▼ 第二十章


歌仙を探す為に部屋を出て、桜花はやってきた厨の中を覗く。
しかしそこには誰もおらず、茶を淹れた形跡もなかった。

「歌仙…?」

試しに小さな声で呼んでみるがやはり返事はない。
厨独特のひんやりとした空気が嫌に身に染みた。
何となく不安になり、それならばと桜花は馬小屋を目指すことにした。

「秋田と前田がいるはず…、もしかしたら様子を見に行ってくれたのかもしれないし…」

一人の寂しさを紛らわす為にそう口にしながら馬小屋への道を急いだ。
中庭で草履に足を通す時間すらも惜しく感じ、気持ちは先程よりもずっと焦っていた。
すぐに見えてきた小さな小屋に飛び込んだ。

「秋田、前田!」

そう声をかけて中に入るも、そこには誰の姿も、また馬の姿さえもなかった。
乱れた息をそのままに桜花は目を見開いた。

「どうして…」

思わず周囲に視線を巡らすも、青々とした木々や奥の方に畑が広がるだけで誰の姿もない。
まるで自分だけが取り残されたような。
そう思った途端にどっと汗が拭き出した。

「歌仙!? 秋田…!! 前田!」

不安から上ずった声になってしまったがそんなことに構っている余裕なんてなかった。
馬小屋に荒らされた跡もなく、ただ彼らだけがいなくなったようでより一層不気味だった。

「そうだ、九尾…!」

いつもこの本丸のどこかで寝転がっている彼ならばと桜花は駆け足で本丸へと戻った。

「九尾!」

いつもなら、名前を呼べばすぐに現れるはずだった。

「九尾…!?」

しかしどうだろうか、いくら呼んでも姿を現すどころか返事すらない。
小さな震えだったそれはいつの間にか大きなものに変わってしまい、足に力が入らなくなった桜花はただ広い本丸の廊下で膝を付いた。

ここは、本丸なのだろうか。

「落ち着け…っ」

走ったことで乱れた裾を引きずるように立ち上がると、桜花はゆっくりと自室に向かって足を進めた。

(何か…何かが起きているんだ…)

今までのことを思い返していると先程誰かに呼ばれていたこと、門まで行って確認したことを思い出す。

(もしかして…その間に何か術でもかけられたのかも…)

妖の類か、はたまた別の何かか。
気をしっかり持たなければ、先程自分を呼んだ何者かに“連れて行かれてしまう”かもしれない。
桜花はぎゅっと手を握りしめて落ち着きを取り戻すように部屋へとゆっくり足を進めた。

ふと玄関の前を通った時だった。
視界の端に何かが映り込み、そちらに視線を向ける。
開け放たれた玄関の戸の先、閉まったままの門の前に誰かが立っている。
しかしそれは慣れ親しんだ刀剣男士のその姿ではなかった。

(狐…?)

見た目は短刀達のような幼い姿に不気味に浮かぶ黒い狐の面。
しかしそのほっそりとした体躯からは人でないことが窺えて桜花の背を冷たくさせた。

「誰、なの…?」

どこかで水の音が聞こえた。



   *



温めた湯飲みに熱い茶を入れ、そこから香る新茶の香りに歌仙は嬉しそうに目を細める。

「主は喜んでくれるだろうか」

新しい主は穏やかで気立ての良い人だった。
自分に似合う、という表現はやや可笑しな気もするが間違いではない。
こうして茶葉を変えただけでもきっと気付いて感想を言ってくれるに違いない。
自分と気の合う主がいるだけで、この本丸に呼ばれてよかったと歌仙は思っていた。

茶請けに彩の美しい甘い菓子を添えて歌仙は足取りも軽く来た道を引き返す。
主の喜ぶ顔を想像し、逸る気持ちを抑えながら部屋を目指した。

「入るよ」

開けっ放しとはいえ女性の部屋だ。
歌仙は一応そう声をかけてみるが、中から返事はない。

「…主?」

おかしいな、と歌仙がそっと中を覗くがそこに待っているはずの桜花の姿はなかった。

「主? まさか馬小屋にでも行ったのか」

文机に置かれた書きかけの文字を目で追えば、あれから書き進めた様子は見受けられない。
仕方ないと歌仙はそっと畳に盆を置き主の帰りを待った。



しかし一向にその姿が部屋に戻ってくることはなく、流石の歌仙も焦りを感じ始めていたときだった。

「主君! お馬さんに餌をあげてきましたよ!」

とたとたと足音を立てて姿を見せたのは秋田で、その後ろからは同じく前田がひょっこりと顔を覗かせる。
しかし目的の桜花の姿はそこになく、近侍の歌仙がそこに座していただけだった。

