エクリの定理



"アイドル科"
そう聞けば誰しもが興味を持ったし、嘸かし華やかな花園なんだろうと想像する学生も多いだろう。
でも実際は、財力や権力が渦巻く薄暗く泥々な格差社会とも言えよう、余りにも残酷な戦地である。

そういう酷い話はOBである兄達から実際聞いている訳で、確かな情報なので周りが何と言おうが私は興味本位でアイドル科の校舎へと足を踏み入れることなんてした事もないし、色恋じみたファンとして校門で待ち伏せするようなストーカーじみた事もしない。

それでも昼休みの友人達とのガールズトークは専らアイドル科の男の子達の話題で持ちきりなので、会った事もないけれどそれなりに人物把握は出来てしまっている。あの先輩は元モデルでスタイル抜群なんだよ、とかあの人はダンスが上手くてパフォーマンスに長けてる、とか。そんな中でも今日は少し惹かれる情報に出会った。

「うちらのタメの衣更真緒ってS級にイケメンだけど周りがドン引く位苦労人らしいよ」

向かいの席の友人が「あんたそっくりの苦労人が二年のアイドル科にいるんだよ」と突然ニヤニヤとぶっ込んで来たのだ。

あぁ、聞いたことある!かなりお人好しなんでしょ?世話好きっていうか、そこが萌えるんだけどね!うんうん、迷惑かけられる事が好き的なね!と周りのクラスメイトが食い気味で会話に参加してくる。

「でも私、お人好しって訳じゃなくない?」
「でもマゾじゃん名前」
「え、それ今の会話に関係ある?」

断固として私はマゾヒストでは無いが、確かに苦労人というか何というか。厄介事に毎回遭遇してしまう。今日だって早速担任に「苗字に頼みたい事がある」とフラグを突き付けられ、放課後生徒会に音楽科での授業案内書を届けに行って欲しいと頼まれた。そんな大事な物を生徒にさせる教師ってどうなの?と皮肉一杯に無言で資料をひったくれば、俺はこれから出張へ行かなければならないとそそくさと去ってしまった。

本当にふざけるなと思うのがその生徒会室がずっと避けていたアイドル科校舎にあるという事。
この学園を統じるのは勿論アイドル科であるので仕方無いのだろうが、西館から東館ましてや、薄暗い噂の男所帯な戦地へと足を向けなければならない。
他の女子達なら万々歳なんだろうけれど、私にとってはただの死刑宣告だ。








放課後、教室には私だけ。
音楽科特有の様々な楽器の音があちらこちらから聞こえるのが心地よい。それぞれ課題曲製作やら部活やらで忙しいのだろう。私は生憎、優等生(仮)である。であるからして、もう課題曲だって完成済みだしまず音楽に専念する為に部活なんて入ってない。放課後に課せられ活動と言えば、環境委員会として花壇に水遣りをする位だ。

日が沈み始め、辺りは一層茜色に染まって来た。
少し開けた窓からはもうすぐ夏だというのにも関わらず涼しい風が通り抜け頬を掠める。
たな引くカーテンの隙間から、赤い光が私めがけて射し込んで思わず目線を反らせば、積み上げられたプリント達が視界に入る。

「そろそろ届けにいかなきゃ」
重たい腰を上げ、スカートの皺を軽く伸ばす。
手鏡で前髪をチェック。ピンクのグロスを薄く唇へと塗り直してプリントをよっこらせと担ぐ。
一応身だしなみもしないと、「これだから音楽科のオタクは」とか言われそうで恐い。偏見だがアイドルってそういう所に目敏そう。

東館に向かえば、校舎の作りが少し違う異世界へと来た気分だ。なんだか耳に入る雑音も、低音だしガヤガヤして煩い。男子達が走り回る足音とか、机を引きずる音とか。待てよまだお前ら掃除してるのか?
さっきからすれ違う人達は整った顔の男ばかりだ。
反して向こうは制服の色の違う、ましてや女の私を見ては好奇な目で見つめてくる。


「黄色のブレザーってどこ?」
「演劇科じゃね?」
「違うよ音楽科だよ!」

思わず声に出して突っ込んでしまい一気に熱が顔面へと集中する。何で自分声に出してしまったのだろうか。それ程勇気のある人間だったのか苗字名前は。
踏んだり蹴ったりだ、いやこれは完全に自虐行為なのだが。真っ赤な顔で走り去れば後ろから、「音楽科了解!」と半笑いで叫ばれた。






「あった」
西洋的で可愛らしい"生徒会室"と書かれた看板を見つけ徐にドアへと手をかける。

「すいません」
少し重いドアを横へ引けば、やはり西洋的な造りの大きな部屋が目前に広がる。大きな机に無造作に並べられた椅子達はどこも空席状態、手持ち無沙汰に並べられていた。

