「久しぶりにお風呂浸かりたいな……」







きっかけは彼女の一言だった。ここ最近は日課になりつつあるサナのマッサージを受けた時、ぼんやりとした表情でそう呟いた彼女の言葉に深く考えず、なら行くか?と誘った。それに目を丸くして驚き眉を引き下げ、いい湯屋を知らない、と答えた彼女に意気揚々と「適当に調べてくる、朝方なら人も少ないし警戒する必要もないだろう」と俺がそう言ったのがいけなかった。今になって考えるとそう思わざるを得ない。









そんな現実逃避を終え、改めて湯煙の中、俺の目の前に立つ彼女を見やる。体を包むのは頼りのないバスタオル一枚で、それ以外の白い肌は惜しみなく露出されている。こんな姿で俺を見るなりぽかん、と抜けた表情を作るサナと対峙する俺自身はと言えば、マナーの一環で腰に巻いたそれ以外は一糸纏わぬ状態である。これ以上に己のリサーチ不足を呪った事はない。……まさか、ワノ国では"混浴"が主流だなんて思いもしなかった。







固まって状況が読めていない彼女は最早声を上げるような気力も無いらしく、終いにはふらり、と足の力が抜けて床に倒れこみそうになっていた。つい、自然とそれを支えるために腕を伸ばしたが、触れたのは勿論当たり前ではあるのだが、いつものような布の感覚ではなく、きめ細かく触り心地の良い女の肌であり、はっ、と俺がそれに気づいた時には顔を真っ赤に染め上げたサナが俺を見上げて腕の中に鎮座していた。わ、悪い……と口から出た言葉は我ながら非常に弱々しい。だって、こんな、意味のわからない状況、どうしていいかなんて俺は知らない。




変わらず逆上せた顔で彼女はゆっくりと首を横に振る。気にするな、そういった意思を伝えようとしているのは分かるが全くもって説得力はない。この場に及んでその行為に説得力があるのもまた困ると言えば困るが……何にせよ、濡れている床に対して物凄く繊細な動作でサナをしっかりとその場に足をつけて立たせてから数歩、俺の足は彼女から距離を取った。白い布の裾から伸びる足は程よい肉付きがあり細すぎない。綺麗に見える首筋と鎖骨、それに連なって筋肉なんて無いような折れそうな腕。どれもが女性らしくて頭がクラクラした。本当に、なんで、こんな目に。番台の亭主が妙に俺たちを楽しそうに見ていたのはこういうことか、と今になって悟った。






「ろ、ろーくん……ここ、混浴、だったんだね……」
「……一応、言っておくが、俺は別にお前と、その、こうしたいから選んだとかそういう訳じゃ……」
「わ、分かってる!ローくんだもん、そんなことないって……」






分かってる、けど、とそこで止まった彼女の口元に言いたいであろうことを大体悟った。そりゃあ文句の一つや二つ言いたくもなるだろう。"そういう"関係でもない男にほぼ裸同然の姿を見られるなんてタチの悪い悪夢に違いない。俺だって、こんな風に彼女の肌を見るなんて思いもしなかった。こうして忙しなく考えるのをやめないのも、やめてしまえばどうにかなりそうで、思考することをやめられない、という理由が存在している。もう、ここまでくれば俺に残された手段はただ一つ、この場からいち早く逃げ出すこと、それに違いない。ああ、そうだ、そもそも風呂に入りたがっていたのは彼女だ、俺は別についでだ、そんなにこだわりも無ければ別に入らなくても……とそこまでして決まった考えを行動に移そうと彼女に背を向ける。もう一度悪かった、と心からの謝罪を残して扉に手をかけようとした瞬間、俺が下ろしていた腕が掴まれる。嘘だろ、とギリギリ、と振り向けばちょうど少し前屈みになった体勢から覗く谷間が堂々とこちらを見ていて息が止まった。







「折角なら、ローくんも一緒に、」







お前は何を言っているんだ?











