あなたをつかみそこねたできそこない
数日後、ドロシーはようやくベッドから降り、外を自由に出歩くことが許された。
賢者やアーサーに心配をされ、長らく休暇を取っていたドロシーだが、フィガロから完治の報告を受け、ようやく解放されることになった。それでも目の前でドロシーが重傷を負った瞬間を目にしたアーサーは、不安げな眼差しで素直に頷くことができなかった。そんなアーサーに、今度こそ本当に大丈夫だ、と言えば、アーサーはようやく心から安堵し、緊張がほぐれたように笑顔を浮かべた。
すると、アーサーは改めて謝罪を述べた。今までも、暇さえあれば見舞いに立ち寄って、何度も自分を庇って負った怪我に謝罪を繰り返していたが、アーサーにとってはそれでは足りないらしい。それほど、彼を追い詰めてしまったみたいだ。庇ったのは自分の意志であり謝られることは無い、とドロシーは改めて告げる。それでも浮かない顔をするアーサーに、ドロシーはありがとう、と口にした。初めて彼に笑顔を向けただろう。青い瞳を丸くしている。アーサーは初めて向けられた笑顔に言葉を失くして、どうしようもなく嬉しくなって、内に抱えていた言葉など忘れてしまった。そして謝罪ではなく感謝をかえすように、アーサーは笑った。
魔法舎の人たちからも、完治祝いの言葉を貰った。こんなに大勢の人に話しかけられて、賑やかすぎて少し居心地が悪いが、以前ほど嫌いでは無くなっていた。なんだか、チレッタに振り回されていた日々を思い出す。あの時は三人だったけど、今では大勢いて、騒がしさも増したけれど、たまになら良いかもしれないと思えた。
完治をしたことで、調査や討伐にも復帰することになったが、スノウやホワイトからはきつくお小言を言われた。オーエンやブラッドリーはこの体質に目を付けていたが、弱い魔女には興味が無いらしく、それもすぐに終わった。ミスラには最後まで討伐に参加するのを反対されたが、賢者の傍に控えるという条件で落ち着いた。しぶしぶという仕草だったが、前に出ないということで取り合えず納得をしてくれたらしい。
そうして徐々に元通りの生活に戻ってきたある日。その日は天気が良く、温かい風が気持ち良かったことから、ドロシーは中庭で読書をしていた。ベンチに座り、ぺらり、ぺらり、とページを捲って行く。
結局、あの日を最後にオズとは会えていない。見舞いにも一度も来なかった。それもそうだろう。あの日、オズはひどく傷ついた表情を浮かべていた。傷つけてしまったのだ。だからもう、きっと会いには来ないだろう。きっとそのほうが良いのだ。なにも問題は無い。元の形に戻るだけだ。だから、なにも問題は無いのだ。
不思議と心は落ち着いていた。そう思い込んでいるだけかもしれないし、オズに会えていないからそう思えているだけかもしれない。またオズに会えば、乱れるかもしれない。それでも、不思議と落ち着いていた。遠く離れた姿が近づいてきたと思えば、途端に遠く離れ消えてしまったかのように。荒れた波も凪いでいく。
ドロシーはそっと瞼を閉じた。温かな風が、頬を撫で、髪を揺らす。
ざく、土を踏む音が聞こえた。
瞼を開ければ、そこにはオズが立っていた。もう、会いには来ないと思っていたのに。オズは左右に視線を泳がせては、控えめに真っ赤な瞳を向けた。
「・・・・・・隣に、いいか」
窺うように視線を向けたまま、オズは控えめに尋ねた。目を丸くして見上げるのをやめて、ええ、とドロシーは頷く。オズはそれを聞くと、遠慮がちに隣に腰を下ろした。
会話は無い。沈黙が二人の間に流れた。ドロシーの視線は膝に広げた本に向けられ、オズは真っ直ぐと目の前を見つめている。時々お互いの様子を窺おうと視線が向けられるが、それがぶつかり合うことは無い。温かな風が二人の髪をゆらゆらと揺らしていた。
「・・・・・・なぜ、今更になって、私に関わるの」
最初に口を開いたのはドロシーだった。オズの視線が、ドロシーに向く。ドロシーはオズに見つめられながら、下ろした視線をそのままに、パタリと本を閉じた。
「貴方にはもう、隣にいてくれる大切な子ができたのでしょう」
視線が交わる。同じ色をした瞳に、お互いの姿が映り込んだ。絡み合った視線に、思わず逸らしてしまいそうになるのを堪え、オズは口を静かに開いた。
「・・・・・・確かに、アーサーは私にとって特別な子だ。だが・・・・・・」
言葉は途中で飲み込まれ、口は閉ざされた。僅かに視線は落ち、また沈黙が流れ出す。何度も繰り返されたそれを打ち砕くように、オズは顔を上げ、真っ直ぐにドロシーを見つめた。
「おまえも、私にとってはかけがえのない存在だ」
一層強い風が吹き荒れた。草木は揺れ、花がおどる。耳を塞いだかのように、辺りの音は消え、静寂が支配した。まるで、二人だけの世界にいるような感覚だった。
風は止み、静寂だった世界に音が取り戻された。ドロシーは静かに口端を上げた。
「――なに、それ」
笑みを浮かべようとした表情は歪んで、きゅっと眉根が寄せられる。そのままドロシーは顔を俯かせた。
今更、そんなことを言われてもどうしようもない。過ぎた時間は戻ってこない。過ぎたことは取り戻せない。どんなに望んでも祈っても、それは叶わない。ずっとひとり、部屋に佇んでいた。窓の外を眺めて、姿を探してた。雪に覆われた白銀の世界で、貴方を待っていた。それなのに、それなのに。
「ずっと、貴方の帰りを待っていたのに」
――ならどうして、連れてってはくれなかったの。
ハッと口を噤んだ。言うつもりの無かった言葉が、零れ落ちてしまった。恐る恐る見上げれば、オズはまたあの時のように表情を歪めて、その真っ赤な眼差しで見つめていた。
違う。そうじゃない。そんな表情をさせたかったわけじゃない。そんなことをしたかったわけじゃない。
「違う、私・・・・・・私が、貴方の重荷になったから・・・・・・だから・・・・・・っ」
「ドロシー」
「――っ」
違う、違う、ちがう。声が震える。言葉が詰まる。顔が見れない。オズの目を見れない。
ドロシーは弾かれたように立ち上がりその場を去ろうとしたが、それを追ったオズに腕を取られ、ドロシーはその場に繋ぎ止められた。腕を掴まれた瞬間それを振り払おうとしたが、強く掴まれたそれを振り払うことはできなかった。ふいに、真っ赤な瞳と目が合った。寂しそうな、悲しげな瞳。オズは顎を引き、わずかに掴んだ腕の力を抜いた。
「・・・・・・私が、これ以上おまえを傷つけるというなら、私は二度とおまえとは関わらないと誓う」
これが最後だと言うように、オズは静かに告げた。
「だが、もし、赦されるというのなら・・・・・・」
縋るように、真っ赤な瞳が見つめる。懇願するように、触れた指に力が籠った。離さないで、と乞うように。
「どうか・・・・・・」
祈るように、オズは瞼を閉じた。
それは、千年ものあいだ、後悔を抱え続けた男の願いだった。