潮風と聖母と


夏の夕方の明るさは砂上の淡水のような肌目のこまかさで空気に溶け込む。
昼間のような皮膚を焦がす痛みは感じられないが、日が沈みかけている今でも普段感じられない紫外線の痛みをひしひし感じ、未だ真っ白な肌の女は顔を顰めた。

海辺の浜で1人、テニスボールを拾いながら陽の光に眉を寄せている名前は所属する立海大付属中学のテニス部夏季強化合宿で沖縄に来ていた。

選手ではなくマネージャーとしての参加だが、サーブ練習のボール出しや練習メニューの作成、選手のクールダウンのサポートや朝昼晩の食事作りなど毎日目まぐるしい雑務に追われている。

現に、浜辺でスマッシュ練習をしていた選手達がそこら中に撒き散らかしたテニスボールを今1人で虚しく名前は拾う。
スタメンのみの強化合宿である為マネージャーも必要最低限という事で優秀なサポーターとして名前だけが参加していた。1人で幸村達をサポートするのもそこそこ大変だ。しかし立海大付属中学のメンバーが彼女を1人頬って置くはずもない。

彼等は非常に「出来た」生徒達である。

幸村精市達は成る可く彼女の負担を減らそうと片付け等も率先して行ってくれていた。

しかし女は何だかそれが非常に申し訳なく感じた。

マネージャーとして参加したからにはその職務を全て全うする必要がある。
同じく「出来た」生徒である名前は、彼等のご好意を全て断り選手には練習に専念してもらう為に合宿での雑務は全て自己判断、彼女1人で行っているという訳だ。

今頃ハードな練習で流した汗を、大浴場で洗い流している所だろうかと最後のテニスボールを拾いながら彼女は目の前の大きなホテルを一瞬見遣る。
神奈川ではあまり見る機会の無い椰子の木が並ぶ美しい外観のホテルを予約出来たのも立海大付属中学のテニス部が輝かしい功績を残しているからだ。
そんな部の、しかも一軍の面々をサポート出来るというだけで名前は優越感に浸っていた。


「はあ、」

それにしても360度何処を見渡しても美しい景色である。
思わずため息をついてしまうくらいうっとりする浜辺の美しさと日中の気持ちの良い疲労感が混ざり合い不思議と酔いしれる。

夕方の日差しはその暑さにも日中の挑みかかるような強さはなくだらりと気怠い残照になっているが、目の前の日に染まった赤い海が何とも美しい。

首筋を生温い汗が伝うのは嫌だけど、押し寄せる波に裸足をつけてみるとひんやり気持ちが良くて名前は口元を綻ばせた。


「私もそろそろ帰ろうかな」

暫く海に足を入れ静かに楽しんでいた名前は、テニスボールが沢山入った籠を持ち上げ踵を返した。


「うわっ、」
「あっ」


さてホテルに戻ろう、そう思って振り返ったら先程までは誰も居なかった筈の浜辺に見慣れた姿が現れた。
海の明るさできらきらひかる金髪をさらりと靡かせながら、その美しい顔をした男はバツが悪そうに目を逸らす。

「君、確か比嘉中の」
「あー...、そう、平古場凛」
「そうそう、平古場」

前に何度か練習試合で当たった事がある比嘉中の3年生、平古場凛。

粗暴なプレイをする比嘉中へのイメージはあまり良くは無かったが鬼監督による鬼畜な練習メニューの内容を聞かされた時は思わず同情した。
ラケットを握っている彼等の目はみんな綺麗で、多分テニスが本当に好きなんだろうなと名前は感じていた。

そんなライバル校の1人が何故こんな所に。頭をフル回転させてここが沖縄だと名前は思い出した。

「...、立海、沖縄さ来てたんばーね」
「強化合宿でお邪魔してます。そこのホテルに泊まってるの」


静寂に耐えきれないと言わんばかりに凛が口を開き女も直ぐに答える。
折角なら、高級ホテルに宿泊している事を自慢してやろうと先程まで眺めていた椰子の木が並ぶホテルを誇らしげに指差した。


「あい?これに泊まっとるんばー?」
「そうだよ、部屋からのロケーションも最高で毎日起きるのが楽しみなの」
「おー、そうか」

何故か平古場も誇らしげな顔をして微笑むものだから、思わず名前の心臓がどくりと脈打った。
「彼等は沖縄への愛が尋常じゃない」という事を咄嗟に思い出した彼女は恐らく景色を褒めたからこんなにも凛は嬉しそうなんだと小さく息を吐く。

