▼ 第二十四章


高らかに蝉が鳴き、本丸にも暑い夏が訪れ始めていた。
桜花は今剣に手を引かれて朝の日差しの照り付ける廊下を歩いていた。

「あるじさま、あたらしいかたながやってきましたよ」
「鍛刀が終わりましたか」

桜花に本日の近侍をお願いされていた今剣は意気揚々と桜花を連れて鍛刀部屋へと向かっていた。

「だれでしょう」
「ふふ。今剣と縁ある刀剣だと嬉しいですね」
「はい!」

初対面の頃よりも随分と元気な今剣に桜花は嬉しくなってその小さな手を握り返す。
風の通る廊下を歩き、やがて二人揃って鍛刀部屋の戸を開けた。






「よっ。鶴丸国永だ。俺みたいのが突然来て驚いたか?」

視界を占める真っ白な衣装と全体的に儚げな印象を受ける目の前の刀剣男士は、想像よりも低い声でそう名乗った。

最近では桜花も人並みには刀剣達のことを理解し始めており、彼が太刀の中でも珍しい一振りであるということは聞き及んでいた。
これまた美しい刀だ、とぼんやり思っていたらずいっとその綺麗な顔が無遠慮に桜花を覗き込んできた。

「きみが新しい主か。女主人に仕えるのは初めてだ」
「よろしくお願いします、鶴丸国永。女でも刀使いは荒いですからお気を付けて」
「おお、これは驚きだな!」

彼は思いがけず人懐っこい笑顔を浮かべた。
また賑やかになるな、と桜花は笑いながら思った。



まだ気温も涼しげな午前中、厨にいたのは燭台切でその姿を見て鶴丸の気分は更に高揚した。

「光坊じゃないか!」
「鶴さん!」

すっかり厨の住人になってしまったのだろうか、そこに彼がいることに違和感を覚えなかった。
案内してくれた今剣も慣れた様子で燭台切の手元を覗こうと背伸びをしていた。

「きょうはなにをつくっているんですか?」
「暑くなってきたからね。素麺にするよ」
「わーい」

嬉しそうに笑う今剣を見て、燭台切も笑う。
それを見て鶴丸はふと先程まで考えていたことを口にしてみた。

「主は女なんだな」
「そうだね。見ての通り女性だよ」

馬鹿にするわけでもなく、ただにこりと笑って肯定する燭台切に鶴丸はその手元を覗きながら続けた。

「呼ばれたとき、何かこう…もの凄いものに呼ばれた気がしたんだ。だが目の前には華奢な主一人だけで拍子抜けしたんだが…」

ふと隅の皿の上にある瑞々しいトマトが目に付いた。
切り分けられたそれの一欠片に手を伸ばす。

「ああ、まぁそれは僕も同じだったかな」

燭台切が胡瓜を切りながら頷いた。
鶴丸は滑るトマトを何とか指先で摘み、それを口に運ぶ。

「行儀悪いよ、鶴さん」

今剣くんが真似したらどうするの、と咎められる。
ふと見れば、確かに横に立つ今剣がじっとこちらを見上げていた。
誤魔化すようににっと笑って鶴丸は再びトマトの一欠片を摘み、そっと今剣の口元に持って行った。
そのときだった。

「あるじさまは、ひとではありませんから」

衝撃的なその言葉に、鶴丸は危うくトマトをその指から離してしまうところだった。
しかしそれよりも早く、今剣はぱくりとその一欠片を口に含んで咀嚼した。

「ああ、もう…」

見ていた燭台切がため息を吐いており、その様子から今剣の発言に対して驚いていないことは見てとれた。
言葉を失った鶴丸は今剣を見て、それから燭台切を見て、再度視線を今剣に戻した。

「お、おいおい、主は手も足もあったぞ。人でないなら何だと言うんだ」

俺をからかって楽しいか、と続けようとすると今剣はごくんとトマトを飲み込んだ。

「おにです」
「……」

鶴丸は無言のままその視線を燭台切に移した。
彼は苦笑いしながら切った胡瓜を笊へと移し、それから鶴丸に向き直った。

「僕も実際に見たわけじゃないし、ここにいた子達に聞いただけだけど」

本当だよ、と燭台切はそう平然と返した。

「あるじさまは、おにです。とてもきれいなおに」

今剣はそう言って厨を出て行こうとする。

「つぎにいきましょう。あんないがおわったら、ぼくはあるじさまのおてつだいをしなくてはいけないんです」
「あ…ああ」
「じゃあ、また後でね。鶴さん」

ひらひらと手を振る燭台切に同じように返し、厨を後にした。



さてここで鶴丸は更に首を傾げた。

鬼とは何だろうか、ということだ。
鶴丸の想像する鬼という生き物はよく昔話にも登場するあれのことだ。
角があって恐ろしい形相をしていて大きくて怖い、寝物語に登場するには不向きな生き物である。
しかしながら目の前にいた主は人と同じ形をしていて、強いて言うなれば人の女性よりも美しいというところか。

(あれが実は鬼が化けた姿というなれば、それは確かに驚きだ)

