▼ 第二十九章


ふとここに来た日のことを思い出した。

まだ自分が審神者としてこの本丸に足を踏み入れたわけではなかったからか、困った客人が来た。
男は言った。

『この本丸には珍しい刀剣が眠っているって噂のことだよ』と。

だからこの棄てられた本丸に足を運ぶ者が後を絶たないのだと。

信じていなかったせいもあってか、そんなことすっかり忘れていた。



そう、目の前に座している彼こそがその噂の“珍しい刀剣”である一振りなのだと確信した。



(でも、どうして…ここに三日月宗近が…)

いつから顕現していたのだろうか。
加州清光がこの本丸最後の刀剣男士ではなかったというのか。
なぜこの本丸にいた刀剣達はそれを教えてくれなかったのか。

様々な思考が脳裏を占める中、目の前の三日月宗近は月明かりに照らされたその美しい顔を小さく傾げて見せた。

「そなたが新しい主、か…?」

夜に似合う優しげな声だった。
肯定も否定もせずにいると三日月は穏やかに笑った。
月明かりに照らされたその面差しは怖いくらいに美しく、自然と桜花の喉が鳴った。

「これはまた、随分と美しい主だな。どれ、もっと近くで顔を見せてくれ」

目の前の三日月はそう言いながら静かに桜花に向かって手を伸ばす。
直後、後ろからぽんと肩に手を置かれ桜花は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。

「っ!!」
「ごめん、大丈夫?」

勢いよく振り返れば目の前に燭台切がいて、そういえば彼らと共にこの部屋にやってきたのだということを思い出した。
ばくばくと大きな音を立てる心臓を煩わしく思いながらなんとか彼に言葉を返そうと口を開く。

「大丈夫、です…少し、驚いて…」
「僕達がいるから、ね。安心していいよ」

優しく声をかけながら背中を擦られ、桜花は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
その間に部屋の中へとずかずか足を踏み入れたのは鶴丸で、彼は袴を翻し目の前にいる三日月の前にしゃがみ込んだ。

「俺は鶴丸だ。鶴丸国永」
「おお、鶴丸だったか」
「早速で悪いんだが、三日月。ここで何をしていたんだ?」

軽い口調で話し掛けてはいるものの、鶴丸も少しばかり警戒しているようで声はいくらか硬い。
しかしそんなことなど気にしない、とでも言うかのように三日月は優雅に笑った。

「いやぁ、俺もすぐにでも皆の所に行きたかったのだが、何しろこれがなぁ」
「これ?」
「解けんのだ」

そう言って三日月が見せてきたのは左手首で、その手甲の上に絡まっているのは赤い紐だった。
見てみれば長いその紐は部屋の奥へと続いていた。

「何を言っているんだ、きみは。ただの紐じゃあないか」

ため息を吐いた鶴丸がそっとその紐に手を伸ばそうとしたときだった。

「やめておけ、鶴丸」

少しだけ声音を強めた三日月に鶴丸の手が止まる。
三日月は瞳を細めた。

「術具だ。おまえの手にも絡まるぞ。さすれば動く事はできん」
「何でそんなものが…」
「審神者のモノだ」

ひくりと肩が震えた。

「審神者が…俺が逃げないようにと結んだんだろうなぁ」

どこか他人事のようにそう言いながら、三日月は視線を桜花に向けた。
宝石の様な目と目が合えば、まるでこちらが縛られているかのように動けなくなるような気がした。

「主。解いてはくれんか」
「……」

その言葉に桜花は誘われるようにおそるおそる三日月に近寄った。

「待って主。君に何かあったら…」

すかさず燭台切が割って入ってきた。
桜花が動きを止め、どうしようかと戸惑っていると三日月の笑う声が聞こえた。

「大丈夫だ。主に害のあるものではない」

俺が保障しよう、と続ける彼が嘘を言っているようには見えなかった。
桜花は固唾を飲み込むと鶴丸の横に膝を付いて三日月に向き合う。
嬉しそうに笑う彼が視界に入った。

何となく目を合わせ辛くて、桜花はそれに応えずに三日月の手首に視線を落とす。
蝶結びにされた血の様に真っ赤な紐が禍々しい気を放っていた。
桜花はそっとその赤い紐を指先で引っ張ると、少しばかりぱり、と電流が走ったような気がした。
それも一瞬のことで、その紐はまるで結び目が無かったかのようにするすると三日月の手首から離れていく。

(確かに、術具のような…)

