油煙の嘘

すっかり暗くなった街にビルの明かりが幾つも浮かんで見える。暗闇に染まることを拒むかのような小さくてか細い光の群れだった。まるで自分自身を表しているような其れに酷く怯えた苗字は、歩く速度を少し早めた。

「こっちだ」
前を歩いていた降谷に、「はい」と空返事をし路地を曲がれば、日だまりに転び寝したような閑寂さの中にひっそりと一軒の立派な料亭が現れた。

実は一度だけ、この店には上司と来た事がある。
所謂公安御用達な店。
仕事柄限られた店にしか入れない彼等にとって数少ない溜まり場の1つである。

鹿威しの音を右耳に入れながら暖簾を潜り、扉を横に引けば見慣れた構図が広がっていた。
相変わらず竹の香りが鼻腔の奥を霞み、慣れない香りに思わず2人の男女は顔を顰める。
視線を店内に向ければ間隔を開けた個室がズラリと奥の方まで並んでおり、降谷は苗字を一番奥の個室へと案内した。

「降谷さん、何飲まれます?」
「取り敢えず、生かな」
「えーじゃあ私もそうしよう」

席に着き、早々に降谷へ注文を聞く苗字は、食事メニューを手際よく広げる。

この店、焼き鳥美味いよと降谷が暖かいおしぼりに顔を埋め疲れた瞼の上を覆えば、愛想良く笑った名前が「じゃあ決定」と焼き鳥セットの写真を指さした。

「俺、牛タンセット」
「え、美味しそう私も牛タンセットで。あと普通にお腹空いたからこの焼きそばも食べたいです」
「胃袋化物かよ。まあ食え食え」

降谷さんは卵料理好きそう、と目の前の女にさり気なく言われ、何故分かると内心どきりとした降谷だったが少し意地になって「普通」と答えた。


丁度良いタイミングで、着物を着た店員が個室の扉を開ける。
「生2つと焼き鳥セットと焼きそばと牛たんセット2つ」
「あと明太だし巻き卵1つ」

やっぱ卵料理好きなんじゃないですか!と大きな目を見開いて抗議する部下をスルーし、以上でと店員に見え透いた愛想笑いをすれば「ごゆっくり」と頬を赤らめ早々に出ていった。


「察してはいたけど降谷さんは息をするように女を落としくタイプですね」
「知らない間に勝手に落ちてるんだよな」

そんな、雨漏りみたいに言わないで下さいよと真っ白で細めの足を組み、険しい顔をする苗字を見て降谷は体中に笑いが溢れた。純粋にこの女と会話をすると落ち着くのだ。心理戦が得意と言っていたのも頷ける。


それにしても本当にこの女はゼロ組織の者なのか、と降谷の中で未だに疑問が残っていた。
実際、目の前でこの女をしっかり観察していると尚更そんな疑いが深まってくるのだ。

机に乗せた腕なんかは捻りあげれば簡単に折れてしまいそうだし、現にシルバーに小さなピンクゴールドのストーンが付いたブレスレットは肘の辺りまで落ちてしまっている。

此方に来る前に着替えてきたのであろう白襟に黒のワンピースは、すらりとした流麗な身体の曲線をしっかりと表しており、チラリと見える真っ白な手足は水禽のように冷たい優美さを示していた。

なんと言っても目を惹くのは小さな輪郭をした顔であろう。

降谷自身、小顔であるとよく讚されるが彼女のそれは比べ物にならない。相対的に大きくてグレーがかった黒い瞳は、何かとてつもない大きなことでも夢見ているようなあどけなさを持っている。

濃いめの朱色の唇なんかはついさっきグロスを塗ったらしく、キラキラと光っている。憎いほど真っ黒で艶のある髪、青みのある白い肌はまるで降谷とは正反対であることを突き付けられているようだ。


前々日に喫茶店ポアロで述べた第一印象と大して変わらない評価を悶々とする男はしてみたが、人形のように品のいい整った顔立ちとはまさに目の前の彼女のことを言うのだろう。
本当にこんな女が警察官なのか。



注文の品が届けられ、机の上を整理しながらジョッキをぶつけ乾杯をする。

「仕事終わりのビール最高ですね」
「お前以外とおっさん臭いんだな」

見ていて気持ちが良い飲みっぷりの苗字を見て、細い体のどこにこのアルコールは流れていくのか降谷は不思議でならなかった。


「まあ早速だが、質問に答えてもらおうか」
「あ、はい。答えられる範囲内でしたら」

牛タンの上の辛味噌を器用そうに箸で伸ばしている目の前の男にそう告げられた苗字は、そっとジョッキを置く。まるで死刑宣告でもされたかのような雰囲気である。

「まず、お前のデータが民間人のように改ざんされていた。これは公安職員かつ企画課の人間であることからも頷ける。しかし3年間留学と称して国外に出てるのは何故か」
「出向したからです」

まるでクイズの答えを述べるかのように割りと元気に答えた苗字に、思わず降谷は吹き出しそうになる。大事な話なのだから、せめて今は笑わせに来ないでほしい。

「フランスに出向ってことはICPO辺りか」
「はい、そうです」

ずっとICPOに憧れてて、管理官に頼み込んだら所属1年目で出向させて貰えました、と苗字は嬉しそうに焼き鳥を一欠片口に入れた。

出向の事実に嘘は無さそうだと降谷は判断し、他の質問を考える。その間苗字は、弁護士と経歴を偽っている父がICPOの上層部であること、双子の兄の片割れがFBI連邦捜査官であること、そして例の組織を秘密裏に追っていることだけは口外しないようにしなければ、と手に力を入れた。

