心鳴く夜
カラン、と氷がグラスの中で響く音がした。
夜の魔法舎では、西の魔法使いであるシャイロックが営むバーが開かれる。彼は西の国で魔法使い限定のバーを開いており、魔法使いの社交場として有名だった。そんな彼が毎夜開く魔法舎のバーには、いつも誰かが立ち寄っており、今日も二人の客人がいた。
「それで、最近ドロシーとはどうなの?」
カウンターの席に座ったフィガロが、ロックグラスを口元に傾けたのちに、世間話をするように軽い調子で口を開いた。
隣に座ったオズは、持ち上げたグラスをそのままカウンターテーブルに戻し、ちらりとフィガロを見やる。ニコリと笑みを浮かべて、片手で持ったグラスを揺らしている。酔った様子はない。まだ飲み始めたばかりだ。視線を戻し、カウンター越しにグラスを磨くシャイロックを今度は見つめた。シャイロックは口を挟むことなく、口元に笑みを浮かばせながら沈黙を守っている。オズは視線を下ろし、手もとのグラスを見下ろした。
「・・・・・・変わった、と言われた」
独り言のように、ぽつりと呟く。
「自分の知る私は、もう何処にも居ないのだと・・・・・・そう言われた」
見下ろしたグラスの中の水面が反射して、自分の顔が映り込む。それをぼんやりと眺めながら、ドロシーに言われた言葉や表情をひとつひとつオズは思い出した。
「そりゃあ、変わるよ。今までで何年経ってると思ってるの」
目をぱちりと瞬かせ、瞳を伏せ俯くオズとは正反対に、フィガロは明るく笑い飛ばした。
「俺たちだって生きてる。長く生きていれば、いずれどこかで変わる」
俺もお前もね、とフィガロは注がれた酒を喉に通した。「でも、それはドロシーも同じだよ」ごくり、喉に通したそれを飲み込み、静かにグラスを置いたフィガロは、しんと静まり返るような落ち着いた声で呟くように囁いた。オズは顔を上げた。
「ドロシーだって変わった。目に見えて分かるところも、お前にしかわからない変化も、きっとあるだろ」
なにも変わったのは自分だけではない。長く生きていれば、誰だって変化する。それは進化するあらゆる生き物と同じように。「変わることは、悪い事じゃない」フィガロは、持ち上げたグラスをくるくると回して、グラスの中で波打つ水面を眺めていた。その瞳がなにを見つめているのか、自分には分からない。けれど、どこか遠くを見つめていることだけは分かった。
「ドロシーは別に、お前が変わったことに嘆いてるわけじゃないよ」
「・・・・・・どういうことだ」
数度瞬きをしたオズが問えば、フィガロはやれやれと呆れた様子で肩を落とした。そのまま、カウンター越しに立つシャイロックに同意を求めるように視線を向ければ、シャイロックは上品に笑みを零し、まだ分からない、という顔をするオズに視線を向けた。
「もし、自分の大切な方に会ったとき、その方が自分の知らない人になっていたら、オズはどう思いますか」
問われたオズは、素直にその問いについて考えた。視線を逸らし、頭の中でそれを想像する。浮かんだのはドロシーの姿だ。
あの日、賢者の魔法使いに選ばれ魔法舎に向かったとき、ドロシーと再会した。会話は無いに等しかったが、その時の彼女は自分の知らない彼女に変わっていただろうか。確かに、フィガロの言う通りドロシーの変わった。双子の屋敷に居たころには見なかった表情や知らなかったこともある。けれど、本質が変わったわけではない。オズにとっては、昔も今も変わらず、ドロシーはそのままだった。
まだ首を傾げるオズに、シャイロックは再度問いかける。
「その存在が、自分の手の届かない遠くに感じたとき、あなたはどう思いますか」
オズは再度、その問いに考えた。
ドロシーの存在は、自分にとって遠かった。すぐ目の前にいるのに、手を伸ばせば触れられるのに、その存在は遠い。そう感じるのは、きっとドロシーの隣に立つミスラの存在のせいだ。今のドロシーの隣には、ミスラがいた。そこにはもう自分では立ち入ることすらできず、近寄ることもできない。確かに、そこには、自分が立っていたはずなのに。
