▼ 第二十二章



夜も更けた頃合い。
桜花はふと目が覚めた。
眠る前よりも幾分か冴えている脳内に、過るのは黒い狐の面と心配そうな刀剣達の表情だった。

しかし彼ら一人一人の顔を思い返しているうちに、あることに気が付いた。

「…何か、忘れてるような」

連れ去られそうになったことは覚えているが、あの場所から戻ってきた記憶はない。
乾いている喉でも潤してゆっくり思い出そうと桜花は布団から這い出ると、暗い中手探りで障子戸を開け外に出る。

「主」
「っ!?」

すっかり油断していて、まさか廊下に誰かがいるなんて思わず桜花は肩を跳ねさせた。
見れば障子戸の横、廊下の壁に寄り掛かって座り依代を肩に掛けこちらを見る歌仙が目に入った。

「か、歌仙…どうしてここに」

激しく鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当て、おそるおそるそう尋ねれば呆れたような視線を返された。

「君ね。ついさっきまであんなことがあったのに僕達が大人しく眠れるとでも思ったのかい?」

次いで「寝ずの番だよ」と彼は言った。
桜花が怪訝と歌仙を見返す。

「寝ずの番って…まさかとは思いますが」
「僕は君の近侍だからね。見張りは任せてくれ」

そんな役割なんてない、と桜花が咎めてやろうとしたがその前に歌仙が桜花を見上げて口を開いた。

「ところで、君はどこに行くつもりだったんだい?」
「…喉が乾いたので」
「なら僕が取ってくるから部屋にいなさい」

言うが早いか、歌仙は立ち上がると厨の方へと歩き出し、桜花は慌ててそれを引き止めた。

「歌仙、私が行きますから」
「残念だったね。今日は一日誰も君の言うことなど聞いてはくれないと思うよ」

ふと足を止めて振り返り、透き通るような青い瞳を向けられた。
突き放す様に言ってはいるが、つまりは心配する彼らを安心させるために大人しくしていろということだろう。
良く出来た近侍だ、とは思いながら桜花は頷いて見せた。

「ではお願いします」
「ああ、少し待っていてくれ」

ふ、と優しく瞳を細め歌仙はその場を去って行く。
その姿が廊下の奥に消えたのを見送ると、桜花はそれと反対方向に歩き出した。

探し物をするように薄暗い庭を眺めながら幾つかの廊下を曲がったとき、視界にふわりとした尻尾が見えた。

「…九尾」

狐姿で柱の影に佇んでいるのは見慣れた彼の姿だった。
しかし名前を呼んでも彼はその場から動かない。

「九尾」

もう一度はっきりと名前を呼べば、そっと音も立てずに擦り寄ってきた。

『狐が嫌になったかと思いまして』
「そんなことないのに」

綺麗な毛並みを撫で、桜花は笑う。
その感触を楽しんでいたときふと桜花は連れ去られる直前のことを思い出した。

「私を助けてくれたのは貴方?」

自分と繋がりの深い九尾であれば、黒狐の作り出した空間から自分を呼び戻すことができただろう。
しかし九尾は頷かず、ただじっと桜花の瞳を見つめやがて口を開いた。

「…手助けは致しました。ですが紅華様を呼び戻したのは私ではありません」

どういうことかと聞こうとした瞬間、ぼんやりとまた記憶が戻った。

(そう言えば、あの時…)

誰かに手を掴まれて、呼ばれた。
特徴のあるその手、その爪には赤い色が差していたことを思い出す。
桜花の記憶の中でその指先をしているのは彼しかいなかった。

「まさか…」
「紅華様が連れ去られたと覚った時、あちらから声をかけられました」

桜花はゆっくりと立ち上がり、振り返る。
薄暗い廊下のその先に彼がいる気がした。

「ことのあらましを伝えると、あ奴は真っ先にこう言いました。『俺が連れ戻しに行く』と」
「っ…」
「私が紅華様の気を探り、そのお姿を見付けたときに奴は真っ先に手を伸ばしました」

果てしない時空の歪みの中へと手を伸ばし、彼は必死になって桜花の腕を掴んだのだという。

「一歩間違えれば空間の狭間で一生さまようことになる。…何という無茶をしたんだ、とそうお伝えいただけますか」

九尾に見送られ、桜花はその廊下を駆け出した。



虫が鳴く庭を前に縁側に座るのは、見覚えのある後ろ姿だった。
桜花はその姿を見付けると早めていた足を止め、その背中を見つめる。

「―――加州」

掠れる声でそう呼んだ時、彼がゆっくりと振り返った。
赤い瞳と目が合い、そして桜花はその視線を彼の手元へと落とす。
丁寧に塗られた爪紅は薄らと黒く見えたが、間違いなく朱色のそれだ。

(私の腕を掴んでくれた、あの手だ…)

桜花は静かに足を進めると加州の横に座った。
嫌がられるかと思ったが彼はそんな素振りは一切見せず、ただじっと庭を眺めていた。

「ありがとうございます。加州」
「……」
「貴方のお陰で、今私はこうしてここにいられる」

一礼して顔を上げれば、加州の視線は地面に落ちていた。
桜花は静かに続けた。

「…加州。貴方の気持ちを聞かせてはもらえませんか」

彼は彼なりに考えたその結果、こうして自分を助けてくれたのだと桜花は思っていた。
それならばそれを彼の口から聞きたい。

少しの沈黙を経て、加州がその薄い唇を開いた。

「…あの人は、俺のことなんていらなくなったんだ」

それが以前の審神者のことを指しているのはわかった。

「結局、みんな綺麗なヤツが好きなんだ。綺麗なヤツだけが、愛される」
(綺麗…?)

どういうことか、と桜花が加州を見ると彼は静かに泣いていて胸が苦しくなった。

「それなのにさ…、俺の中の俺が言うんだ…。助けろって…」

辛そうに表情を歪め加州が顔を伏せた。
落ちてきた髪にその表情は隠されてしまったが、彼の悲痛な叫びがその表情を物語っていた。

「また…、また捨てられるってわかっているのに…! みっともなく嘆くんだ…!!」

ぎり、と加州が拳を握る音がした。

「アンタに、愛されたいって…!!」

初めて聞かされた加州の気持ちに、ぎゅっと心が締め付けられた。
ゆっくりと呼吸をし、桜花は加州を見つめたまま言葉を紡いだ。

「愛す、愛されることがどういうことなのかと問われれば…私は答えることはできない。きっと愛には様々な形があるのだから」

そっと桜花は加州のその握られた拳に手を添える。

「ですが、加州。私は審神者を慕う貴方も、強くあろうと…美しくあろうとする貴方も、今こうして私に気持ちを打ち明けてくれる貴方も…愛おしく思う。それでは駄目でしょうか」
「…っ」
「私の刀剣…加州清光。これからも私を助けてくれませんか」

少しだけひんやりとした彼の手を包み込み、桜花はその距離を少しだけ詰めた。
ふと顔を上げた加州と目が合った。
目尻を赤くしてこちらを見る彼に、桜花は微笑みかけるとその瞳に浮かぶ涙を指先で拭った。
目を見開いた加州はやがて小さく笑うと片手でぐっと涙を拭い、小さく首を傾げて照れたように桜花を見た。

「あー。川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね。」

そんな彼を前にして、桜花は嬉しそうに笑った。

「よろしく、加州清光」






この後部屋に戻ったらやっぱり歌仙にめちゃくちゃ怒られた。

―――続


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