「まず、お前は何故安室透が降谷零だと分かっていた」
「初めて喫茶店ポアロに行って安室さんを見た時、3年前に察庁7階F会議室で見掛けた公安職員の顔と一致したので潜入調査でもしてるのかと察しました」

企画課で扱った案件の中に、降谷零という名前があってそのデータと安室さんの顔が一致したので確信しました、とペラペラ喋る苗字に降谷の疑問はどんどん解消されていく。
同時に苗字の洞察力とリサーチ力、記憶力は公安の犬そのものだと舌を巻いた。



「一番気になるのは、何故お前が東都大学院の工学部へフェイクで潜入してるかだ」
「大学院生を称しておくのは潜入調査をする際に都合が良いです。逆に降谷さんが私立探偵だけならまだしも喫茶店ポアロで何故アルバイトをする必要があるのか、の方が気になります」


質問を質問で返されるまさかの展開に降谷は前髪をぐっとかきあげる。
成程、こいつは中々鋭くて厄介だと男は実感した。少し口角を上げた苗字に、いやらしい奴だとアルコールに口を付ける。

「口に、玉ねぎの筋付いてるぞ」
「えっ嘘!」
「嘘」

苗字が攻めるターンである状況を覆す為に、降谷がそんな冗談を言ってのければ、慌てたように口元を手で覆う苗字に、ふとした瞬間は純粋な可愛い女なんだよなあ、と肩の力を抜いた。それと同時に"敵に回したくない"、そんな思いもふつふつと男の中で沸き上がる。


「俺には俺なりのやり方がある、とだけ言っておこう」
「なら私にも私なりのやり方で工学部にいます、とだけ言っておきますね」

咳払いをして、念の為手元のおしぼりで口周りを拭く苗字が言い返してくるものだから厄介だなあ、と降谷は腕を組む。


「沖矢昴との関係性は?」

降谷は、最も気になっていた疑問をついに投げ掛けた。
苗字はもしかしたら、沖矢昴イコール赤井秀一であることを知っていて近づいているのか。
しかし赤井秀一が死んだとされる事件も、沖矢昴が現れたタイミングも、苗字がフランスにいる間の話である。
FBI連邦捜査官の赤井秀一が生存しているという奇妙な事実は、公安の中でも降谷率いる第1班と幹部クラスの人間しか知らない筈だ。


「何故、降谷さんが沖矢昴さんとお知り合いなのかの方が気になります。私は単純に潜入先の工学部で沖矢さんと知り合っただけですので」

因みに私が何故、工学部を選んだのかというのは履修単位数が少なく仕事と掛け持ちしやすい学部だから、とだけ言っておきますね、と引き続き焼きそばに箸をつつく苗字に成程なと降谷は相槌を打つ。


「俺が沖矢君と知り合いなのは、喫茶店ポアロの常連である江戸川コナン君と仲良さそうに歩いている所を見て声を掛けたのがきっかけだよ」

対する降谷も饒舌に嘘をすらすら、と吐く。

しかし苗字は全てを知っている。
沖矢昴が赤井秀一本人であることは勿論、なんなら江戸川コナンが工藤新一という仰天エピソードまで把握済みなのだ。
降谷が懸命に捜査し調べようとしている真実を苗字はいとも簡単に手に入れた。それも一時的だが、ICPOに所属していたから出来たことである。


「降谷さんは何故、沖矢昴と江戸川コナンに執着するんですか?」
「特に理由は無いよ。俺とお前で共通の知り合いである"民間人"がいた事に驚いただけさ」

互が互に嘘を言い合う滑稽な空間は、饒舌な2匹の人狼達によって繰り広げられている。

「そもそもお前探偵業に興味無いだろ。何で江戸川コナンに近付いた」
「それは仰る通りです。あの少年はあらゆる事件に関わりすぎるトラブルメーカーとして第3班でも有名です。警察として目を付けておくのは妥当かと」

そうか、やはりこの女は公安警察で更に降谷と同じように班を束ねるリーダーである事を確信した。
やはり降谷と苗字は対立する関係であってはいけない。全ての心の中の煙を払った降谷は、少し安堵した様子でまたアルコールを口に含む。


対する苗字も、敬愛すべき上司に嘘八百を騙る事に少なくとも罪悪感は感じていた。
きっとこの鋭い男は沖矢昴を赤井秀一だと理解していて、近いうちに江戸川コナンが工藤新一であるという真実にも近付いて来る筈。いつか協力して、本当の事を全部打ち明けて。そして共に同じ方向を向いて捜査が出来たらどんなに良いものかと胸を痛めた。


降谷零が"バーボン"として、又赤井秀一が"ライ"として、更に降谷零と親密な関係にあった公安職員が
"スコッチ"として例の組織に潜入していたことも全て、そう全てをこの女は知っている。

だからこそスコッチを巡って降谷が赤井を憎んでいることも理解しているし、それが誤解であることも分かっている。全てを知ってしまった女は、すれ違う男の悲しき運命を見守ることしか出来ないでいた。

しかし見守るだけというのは民間人のする事だ。
警察庁の特殊な人間として相応しくない。

ならせめて、降谷には同業者としてサポートし、赤井には組織への秘密調査を通して支えていこう、それが今の苗字の気持ちだった。



「まあ気になる事が聞けて良かった。正直曖昧な所もあるがお互い様だな。今後は協力していこう」
「勿論です。宜しくお願いします降谷警視」

そう言って2人はまた、喫茶店ポアロで初めて会った時と同じように握手を交わした。
前回と少し違うのは、苗字の手を握る降谷の力がぐっと強くなったこと。
信頼度の強さに並行する力強さを、苗字はひしひしと向かい側の男から感じながらも、未だしっかり握り返すことが出来ないでいた。

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