ハッとオズは顔を上げた。シャイロックに視線を向ければ、彼は微笑みを浮かべていて、フィガロに視線を向ければ、彼は仕方が無いな、と言うようにこちらを見つめていた。視線を下ろせば、グラスの中に自分の顔が映り込む。スッと入り込んできた感情に、そっと息を零した。
「そんなことを言われたくらいで引き下がるなら、初めから声なんてかけるべきじゃなかったんだよ」
フィガロは空になったグラスに、再び酒を注いだ。「でも、おまえはそれで良いの」グラスから視線だけを逸らして、ちらりとこちらを静かな瞳が見つめてくる。グラスに添えた両手にグッと力が入った。
変わったと言われ、責められているように感じた。変わったと言われ、拒まれているように感じた。近づけば、脆い彼女は簡単に跡形も無く壊れてしまう。そうならないために、やはり身を引くべきだと。そのほうが、きっと彼女のためになると信じて。
「違うから、おまえは動いたんだろ」
そうだろ、と背中を押すようにフィガロは笑っていた。
フィガロの言う通りだ。アーサーや賢者に、背中を押された。きっかけを与えてくれた。そのきっかけが、諦めかけていたなかに降り注いだ、一寸の希望に見えた。そして、それに自ら縋った。
オズは隣でグラスを傾けるフィガロを見つめた。
「・・・・・・なぜ、私たちのことを気に掛ける」
フィガロは口元からグラスを離して、目を丸くしてオズを見返した。ポカンと口を開けるフィガロには、オズの真意が分からなかった。「おまえは、ドロシーを好んでも興味も無かっただろう」続けられた言葉に、ああ、とフィガロは口を零す。それからもったいぶるように視線を彷徨わせて、諦めて肩をすくめた。
「・・・・・・おまえ出て行ったあと、結構酷いこと言っちゃってさ」
フィガロは視線を伏せて、そう呟いた。隣から反応が無いのを気にして、伏せていた視線を上げれば、オズはきゅっと眉根を寄せて怒るにも怒れない複雑な表情を浮かべていた。そんなオズにフィガロは「ああ、怒んないでよ。あの時はそんなつもり無かったんだって」と、笑いながら弁解をする。しかしその笑顔もスッと消え、感傷に浸るようにグラスを見下ろした。
「でも、ここ数年になって気づいてさ。酷いことを言ったんだなって」
オズが出て行ったあと、待ち続けるドロシーに何度も投げかけた心無い言葉たち。南の国で再開して、変わったドロシーに過去を突きつけるように言い放った言葉たち。その時のドロシーの表情が、以前よりもよく見えた。見えていなかったところが、見えるようになった気がした。それは、自分も変わったからだろう。南の国での穏やかな生活で、ルチルやミチルに慕われるなかで、自分もきっと変われたのだろう。
「だから、その罪滅ぼしだよ」
にこり、と隣のオズに笑顔を向けた。そんなフィガロを、オズは黙って見つめた。フィガロはそのまま視線を逸らして、グラスを傾ける。グラスに注がれた酒を飲む姿をじっと見つめ、オズは視線を自分のグラスに戻し、それを持ちあげた。
「・・・・・・訂正する」
「え、なにを?」
フィガロはグラスから口を離して、首を傾げた。ちらりとこちらに視線を向けた真っ赤な瞳と目が合ったが、それはすぐに戻されてしまった。フッと、オズが口元を和らげた。
「おまえは存外、ドロシーを昔から気に入っていた」
そのままグラスを傾けるオズを、フィガロは目を丸くして呆然と見つめた。
自分では分からないことも、他人からなら分かることもある。自分の目では己の姿が見えないのだから。
フィガロはくしゃりと笑った。
* * *
「もう、ミスラさん! 私のベッドで寝ないでください!」
「うるさいなあ、別にいいでしょう」
ルチルは腰に手を当てながら、目の前に寝転がるミスラに声を荒げた。
突然、夜の自室に扉が現れたと思えば、そこから抱き枕を抱えた少し不機嫌なミスラが出てきて、そのまま何も言わずにベッドに寝転がったのだ。不眠症だというのは理解しているが、このままベッドを占領されてはルチルが眠れない。自分の部屋で寝てください、と何度も告げても、ミスラは不機嫌に寝返りをうつだけで一向に退いてはくれない。そんな子供みたいに駄々をこねるミスラに、ルチルはため息を落として、ベッドの隅に腰を下ろした。ミスラは背中を向けて抱き枕を抱きながら寝転がっている。ルチルはその背中に向かって口を開いた。