俺と彼女だけで閑散とした浴室にちゃぷ、と水音が響いた。今俺達は湯船に隣同士並んで浸かっている。……いや、本当になんでこうなってしまったんだ。俺はさっき最善の行動を取ろうとした筈だ。彼女をこれ以上変に捉えてしまうより早く退散しようとしたではないか。それを打ち砕いてしまったのが彼女なりの気遣いだというのはなんという皮肉なのだろうか。俺たちの間には勿論、本当に、何もない。少なくとも他人が聞いて喜ぶような擽ったい関係などでは一切、ない。なのに何故俺は彼女と一緒の風呂に入っているのだろうか、非常に理解に苦しむ。




彼女の申し出は当たり前だが最初は断った。それでもこういったときの彼女は嫌に頑固らしく引く気なさそうに俺の手を握り湯に入ってしまえばわからない、とほぼ無理やりそこに入れられてしまったのだ。おそらく気を使わずに風呂で体を休めてほしい、という意図だとは思うのだが、この際はっきり言うとこんな状態で心休まるような奴は男じゃない。


当たり前だ。隣に座る彼女は確かに湯に浸かっているのではっきりと見えはしないがその分張り付いた布が彼女自身の体の線を映し出していて見る者によっては逆に厭らしいとも取れる。少し肌色が透けて見えるのもまたどうにも心臓に悪い。不幸中の幸いはこの時間だったからこそ俺たち以外に客が居ないことだ。というか、彼女は誰もいないからこそ、こうして入り続けることを選んだのかもしれない。そう考えるとむしろ不幸といっても過言ではないと思った。極力首を動かさず壁に描かれた山を睨みつけ、彼女から意識を半ば無理やりに逸らす。俺だってこうでもしないとやってられない。





「ローくん、その……気持ちいいね、お風呂……」
「……あァ」
「……ほぼ貸切って贅沢だよ、ね?」
「……そうだな」





いつも以上に弾まない会話はゆっくりと虚空へと消えていく。あからさまに困った表情の彼女に多少の申し訳なさを感じつつも俺だってそこまで気にしてられる余裕がない。一応、自制をしているつもりではあるし、彼女に何かが起こるのはあってはならない一番の結末だ。それが別の誰かにしろ……俺にしろ、あってはならない事だ。透けるような肌に付いた水滴がどれほど色っぽく見えても、風呂の熱で赤くなった首元も、毛先だけ濡れた触り心地のいい髪も、そのどれもが意識するのに得策ではない。全てを無にしろ、と脳内で自身を律し続けようとし、彼女から必死に視線を外すが、逆に俺は彼女の好奇の目を何故か一身に受ける事になっている。……これはこれでまた居心地が悪い。





「……なんだ」
「あ、ご、ごめん……つい、」





ついなんだよ、と聞こうとして途中で閉口する。変に自爆して困るのは俺だ、ある程度は好きにしてもらった方が都合がいいかもしれない、と軽く息を吐き出した。その動作に俺が呆れでもしたと思ったのか彼女は少し慌てたように辺りを見渡してから不意にいいことに気づいた、と言わんばかりに閃いたと言った顔を俺に向ける。……漠然とした嫌な予感を抱えつつ恐る恐る先を促せば、やけに輝かしい笑みが浮かんだ。








カコン、と反響した風呂桶と水が流れ落ちる音に包まれたその空間で俺の後ろに立つ彼女は先程までの恥ずかしそうな表情は何処へやら、やけに楽しそうにこちらを見て笑っている。鏡に写しだされた俺は何と表現するのが正しいのか、兎に角苦々しそうに眉を顰めているのが見えた。





「じゃあ流すね」
「……あァ、」





俺の無愛想な返事を気にも留めない彼女は汲んだ湯をゆっくりと俺の背にかけ流す。それから、慣れた手つきで泡を纏わせた手拭いで俺の背を洗い始めたその行動に、ゆっくりと息を吐き出した。背中を流したい、だなんて、なんとも彼女らしい申し出だった。実際、程よい強さで擦られる感覚は心地よく、ついでに凝っているからと解された肩が軽く感じる。やはり彼女の手技はいつもながら職人技だと改めて感心させられた。施術室でもたまにこうして背中を流すことがある、そう話す声を聞きながら頭に浮かんだロロノア屋と彼女のイメージに訳もなく苛立つ自分が腹立たしい。