「誰かいませんか」
早く用事を済ませたい。誰もいないなら机の上に置いておけばいいじゃないかとも思ったのだが、常識的に考えてこれは手渡しで無くてはならない大事な書類であろう。紛失なんかした暁には放置した、と私が怒られるに違いない。放課後の活動時間くらい誰か居ろよ、と怒りを込めながらも荒々しく歩き回り辺りを物色する。

やたらロイヤルで高級そうなティーセットや一点物であろう漆焼の花瓶が置いてある辺り、流石は資本主義生徒会だなあと鼻を鳴らした。


「ったくアイドル科はろくな奴いねえな」
権力財力を味方に仰け反ってる生徒会メンバーしか頭に浮かばず、思わずまた声に出して皮肉れば、後ろから「ろくでなしで悪いが、何か用か?」と声をかけられた。


タイミングが悪すぎる。
そう、先程からタイミングが悪すぎるのだ。
思った事を心に留めておこうという理性が今日は働いていないのか否や、厄日には違いない。



「まじで聞かなかった事にして下さい」
「分かった、分かったからいい加減頭上げてくれ」

先程の囁きを聞かれてしまった唯一の生徒会メンバーに頭を床に着くくらいに下げれば、慌てたように肩を掴まれる。
お人好しそうに眉を下げて苦笑いをするその男子生徒に昼間の友人達の言葉が蘇った。

「貴方もしかして衣更真緒?」
「あ、俺の事知ってるの?」
ビンゴである。このお人好しそうな顔。性格が顔に滲み出ちゃってるタイプ。当たって砕けろで聞いてみたらやはり噂の衣更君であった。


「音楽科ではお人好しイケメンで有名だよ」
「なんだよそれ」
「ろくでもない日々過ごしてるんでしょ?」
「ろくでもない言うな」


取り敢えずこれ、私の担任からの資料です、と紙の束を手渡す。何だこれって顔をした後スラスラと文書に目を走らせたかと思えば「あぁ、これな。了解」と受け取ってくれた。何だか頭が良さそうな人である。
頭一つ分くらい背の高い彼を下から覗き見れば、本当に綺麗な顔をしている。前髪全開なのに顔小さいし、肌綺麗だし、睫毛が長いのに手とか体格とか声とかはちゃんと男の子で。アイドル、あな恐ろしやと合掌する。


「これ、よかったら」
私は思い立ったようにポケットから常備している飴玉を一粒取り出し、彼に握らせた。

「あ、みぞれ玉だ」
俺これ好きなんだよな、と彼は水色のソーダ味の飴玉を陽に透かせて見ている。私も視線を飴玉に向ければ真っ白なザラメが陽の光でキラキラ光り、透き通ったスカイブルーはビー玉のようにどこか神秘的だった。それを見つめる翠色の彼の瞳もキラキラと輝いていて、皆の想像するアイドルそのものであったから少し心臓がドキりと強く鼓動した。


「まさかこの飴玉さっきの暴言の口止め料?」
「当たり」
冗談でそう言って思っ切り笑って見せれば、安いなーとまた衣更君は困ったように眉を下げて笑った。

「絶対にさっきの、生徒会長に言わないでね」
「しゃあねぇな、この飴玉に免じて黙っといてやる」
今度は、思いっきり目を細めて笑ってくる。
ころころと表情が変わって面白い。
自分の感情に忠実なのだろう。
だからお人好しっぽさも顔に滲み出ちゃってるのか。

「なあ、お前名前は?」
「あぁ、言ってなかったね。音楽科二年の苗字名前だよ」
もう会わないと思うけどね、と皮肉に手を振れば、またいつか会えるだろ、と目の前の男は軽く言ってのけた。

「じゃあ、生徒会頑張って」
「ああ、お前こそなんか色々頑張れよ」
適当だなあ、と振り向いて顔を顰めれば「だってお前のことよくわかんねぇから」と真っ当な意見を頂戴した。
よく分からない、か。初対面だから当たり前なのに少し寂しい気がした。



「やっぱり、もう会わないかもって撤回」
「ん?」
「絶対会う」
なんか悔しいから私の事、衣更君にいっぱい知ってもらう、絶対に!半ば勢いでそう宣言すれば、急に恥ずかしくなったので急いで部屋を出る。今日は何だか後悔してばっかだ。
すると、いつだかのように後ろから半笑いで声を掛けられた。
「そんなに俺に会いたいなら俺から会いに行ってやるよ」





衣更真緒は皆が言うように、世話好きでお人好しかもしれないけど、本当は少し強引で、男らしい人間なのかもしれない。
数日後、まさか本当に彼が音楽科へ足を運んでくれるとは思ってもいなかったけれど、いつもより浮足だった私は廊下で二回転んだ。