天使と守護者







乾いた木が擦れるような音と共に視界に飛び込んできたのは柔らかい笑みを浮かべた彼女と、その彼女に手を引かれてバツ悪そうに小屋に戻ったトラ男の姿だった。落ち着く為にも火を付けず咥えていたタバコを思わず歯の奥で噛み潰す。自然と睨むようにアイツに向けた俺の視線にトラ男自身も気付いたのか、俺と目が合わせると露骨に眉を顰めた。顰めたいのはこっちだ、と舌打ちが溢れ、それを隣で聞いていたフランキーが呆れたようにこちらを見下ろしていたが知ったことじゃない。というかいつの間にかこんなに仲良しになってるんだ。俺がほんの一瞬船を離れただけでうちのアイドルサナちゃんがどこぞの海賊に取られているなんて誰が想像しただろうか。こえーよ、とウソップの怯えた声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだ。




不思議そうにサナちゃんが首を傾げて俺を見たその仕草がそりゃあもうクソ可愛くて転がり回りたかったが、咳払いでそれを制する。おかえり、と声をかければニッコリと笑って「ただいま」と返してくれるその素直な返事が愛らしい。彼女と結婚でもしたら今みたいなやりとりを飽きるくらいにできるのかと思うと天にも昇る心地がする。勿論、一生かけても飽きない自信があるのだが。







「おい、サンジ?」
「……ハッ!……あぁ、しまった……あまりの幸せな家庭での生活に涙が出そうだった」
「お前何考えてんだよ!そうじゃなくて……」
「分かってるっての。サナちゃん、この家一組だけ布団があったんだ。俺たちで話し合った結果……君がここに寝てくれ」







ぱちぱち、と瞬きをした彼女はえ!?と驚きの声を上げ、その隣に立つトラ男はまぁ妥当か、と言った表情を浮かべている。これで不満そうな顔をされたらそれこそ蹴り飛ばしていたが……どうやらそういう訳ではないらしい。俺たちを見て、悪いよ、と眉を下げた彼女にいいんだ、と笑顔を向けるとさらに困った様子で「でも、」とトラを見上げたサナちゃんに一つ息を吐き出して「怪我人が居る訳でもないなら、女のお前が寝る方が体を冷やさなくていい」と自然な動作で彼女の頭に手を置いたのに声が出そうになったが寸前のところで後ろからぐい、と勢いよく口を塞がれた。






「何すんだこの……!」
「シーッ!サナとトラ男、結構上手くやってるんだよ……!見てるこっちも早くどうにかなってくれないと、もどかしくて仕方ねぇんだって!」
「あァ!?何が上手く……」
「見てれば分かる!頼むよサンジ〜!」
「信用ならねぇ……アイツがうちのエンジェルサナちゃんを誑かして、」
「……誰が誑かして、だ」






背後から聞こえた酷く機嫌の悪そうな声にウソップと揃って、あ、と声を上げる。ゆっくりと振り向けば、歪めた口と中心に寄せられた眉に加え、吊り上がった目をこちらに向けるトラ男が腕を組んで立っていた。明らかに怒りで青筋を立てている。彼の奥にはフランキーと何やら楽しそうに話しているサナちゃんの姿が見え、ほんの少し息を吐き出す。ああ、よかった、彼女には知られていないらしい。俺の動作にもはや呆れたように此方を見たウソップは慌てて目の前の男に視線を向け、両手を振って俺はそんなこと思ってないぞ!トラ男!と必死の弁解を図っている。俺は思ってる、と付け加えるように呟けば、おい!と制する声と舌打ちが同時に返された。






「よく考えろウソップ……こいつとサナちゃんが出会ってまだまだ数えられるくらいだ。誑かしている可能性もゼロじゃないだろ」
「そ、そりゃあそうだけどさぁ……サンジなら分かるだろ?"恋はいつでもハリケーン"……だっけ?」
「ッ!?そ、そういうことか……?」
「なんでそこで納得してるんだ黒足屋!!!何故俺が恋をしてる、なんてくだらねェ考えに至るのか理解に苦しむ……!」