「ローくん?」
「……!なんだ、」
「ええと……前も洗って大丈夫?」
「あ、あぁ……いや、別に構わねぇが…」





脳内に浮かんだ男に内心睨みを利かせていると不思議そうに彼女が覗き込んできた。少し動揺しつつもとりあえず肯定すると彼女は軽くタオルを押さえながら俺の前に膝をついたが、何というか……これはこれで、色々とまずい気がしなくもない。アングルとして見えてしまうものが多いので出来るだけ彼女を見下ろさないようにと適当な場所に視線を置きつつ、目を閉じた。さっさと終わらせてくれ、と口に出そうになったが、彼女にプレッシャーをかけるのも本意ではない。諦めてじっと目を閉じておく。





ふ、と香った甘い香りと目の前から伝わる雰囲気に、つい、目を開けた。そこに立つ、こちらへと身を乗り出して俺の首もとや胸元に触れる彼女を脳で認識すると同時に筋緊張が高まり、心拍が上昇した。彼女の小さな手が布切れ越しに俺の肌に触れる。いつかのように俺に刻まれた決意の証を大事そうになぞるその仕草と、それを見つめる瞳の柔らかさが妙にくすぐったく感じた。





「……相変わらず、立派な刺青だね」
「……そうか」





うん、と頷いた彼女の体をに目を向ける。俺とは違う、白くて、脆そうな肌。怪我とは無縁そうなその美しさになんとなく、手を伸ばした。一度瞬きをしてから輝きを秘める丸みを帯びた目を向けた彼女の手首の細さにクラクラする。ましてはこんな状況、もう少し警戒をする方がいいのではないだろうか、とこちらが心配してしまう。お前には、とそれだけ呟いて、続く言葉をほんの少し言い淀む。緩やかに首を傾げた彼女に気が抜けそうだった。






「お前には……刺青は似合わないだろうな」
「そう?」
「あァ……傷すら、似合う気がしねぇ」





彼女のきめ細やかで艶のある女性らしい体にそれ以外の何かが残ってしまうのはとても勿体無い気がした。俺の言い分に本人は少しだけ含み笑いをして「そんなに綺麗じゃないよ」と眉尻を下げる。確かに、彼女の体には小さな傷がたくさん存在しているのは事実だ。でも、俺はそれを踏まえても彼女の体は綺麗だと感じている。この傷は彼女が戦ってきた強さの証だ、彼女の生きた印だ。俺の決意を込めたこの刺青を立派だというのなら彼女の戦いの跡も立派である筈だ……かといって、別に俺は彼女の傷がどんどん増えてほしいだとかそんなことは考えていない。寧ろ、大きな傷であるほど自分がオペをできていたらどうなったのか、なんてことも考える時もある。俺のそんな感情に気づいているのか、いないのか。彼女はただ笑うだけだった。





ゆっくりと揃って湯船に入り直した俺たちはなんとなく、はじめに浸かった時よりも距離が近かった。明確な理由がそこに存在するわけでは無いのだが、少なくとも俺は今はそれを居心地が悪いとは感じなかった。ふ、と水の中で意識せずに手が触れた。俺が顔を上げたのと同時に彼女も顔を上げ、視線が交わる。少し口元を綻ばせたサナは自身の小さな手でそっと俺の手握った。その行為に驚いてもう一度彼女を見ると「だめだった?」と尋ねられた。俺にとって、この行為には良いも悪いもない。嫌でも無ければ、こうしたいとかそんなことを考えるのも門違いな筈だ。




「……別に、好きにしろ」
「……!うん、」




曖昧で、逃げた返事にも彼女は嬉しそうに目元を細めて赤くなった頬を持ち上げ笑った。満足そうなその動作になんと言えばいいか分からなかったが、彼女が喜んでいるのなら悪くはないな、と思う自分が居た。ぼんやりとした意識に逆上せでもしたのかもしれない。











「ありがとうございました、お二人とも長く入ってましたねぇ……いやぁお熱い」
「……おい、」
「はい……?」




番台の言葉に苦い反応しかできない俺とあまり分かっていないように首を傾げるサナは浴衣を纏い、銭湯の下駄箱を出た。俺たちしか客が居なかったからか、番台は店の外まで俺たちについてくると深々と頭を下げてから気の良さそうな笑顔を浮かべ、






「またいらしてください、今度は仲睦まじい奥方と殿方に何かサービスさせていただきますから……何せ、こんな時間に奥方を連れてくるのだからよほど大切だとお見受けいたしましたよ」
「え、」
「なッ」