それよりも目の前の男は選手でも無い自分の事を知っているのかと名前は今更不安になる。

「所で、名前の事知ってる?」
「アホか、自分で名前言っとるんば。知ってる、苗字名前だろう」
「うっかり。てか知ってたんだ!」

選手の名前は試合前に点呼がとられるのでコート上にいる人の大半が知ることになる。
しかしマネージャーのフルネームが他校の一軍選手の耳に入ることはあまりない。
不思議だなあと名前が頭を傾げていると、凛は
「やー、ちゅらさんな顔しはるから気んかいなってたんだしよ」と恥ずかしそうに呟く。

「...ん?ごめん、ちゅらさんって何?」
「罵倒する言葉」
「は!?酷い!」

思わず素を出して顔を般若にして喚く名前にうっせうっせと凛は至極面倒な顔をしてあしらう。


「というか平古場はここで何してるの?」
「帰り道やっさ。家帰るのにここ通らないといけないんばーよ」

諦めた名前が少し不満げに尋ねると、背負うラケットバックをチラリと名前に見せた彼はそう言って浜辺の先の方を指さした。

「くままっとーば行った所がわんの家」
「く、くま、まっと...?というか毎日ここ通ってるの?羨ましい」

沖縄の方言を理解するにはまだ難しい所がある、と冷や汗をかきながらも名前はこの先真っ直ぐ進むと凛の家がある、ということは理解した。

こんなに綺麗な海を眺めながら帰れるなら毎日が癒しである。
思わず声のボリュームを上げた名前に今度こそ凛は誇らしげに口角を上げた。


「やーは沖縄好きか?」
「やー?名前の事かな...、沖縄大好きだよ」
「はは、そうか」

ゴーヤチャンプルーとか大好きだから明日みんなで食べに行こうかって話してたの、と名前が嬉しそうに言えば今度は顔を真っ青にした凛が「ゴーヤーだけは勘弁」と後退りした。


「あと何日沖縄に居てる?」
「うーん、あと2日かな」
「そうか。あとうっぴーか」

凛と名前が会話をしている間にも気が付けば陽は沈み、紺色の空へと変わってきた。
白く輝く小さな星も名前にはいつもより大きく発光して見える。


「もう暗くなっちゃったね」
「あー今頃、立海の連中が心配しちゅるさ」
「そうでも無いと思うよ」

意外とあの人達神経図太いからさ、と笑えば凛も大きく笑って「それは流石にないさー」と眉を困った様に下げた。


「今度は観光で来てくぃみそーれ。案内してやるさ」
「本当?今回は全然観光出来ないから次の連休にまた遊びに来ようって思ってたの」
「だぁるば。じゃあ連絡先教えろば」


ポケットの中から自然な流れでスマホを取り出す目の前の男に手馴れ常習犯かと一瞬後退りするも、名前は不思議と嫌では無かった。

LINEのQRコードを名前が読み込むと凛は「スタンプでも適当に送ってえーて」と嬉しそうに微笑む。

「じゃあ今送っとくね」
「あい、確かに受信しましたー」

お気に入りの海老のスタンプを押してトーク画面を作成すると気持ちの悪い蛇のスタンプが返ってきた。

「じゃあそろそろ行くね」
「あい、気を付けるんばーよ」

少し名残惜しいが流石に幸村達が心配する頃だと、再びテニスボールの籠を抱える。
また連絡するね、と言えばはいはいと適当に返された。


「じゃあね、平古場」
「ぐぶりーさびら」
「ぐぶり、何て?」

最後の最後までウチナーグチが理解出来ずに不完全燃焼に終わった名前は思わず振り返って聞きすと凛は大きくため息をついた。

「さーへーくはーれ!」
「え?何?どういう意味?」
「早く帰れ!」

何度も振り返って自分の言葉を必死に理解しようと真面目な顔で聞き返す名前が可愛くて、面白くて。凛は火照った顔を誤魔化すように目を吊り上げて声を張る。


分かったよ、帰るよと今度こそ困ったように笑ってホテルのロビーへと入っていった名前を見届け凛は空を見上げる。

まさか一目惚れの彼女と地元で遭遇する時が来るとは。連絡先まで交換してしまって正にラッキーな1日である。
明日、裕次郎に自慢してやろうといつもより浮き足立った凛は毎日通る砂浜の感触を確かに感じながら家族の待つ家へと向かった。


次に会った時にはもっと仲良くなってやる、なんて中学生らしい淡い恋心を抱いた青年はもう1度大きな夜空を見上げる。




「ちゅらさんは美しいってことばーよ、アホ」