思わず深く頷いた俺に対して鋭い声で否定するトラ男は必死の形相を浮かべている。確かにウソップの言う通り、美しいレディに想いを伝えるのも、恋をするのも、男なら必然……もしトラ男が本気で彼女に惚れているのなら納得する。うちの天使サナちゃんはナミさんやロビンちゃんとはまた違った魅力を持つレディだ。暖かな陽だまりのような柔らかさを持つ彼女は冬の寒い日に照る太陽のような人で、どんな時でも確かな安心感と安らぎをそこにもたらす心も体も清らかな存在なのだ。その柔らかさに彼が触れて自身の心を溶かしたと言うのなら、それは分からなくはない。彼女はそれほどまでに魅力的な女性なのだ。




分かるぞトラ男、と頷いた俺を見て唇を噛み、更に不快を露わにした彼がおい、と口を開きかけたその後ろで、結い上げた髪から簪を抜き取り、解いたサナちゃんの姿が俺の目をもの凄い勢いで惹きつけた。まるで名のある絵師が描いた傑作のようなワンシーン、白く眩しいうなじが下りたふわりとした髪に覆われるその瞬間は俺の心臓の拍動を押し上げるのに十分過ぎた。なんて、麗しい……








「おい!聞いてんのか!?」
「……あァ……なんなんだろうなあの愛らしさ……お前も分かるだろ……?」
「トラ男諦めろ、こういう時のサンジは男の話は聞かねぇ」








愛嬌溢れた顔で笑う彼女は掌に載せた何かを包み込み大切そうに握り込んでいる。それを覗き込んで感心したように大きく頷いたフランキーに嬉しそうに目を輝かせるサナちゃんが俺には満開に咲いた華のように見えた。愛おしそうな視線を自分の手元に落としてから懐に仕舞い込んだその動作は側から見ても抱きしめたくなるような愛らしさを溢れさせている。暫く俺彼女から離れる日々が続いたからか、もはや全てがダイアモンド以上の価値を宿しているがよくよく考えれば元々彼女にはそれ以上の価値ぐらい当然だと思い直し、自分を恥じた。あんなに可愛くて、自分の仕事には真剣な彼女の評価なんて俺が決められるものじゃない。神……いや、神なんかに決められるのも腹立たしい。彼女はもっと……







「お前……いつまでサナを見てるつもりなんだ……」
「そりゃあいつまででも……ってトラ男かよ……なんか文句でもあんのか?俺はお前が……お前が、サナちゃんと……ッ……甘いひと時を過ごしてた時に何をしてたか……!」
「は!?誰がそんな……!」







ギョッと目を開いたトラ男は否定するようだが、俺から言わせればその時間がどれだけ天国だったのか、彼女の可愛さを逐一全て教えて欲しいところだ。そう、よくよく考えれば俺がクソみたいな奴らに会っている間、こいつはサナちゃんのところに入り浸り、あまつさえ、マッサージまで受けていたとなんとも羨ましすぎるコースを体験している。信じられん……そんな恵まれた男が居ていいのか?と問いたい。先程までは彼女の幸せのためなら仕方なく許してもいいか、と思っては居たが、ウソップとフランキーに聞いた数々の二人のエピソードは非常に羨まし……腹立たしいこと、この上ない。それに今のトラ男はドレスローザに向かう最中、彼女の握ったおにぎりを食べ、皿をキッチンに持ってきた時とは随分違う。あの頃は決まりが悪そうに俺たちの言葉を受け流していたが、今彼女に向ける視線は誰がどう見ても柔和で、その目元や口元が緩んでいることに彼自身自覚があるのだろうか。細かく言えばキリはないが声色も触れ方も、全てが愛しく思う人へと物だと分かっているのだろうか。この小屋に入ってからもよく彼らを見ていたが、ドアを開ける動作も、自然と彼女の隣に立つことにも慣れを感じさせられた。ここに来るまでもそうだ、一丁前にサナちゃんをお姫様抱っこしたこの男からは、それが純粋な彼女への配慮だということが伝わってきた。