「秋田、前田」
「あれ…主君はどこですか?」

中に入るときちんと座り、秋田が歌仙に尋ねる。
歌仙が表情も険しいままに答えた。

「それが、茶を淹れて戻ってきたら姿がなくてね。馬小屋にでも行ったのかと思って僕も待っていたのだけれど」
「おかしいですね…、僕達はここに来る途中主君を見かけませんでした」

心配そうな前田の言葉に歌仙が眉を寄せる。

「馬小屋に行ったのではないのか」

顎に手を当てて考えるが、これ以上彼女の行きそうな場所は思い当たらない。
途端に妙な胸騒ぎがした。

「…探そう」
「はい!」

歌仙の低い声に秋田と前田が同意した。



   *



目の前にいる狐の面を被ったそれを桜花はじっと見つめた。
今までに見たことがないモノだ。

(妖…ではないか)

見極めようと目を細めると、狐の面がくいっと首を傾げた。

『こんにちは』

それは先程も聞いた声だった。
桜花は口を開かない様にとぐっと唇を噛んだ。

(返事を、してはいけない…)

根拠は無かったが、本能がそう訴えかけてくる。

『こんにちは』

狐の面は冷たい声で続けた。



   *



本丸の屋根で寝転がっていた九尾は、突然自分の主の気配が消えたことに驚き飛び起きた。

「紅華様…!?」

音を立てずに屋根から飛び降り、主の部屋へと急いだ。

(どういうことだ…本丸は安全だと…っ)

やはり人の言うことなど信じるべきではなかったのか、と九尾ががりと指先を噛む。
急がなくては、連れて行かれてしまう。
自然と足に力が入り、大きく音を立てた時だった。

「―――うるさいよ」

横からそう声をかけられた。



   *



桜花は自室に入ると勢いよく障子戸を閉めた。
走った為に切れる息を整えながら適当な紙に筆を走らせ札を作るとそれを障子戸に叩きつける様に貼り、そこで漸く膝を付いた。

「っはぁ…は、っ…」

息を吐く度に喉が痛む。
乾いた喉を少しでも潤そうと無意識にごくりと唾を飲み込んだ時、障子戸の向こうから声がした。

『こんにちは』
(しつこいな…)

障子戸には小さな影が映っていた。
ふいっと視線を外し、何か追い払うものはないかと部屋を物色した。
そしてその手が小物入れに触れた時だった。

「主」

聞き覚えのある声に、桜花が弾かれたように振り返る。
障子戸には大きな影が映っていた。

「歌仙…!」

やはり本丸内にいたのか、無事だったのかと桜花は慌てて障子戸に手を掛けた。
そしてそれを左右に開け放った。
しかしそこに背の高い目当ての彼の姿はなく。

『こんにちは』

ゆっくりと、徐々に視線を落とせば、目の前にあの狐の面がいた。



   *



日が大きく傾き本丸に部隊帰還の鐘の音が鳴り響く。

「ただいま戻りました」

丁寧にそう声をかけ中に入ってきたのは一期で、続けて慌しく隊員達が駆け込んできた。

「今日の敵、確かに強かったね」
「はい…虎くん達も泥だらけです」

服に着いた泥を払い、乱が五虎退の虎を抱き上げる。

「先に洗っちゃおうか。このままだとあるじさんはともかく歌仙さんに怒られるだろうしね」
「そら、じっとしてろよ」

次いで中に入ってきた鯰尾と薬研もそれぞれが仔虎を抱えた。

「そっちに負傷した奴はいるか」
「いえ、こちらは全員無事ですよ」

同じく帰還した山姥切が一期に問いかければ、頬を汚した一期が笑顔でそう答えた。
それを見て小さく笑い、それから表情を戻して山姥切は中へと足を踏み入れた。

「報告に行くぞ」

普段から薄汚れていた布が更に汚れてしまっては、また何か言われるだろうか。
ぼんやりと山姥切がそう思いながらも、迎え出てくれるであろう桜花の姿を無意識に探した時だった。

「いち兄!!」

空気を割くような呼び声に、帰還した全員の視線がそちらに向けられる。
見れば大きな瞳に涙をいっぱいに溜めた秋田が震えながらそこに立っていて、何事かと血相を変え一期が駆け寄った。

「どうしたんだい!?」

目線を合わせるように一期が膝を付くのと、秋田が叫んだのはほぼ同時だった。

「主君が…っ、主君がどこにもいないんです…!!」

誰かが息を飲んだ音が聞こえた。






―――続


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