縛り付けておく為のそれなのだろう、と思いながら桜花が紐をすべて巻き取った時だった。

「礼を言う」

ふわ、と背中に力強い腕が回されて三日月に引き寄せられた。
いつの間にか彼の腕の中に身体はすっぽりと収まっていて、視界の端で彼の髪飾りが揺れた。
思ったよりもしっかりとした体躯が着物越しに伝わり顔が熱くなった。

「っ…」
「そなたは、温かいなぁ」

耳元でそう声がした。

「おい、三日月―――」

鶴丸の咎める声が聞こえてきたと思ったら、身体を強く後ろに引かれた。
三日月の腕から解放され、弾かれた様に後ろを見ればそこには大倶利伽羅がいた。
桜花の肩を掴み、その獣の様な鋭い瞳は真っ直ぐに三日月を睨んでいた。
しかしどうだろう、睨まれている三日月はそれを気にすることなくただ美しく笑ったままだった。

「ああ、そうだった。俺は三日月宗近。打ち除けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」

障子から漏れる月明かりを背にして、彼はそう名乗った。






眠れない夜を過ごし、日が差し始めた頃に桜花は気怠い身体をゆっくりと起こした。

あれから取りあえずは、と三日月を手入れ部屋へと突っ込んだ。
見た様子では傷を負っているわけではないようだったが、何より顕現したままあの部屋に閉じ込められていたのだ。
刀剣とはいえ今は人の姿を模している。

(放っておくわけにもいかないし…)

桜花は誰よりも早く身支度を整えるとその足を手入れ部屋へと向けた。






悪い事をしているわけではないが、何となく周囲を警戒しつつ桜花は手入れ部屋の戸を開ける。
立てられた屏風の向こう側には手入れの済んだ三日月がいるはずだ。

(聞きたいことは山ほどある)

桜花はそっと足音を立てないようにその屏風の向こう側へと回った。

「え…?」

しかし探していたその姿はそこに無く、ただ彼の着ていた狩衣だけが綺麗にたたまれて置かれていた。
思わず眉間に皺を寄せ、顎に手を当てたときだった。

「おはよう、主」
「!?」

突然背後からそう声をかけられて、桜花は悲鳴を飲み込んで振り返る。
すると思ったよりもその人物はすぐ近くにいて、その姿を見上げ声をひっくり返して呼んだ。

「みかづき…!」

昨日と変わりなく、いや日の光の下だからか幾らか血色が良くなったように見えるその美しい顔は、今日もやはり笑みを湛えていた。

「どこに行っていたんです…!?」
「はは、顔を洗いにそこまでだ」

すっと指先で廊下の奥を差し、三日月は笑う。
何とものんびりな性格だろうかと思わずため息が出るも、すぐにそれを改めた。

「貴方に話があります」
「あいわかった、着替えてからでもいいか?」
「はい」

三日月が背を向けたのを見て、桜花も一度屏風の反対側に戻った。
戸の隙間から朝の日差しが入り込んでいて、早めに済ませなければ誰かが様子を見に来てしまうかもしれないと少し焦った。

「主、終わったぞ」

そう声をかけられまた戻れば、こちらに背を向けて佇む三日月がいて、彼はすぐに振り返るとやはりまた笑った。
桜花もまたそれには応えず、彼の前に静かに膝を付いた。
同じように桜花の前に胡座を掻いた三日月は、太刀であるが故かやはり桜花よりも大きかった。

「三日月。貴方はなぜあの部屋にいたんですか」
「はは、そう怖い顔をするな。美しい面差しが台無しだ」
「私は真剣に話をしてるんですが…!」

どうしてそう返してくる、と桜花が思っていると三日月は一度大きく息を吸った。

「やはり外は空気が良い。…いや、これは主の力によるものか」
「……」
「おや、怒ったか」

三日月はすまんすまん、と謝る気など無いのではないかと思うほどさらりと言い放ち、表情もそのままに言葉を続けた。

「俺は顕現されたその日に、審神者によってあの部屋に連れていかれた。それ以来、あの部屋からは出ていない」
「…どうして、ですか」
「さぁ、それはよくわからんが…まぁ俺が珍しい刀だったからだろうな」

そこで笑うのを止め、三日月は桜花をじっと見据えた。

「主が来てくれて助かった」

その言葉に桜花は少し間を置いてから小さく頷き、それから立ち上がった。

「確かに聞きたいことはたくさんありますが…そんな貴方に質問攻めをするのは忍びないです」

手入れ部屋の戸を開けて桜花はその先へと三日月を促した。

「食事にしましょう」

三日月は一度だけ目を見張ったが、すぐに「ああ」と返して音も立てずに立ち上がった。







 ―――続


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