だからこそ、狡い。いっそ、下心や邪な感情がそこにあれば俺だってなんでも言ってやれるのに、この男がした事と言えば、彼女への正当な評価、彼女のための気遣い、そして彼女を傷付けないため、護る為の行動でしかないのだ。ローは間違いなく、パンクハザードから今この瞬間まで彼女の"ナイト"として存在し続けていた。俺だってそれくらいは分かっている。仲間として彼女を助けてくれていた事には感謝しかない。そりゃあ羨ましい事ばかりだが、例えこの男にどんな感情があろうとサナを護ってきた、それは変わらない事実だ。……とは言え、なら彼を手放しに歓迎するのかと言われればそれは違う。俺が言いたいのは、自分の中で煮え切らない感情を抱えるこの男が彼女をいつか傷付けるかもしれないこと、それが気がかりなのだ。例え"どうにか"なったとしても、彼女は俺たちの船に、トラ男はトラ男の船に戻る時が来る。確固たる意志と誠意を俺たちでは無く、彼女に、見せて欲しい。中途半端な想いで彼女を振り回し、サナちゃんが涙を流すことだけは俺は許せそうにない。








「……オイお前ら、楽しそうなとこ悪ィが……これ以上でけぇ音は立てるなよ」
「え?……あ、…………トラ男!サンジ!お前らもうやめとけって!」








ウソップの声にほぼ同時に振り返った俺とトラ男は、そこに横たわる彼女に目を開く。薄い布団の上に少し緩めた着物を纏い、穏やかに寝息を立てる彼女は正に天界から落ちてきた女神か何かに違いない。閉じられた瞼から長く伸びた睫毛に、光沢のある唇。思わず深々と息を吐き出した俺と対照的にトラ男は軽く息を詰めている。俺たちの反対側には余程疲れたらしいな、と分析をするフランキーと、よく寝てんなァ、と彼女の寝顔を覗き込むウソップが居たのでとりあえずウソップを彼女から遠ざけるように押しのけた。







「ッな、何すんだよ!」
「レディの寝顔をマジマジ見るな!」
「いや、俺の方を見もしないお前に言われたくねぇよ!」
「オイオイ静かにしろって!サナが起きるだろオメェら!!」
「……お前ら全員煩いだろ……」







あぁ!?と今度こそ揃ってトラ男の方を向いた俺たちはそこに広がる光景に思わず瞬きをした。胡座を書いて座っているトラ男の袖は不自然に浮き上がっており、それを目で追えば、彼女の手がきゅ、とそれを掴んでいるのが一目で分かる。俺たちの視線にすぐ何処を見ているか悟った彼は舌打ちをして分かりやすく顔を逸らすが、彼女という飼い主に繋がれているかのようなこの状況では逃げる事も出来ないのだろう、体自体は動かさず繊細に気遣っているのが見て取れた。彼女は相変わらず目を閉じたままだ。







「……お前、」
「……さっき、掴まれた」







俺の声にバツ悪そうにそう答えたトラ男は改めてサナちゃんに顔を向ける。ほんの少し腕を動かして、それでも離そうとしない彼女の掌に半ば呆れたように溜息をつく。やはり無理やり引き剥がす気は毛頭無いようだ。俺もまた、眠る彼女をそっと見遣ったが、あまりに落ち着いた御伽噺のプリンセスのようなその表情を見る限り、彼女がこの状態を不満に感じているとは到底思えない。この状態も相当俺個人としては言いたいことはあるが、それをぐ、と喉の奥へと飲み込む。彼女はきっとこれを求めている、なら邪魔をする道理なんて無い。そのままにしといてやれ、と止めていた言葉を続ければ意外そうに少しだけ瞼を持ち上げたが、トラ男は多くは語らず、一言だけ、あァ、と返すだけだった。ウソップとフランキーも顔を見合わせてこの瞬間を見守っている。じっと自分を捕まえている彼女に目を向けたアイツは、彼女の頬にかかった髪をそっと耳へと掛けるように動かし、目覚める様子のないサナちゃんに安堵したように肩を落とした。