「ドロシーさんと何かありましたか?」
ミスラの身体がわずかに硬直した。その問いに返答も身動き一つすら無かったが、しばらく経つと居心地が悪そうに身体を捻って、ちらりと背後のルチルを見やった。
「どうして、分かったんですか」
自分の師とそっくりな顔立ちのルチルを、ミスラは窺った。
騒ぎを起こして双子に怒られたのは、オズと殺し合いをして、魔法舎をボロボロにしたからだ。そこにドロシーが関わっているなんて、オズも自分も一言も喋っていない。それなのになぜ、ルチルはドロシーと断定したのか。ミスラには分からなかった。
そんなミスラをよそに、ルチルはふふ、と笑みを零す。
「分かりますよ。だってミスラさん、ずっとドロシーさんと一緒にいるでしょう?」
ぱちり、瞬きをした。
ドロシーの隣には、いつもオズが居て。ここには居ないのに、いつもドロシーの隣にはオズが居座っていた。その席はオズのものだった。しかし、ルチルや魔法舎のみんなにとっては、そこにはミスラが居た。ドロシーの隣にはいつもミスラがいるのだと、当たり前の認識としてそう捉えられていた。ミスラは初めて、それを自覚した。
内側から湧きあがってくる感情を感じ取りながらも、ミスラはそれを素直に喜ぶことができず、大きな身体を小さく丸めた。
「・・・・・・泣かせてしまったんです」
ぽつり、ミスラは小さく呟いた。
膝を折って、身体を丸めて、小さく背中を向けるミスラを、ルチルは見つめた。
「・・・・・・絶対に、言ってはいけない、言葉だったのに」
消え入りそうな声は、どんどん小さくなって行く。
その言葉が、どれだけドロシーを傷つけるのか理解していた。昔、チレッタが言っていた。どれだけ時間が経っても、癒えない傷は存在すると。ドロシーの傷が、それだった。だから絶対に言ってはいけない。言ってしまえば、ドロシーを泣かせてしまう。それだけは許せない。泣かせてしまえば、オズと一緒になる。それだけは、許せない。自分はオズとは違うのだから。オズなんかとは違うのだから。
抱き枕を抱えた腕にグッと力が入った。
「それなら、謝ればいいんですよ」
ルチルは優しい声色で、背中を向けるミスラに言った。「ドロシーさんなら、きっと許してくれますよ」しかし、抱き枕に顔を埋めるミスラからの反応は無い。それでもルチルは声をかけ続けた。
「もし、言葉だけでは難しいなら、なにか贈り物をするのもいいですよ」
「・・・・・・贈り物って?」
すると、ミスラは少しだけ抱き枕から顔を上げて、盗み見るようにルチルを見上げた。
なんでも良いんです、とルチルは言う。「ドロシーさんの好きな物とか、食べ物とか」例えを並べるルチルの言葉を聞きながら、ミスラは頭の中にドロシーの好きな物を思い浮かべてみるが、どれもしっくりこない。そんなものを贈ったところで、許されるようなものではない気がした。微妙な表情を浮かべるミスラに、ルチルは「ドロシーさんのことを考えて贈ることに、意味があるんですよ」と語り聞かせる。「きっと、大丈夫ですよ」それでも浮かない表情をするミスラに、ルチルは自信満々に笑顔を浮かべた。そんなルチルが、ミスラには分からなかった。
「だって、ミスラさんのことを見つめているドロシーさんの瞳は、誰よりも優しい眼差しをしているんですもの」
目を見開いて、呆然とルチルを見上げた。
正直なところ、信じられなかった。それでも、ルチルの言葉に嘘偽りが無いことくらい、嫌でも分かる。ふと、ドロシーを思い出した。その赤い瞳に自分が映り込んだとき、一体自分はなにを見ていたのだろう。
ベッドから起き上がり、乱雑に抱えていた抱き枕を放り投げる。そのままベッドから抜け出して、《アルシム》と呪文を唱えれば、見慣れた扉が現れる。扉はどこかに繋がっているのだろうが、真夜中のせいで暗くてどこに繋がっているのか、ルチルには分からない。ミスラは扉の前に立つと、ゆるりと振り返った。
「失礼しました、ルチル」
「はい。いってらっしゃい、ミスラさん」
パタリ、と扉が閉まりミスラの姿と共に消えていく。その背中を、ルチルは笑顔で見送っていた。