俺と彼女の反応には興味が無いのか、いそいそと店内に戻っていく番台を唖然と見送る。たしかに、言われればそう見えなくも無い、アイツには俺は妻の裸を誰にも見せたくない独占欲の強い夫とでも思われていたのだろうか、そう思うとつい頭を抱えたくなった。そりゃあもし本当にそうだったとして公共の混浴なんて連れてはいかねぇ。実際彼女の背中を流すような行為はいい妻になるだろう、と、そこまで考えて、はた、と気づく。何故俺は好意的に自然とその状況を受け入れてしまったのだろうか。否定すればいい、それだけだったのにこんな馬鹿げた考えを脳裏に写した自分はもっと馬鹿だ。深くため息をついてから何も発さない彼女になんとなく目を向けて、息を呑む。湯屋を見て固まったままのサナの頬はぼんやりと赤く染まっている。風呂のせいじゃない、それ以上に色づいたそれから目が離せなかった。あ、と俺の視線に気づいた彼女がこちらを見上げる。一纏めにした髪の下から覗く白いうなじまで紅を散らしたように赤くて、俺は、と、伸びた手をぴたり、と止める。背後から聞こえた女の笑い声にゆっくりと振り向けば、





「……あら、邪魔したかしら?」





と口元を押さえて笑うニコ屋が立っていた。俺が何か言うより先にサナは彼女に駆け寄り、慌てて否定していたが俺は何かを言う気にはなれない。少なくとも今俺は多少、乗せられていた。その事実に頭が痛くなりそうだ。何故ここに、と押し出すように投げかけた質問に「もうすぐ稽古なの」と綺麗に笑う女に息を吐く。なんてタイミングの悪い、と奥歯を噛んだ俺にまた楽しそうに微笑んだニコ屋は、




「大丈夫、私から見てもお似合いよ」




と袖を揺らしてにこり、と笑顔を作るニコ屋に面食らう俺と彼女をそのままにそろそろ行くわね、と上品に下駄を鳴らして歩く姿が妙に様になっていたのが逆に憎らしい。置いていかれた俺たちをどうするつもりなんだ、と文句を言う相手すらも失い「……行くぞ、」と促した俺にサナは一度頷くだけだった。










「その、ありがとう……私のわがままでなんていうか、いろいろ……」
「……いや、俺があの店を選んだのがそもそもの原因だ、気にするな」





暫くして着いた彼女の按摩屋の前でお互いに今日の反省を述べた。風呂に入りに行ってリラックスする筈がむしろ返って疲れてしまった気がする。彼女も心なしか苦く笑っておりもうすぐ訪れるであろう客のためにも早めに退散することを決め、また来る、とだけ述べるとサナは目を瞬かせてから、キュ、と眉を下げた。戸惑ったのは俺の方で、どうにもそれが俺には寂しそうに見えた。そんな意図が彼女にあるのかは分からないが子犬か何かのような表情と竦めた肩に、つい、腕を伸ばして軽く髪を撫でるように触れた。一瞬驚いていた彼女だがすぐに機嫌良さそうに目を細めて緩やかに笑う姿がただ純粋に動物的な可愛らしさを感じた。少し名残惜しく感じながらそっと手を離して一歩後ろへ下がった。瞼を開いて俺を見つめる目が暖かい色を秘めていた。それがむず痒くて踵を返して歩き出そうとしたその時、ローくん、と名前を呼ばれ、俺が振り向くより先にほんの少しの圧迫感が背中に響いた。自分の腹部に回されたその小さい手はつい先程までに見ていた彼女のものと同じで、それを理解し、止まった思考が中々動き出さない。今、何を、





「……ッは……!?」
「またきてね、ローくん」





感じた熱が離れると同時に勢いよく彼女へ振り返るが、そこには逃げるように閉じられた扉と按摩屋の暖簾が揺れるだけだった。一瞬、伸ばしかけた腕が落ちて、行き場のない感情がぶら下がる。なんで、こう、と彼女への様々な想いが交差して処理が追いつかない。サナの考えも、意図も、何もかも分かりはしないが、甲斐無く熱くなった体と、どうしようもない事実に頭を痛めたのであった。








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