ふと、枕元の方へと目を向けた彼は眠り姫の反応を見つつ、それに手を伸ばす。…………簪だった。桜が象られたそれは彼が彼女に渡したものらしい。非常に繊細で緻密な造形に今回初めてきちんと見ることができた俺も、つい感嘆の声を漏らす程によく出来ている。一瞬、口元を持ち上げたトラ男だったが、徐々に眉間に皺が寄り始めるのが分かる。恨めしそうに見てどうしたんだよ、と戸惑ったようにウソップが声をかけ、それに続けてフランキーが「お前が選んだんだろ?いいセンスじゃねぇか、サナによく似合う」と褒めるのにもトラ男は全く目線を寄越す気はないらしく、ただただ簪を睨みつけてから、







「……似合い過ぎてるのが、気に入らねぇ」







そう、ポツリ、と呟いた。あまりに苦々しそうな声色に何があったんだよ、と声に出すと、少し押し黙ってから何度か口を動かしたが、それを音にする気は無いらしく、トラ男はゆっくりと言葉を飲み込む。掴まれていない方の手で彼女の髪に触れた指先は、シャボンにでも触ろうとしたのかと思うほどに、優しい。そんなこの男を見ていると途端にさっきまでの考えが馬鹿らしく感じ始めた。あぁ、ただ本当にコイツは彼女を好いているんだろうな、と、その全てから伝わってくる。それ以外に説明が付かなかった。きっと彼女と彼だけが、その事実に気付いていないんだろう。もし、彼女が涙を零すなら、その時に俺が制裁を下せばいいのかもしれない、そう思えるだけの猶予を感じた。きっとそれは他の二人も似たような感覚に囚われているんだと思う。隣に並ぶその微妙な顔が全てを物語っていた。相変わらず布団の上の彼女は"王子様"からのキスでしか目覚めなさそうに、こんこんと眠りに就いていた。






















初めて手に取った時からその装飾の繊細さは色褪せず、簪に存在している。そしてそれが、彼女の細く柔らかな髪に華を咲かせることで作品として完成することも、俺は知っている。元々持つ、穏やかで平和的な雰囲気が少し変わり、穏やかながらも奥に秘める美しさを感じさせるような、その雰囲気。背後から見たときのシルエットや、白く、何者にも侵されていない首筋はそこらの男を誘うには十分過ぎる。……何の因果か、この国を象徴とするような桜の花の施しに、つい先程の彼女を思い出した。


あんなにも様になっていたから、攫われそうになったのでは無いか、なんて。随分と幼稚な考えな自覚はあるが、どうにもコイツに良い顔ができる気分では無かった。黒足屋の問いかけにも素直な感想を伝えてしまい、ほんの少しだけ後悔したが、それに深掘りする気は無いらしい。俺にとっては有難い話だ、とつい皮肉めいた感情が湧き上がる。コイツらはどうしても俺を恋慕させたいらしい、が、やはりよく分からない。恋慕とやらが燃え上がるものだとするならば、俺はそれには当てはまらないだろう。彼女に恐らく俺は、そんな衝動を抱いてはいない。


今でさえ、彼女の眠りを邪魔したいだなんて全く思わない。寧ろ、出来ることなら全ての疲れを置いてくるぐらいには眠りに落ちても構わないとさえ感じている。今日は相当走ることになったし、明日以降落ち着いた日々が続くとも限らない。人間、眠れるうちに眠ったほうがいいのは不変的な事実だ。それを起こすなんて、考えなかった。


死んだように眠る彼女がきちんと明日、朝日の元に目覚めて、ぼんやりと揺れる瞳が此方を捉えて、へらりと緩みきったアホ面を向け、俺の名前を呼ぶのなら、それ以上の最善は無い。触れた髪が指の間を通り抜けていこうとするのに息を吐いた。どうしてこんなにも、名状しがたい感情に囚われるのか、不思議で仕方がない。ぼんやりと彼女の名前を呼んだが、返答はない。その代わりに黒足屋と鼻屋に信じられないと言った表情で「お前そんな声どこから出してるんだ」と意味の分からない事で詰め寄られたのがひたすらに鬱陶しかった。






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