は美しいですね」


 どんなおとぎ話でも伝説にも、貴方の美しさに勝るものは、きっといないだろう。

 シャイロックは、心からそう思えた。