実は大男だったとか、赤かったとか青かったとか。
考えれば考えるほど主への興味が湧いてくる。
疼く好奇心を抑えられずにいれば、案内を聞いていなかったことがばれたか今剣が怪訝とこちらを見ていた。



考えても答えが出ないのであれば、観察するしかない。
そう勝手に結論を出した鶴丸が向かう場所はただ一つだった。

「主」

開け放たれた障子戸からひょこっと顔を出せば、文机に向き合った桜花とその横では先程まで一緒だった今剣が畳に寝転がっていた。
どうやら眠っているようでぴくりとも動かない。
桜花が姿勢を正したまま鶴丸の方へ顔を向けた。

「鶴丸でしたか。本丸内はどうですか」
「ああ、驚きばかりで退屈せずに済みそうだ」
「それはよかった」

綺麗に笑って再び文机に向かう桜花に、鶴丸は少し間を開けてからその横に滑るようにして座り込んだ。
ふわりと彼女の香りが鼻を掠めた。

「鶴丸?」

少しだけ驚きを声に滲ませた桜花に向かって鶴丸は笑いかける。

「皆仕事をしていてな。相手にしてくれないんだ」
「私もお相手できませんよ」
「構わない」

そう言うと桜花は小さく笑い、それから筆を手に取った。
流れるようなその仕草を見送り、鶴丸は畳に寝転がる今剣を見る。
察した桜花が筆を走らせながら口を開いた。

「最近は落ち着いているので仕事が無くて…そこで眠ってしまったんです」
「起こさないのか?」
「ええ。良く眠っていますから」

そっとしておいてあげましょう、と至極優しい声で桜花は続けた。
心地良いその声を聞きながら鶴丸は再び桜花に視線を向ける。
目が合うことはなく、彼女はただ黙々と紙に文字を記している。
外では蝉が煩く鳴いていた。

「―――きみは、人ではないのか?」

まどろっこしいのは苦手だった。
そう素直に聞きたいことを聞いてみれば、桜花がそっと筆を置いた。
ふとこちらを見る桜花はやはり微笑んでいて、それを見る限りは本当に美しい人の子にしか見えない。

「はい」

短いその言葉がどのくらいの重さを持っているのかわからなかった。
それほど彼女はただ静かに笑っているのだ。

「…きみに顕現された時、とてつもない力を感じたんだ。それが人でないことはなんとなくわかったが、聞けばきみは鬼だという。俺の知る鬼ときみは随分と姿形が違っていてな」
「成程、興味が湧きましたか」

鶴丸という刀の本質を見抜いてか、桜花がそう断言した。
素直に頷けば桜花は一度頷きそれから静かに目を閉じた。
そして次にそれを開くと、その色は黒から金へと変化していた。

「!?」

しかし驚いたのはそれだけでなく、鶴丸が瞬くその僅かな時間に目の前の桜花の姿は一変していた。
白銀の長い髪は畳まで流れていて、加えて額には細くて長い角が生えていた。

『あるじさまは、おにです。とてもきれいなおに』

ふと今剣の言葉が脳裏を過った。

(ああ、これは確かに…)

美しい、鬼だ。

「驚きましたか」

薄い唇から漏れる声は確かに桜花のもので、鶴丸は息を飲むと短く答えた。
ぼーっとしているその束の間に、桜花の姿は先程の人の姿に戻っていた。

「鬼は、人とは相容れぬ生き物。昔からずっとそう…。私達鬼は、自分達の血筋の為…そして人の世の為にこの身を隠して生きております」

桜花は乱れた髪を手で撫でつけて直した。

「人の世に、我々の力は強すぎる。だから…誰の目にも留まらぬよう、ひっそりと…」

木に留まっていた蝉がいつの間にかいなくなっており、聞こえるのは今剣の寝息だけになっていた。
やがて表情を変えずそこに座していた鶴丸がゆっくりと口を開いた。

「―――生き辛かっただろうに、なぁ」

予想外の言葉に桜花は目を見張った。
しかし鶴丸は一度微笑むとそっと立ち上がって、それから桜花を見下ろした。

「ここにいればそんな寂しくて辛い思いをしなくて済むだろう。なんせ、この俺がいるんだからな」
「鶴丸…」

白い容姿に金の瞳は自分に良く似ていると思った。

「仕事の邪魔をした。すまなかったな」

ひらりと裾を翻し、鶴丸は部屋を出て行く。
その際、ちらりと部屋に視線を戻し鶴丸はにっと笑った。

「聞いていた通り、きみは綺麗な鬼だ」

そう言い残し、さっさと部屋を後にした。

(この俺がきみと共にいるんだ、そんな退屈な思いはさせないぜ)

足取りも軽く、鶴丸は廊下を歩んで行った。
部屋に残された桜花は嬉しそうに肩を竦めていた。



「ねぇ主。鶴さんこっち来てない?」
「先程出て行きましたが、何か?」
「…素麺に入れようと思ってたトマト全部食べられちゃった」
「えっ」





―――続

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