01


目を覚ますと_いや、夢と現実の狭間で彷徨っていたとき_嗅ぎなれない香りが鼻をついた。微かに薬品の香りも。………なんでだ、夕食を買いに家を出て……それから……眠ったんだっけ。今は何時だ?出来れば遅刻はしたくない。朝か?それともまだ夜明け前?ああ、目が利かない…真っ暗だな、まだ夜か?それなら嬉しいけど。取り敢えず、電気をつけなきゃ。

手探りで灯りのコントローラを弄る。……ない…おかしいな、いつも枕元に置いてあるのに。手を伸ばすと指に何かが当たって床に落ちた。渇いた音が部屋に響く。見回すと少しずつ目が冴えてきて、ぼんやりと周囲が浮かび上がってきた。白っぽい光だから、月明かりか。良かった、まだ夜。

再び枕に顔を埋めて肺に酸素を取り込んだ。ああ、嗅ぎなれない香り…嗅いだことがあるな、なんだっけこれ、ム…いや、麝香か。麝香……?なんで私の枕から麝香なんか?

「お目覚めになられたのなら、お召し替えをなさって下さい」

心臓が口から飛び出すかと思った、小さく飲んだ息は手で抑えなければ悲鳴に変わっていたに違いない。パチンと部屋の灯りがつけられて、私は今ごろ、すべてを思い出した。
ああ、ニジムラ!それからあの白いなにか!ここは私の部屋ではない、体の前で直角に曲げた腕に洋服らしきものをかけている男は、然も当然のことかのように私に歩み寄ってことも在ろうか着替えを要求している。見回すと冷たそうな石造りの壁が四方を囲っていて、重厚で高価そうなカーテンが唯一の窓を覆っていた。あの隙間から月の光が差し込んでたのか…。

「聞いておられますか?シャワーを浴びたいとお考えならそちらの扉がシャワールームになっております」

未だに自分の身に何が起こったのか理解できていないものの、目の前の男が異常なまでに非感情的で事務的だったことは良かったかもしれない、私は徐々に平常心を取り戻し、全然十分ではないけれど少しは落ち着いた。恐らくこの男はさっき私が物を落とした音を聞いてやって来たんだろう。

「それ以上近づかないで。ここはどこ?私誘拐されたの?あなた誰なの?」
「……ここは私の主であるDIO様の館でございます。エジプトです。確かにその様な見方もできるかと思われます…ええ、誘拐、でございます。私は執事を努めさせて頂いているテレンスと申します、姓はダービー」
「な、に言って……ちょっと待ってよ、エジプト?あの?」
「私の知る限りエジプトという名のつく土地は一つしかないと思われますが。一応申し上げますとリビアにスーダンそれからイスラエルと隣接する、カイロを首都に置いたエジプト・アラブ共和国でございます」

それがどうしたと言わんばかりの、この、テレンスとか言う男の語り口たるや!もう訳がわからない、ここがエジプトだって?嘘、嘘だ。だって私がエジプトに入国できるはずないんだ。パスポートすら持ってないし、ニジムラに出会ってから今までずっと眠ってたんだから。そんなことは分かってるけど、この男の微動だにしない目ときたら。悪い冗談はやめてくれと言いたい。

「何のために私を……。今すぐ家に返して、ねえ、私なんか誘拐しても金にならないから」
「どちらも私には答え兼ねます。貴女をお連れしたのはDIO様のご意向ですから私は存じ上げませんし…ま、金銭的な動機ではないことは確かです。それに虹村はとうに帰ってしまいましたから貴女がお国へ帰ろうとなさっても不法入国者として留置所に入れられるのが精々だと思いますが」
「ニジムラ?」
「ええ、お会いになられたかと思いますが……。ああ、少々お喋りが過ぎた様ですね、これ以上はDIO様からお聞き下さい。さ、お召し替えを」
「ちょっと、いやだ、なんなの?なんで私が…ディオって誰なの!」

男は私の話に既に聞く耳持たずというかんじで私に洋服を押し当てる。ほうらサイズはピッタリですよと嬉しそうなこの男……なんなんだ一体?身代金目当てとか、そういうのじゃあない?ああもう、訳がわからない…

「あの、……シャワー…を、浴びたいんですけど」

取り敢えず一人になりたい。少し考える時間が欲しい…まさかシャワー浴びるときまでついてくることはないだろう。きっと。

「ああ、然様でございましたか。そちらの扉ですから、どうぞ。私はここでお待ちしております」
「……どうも」

そうと決まったらさっさと一人にしてもらおう。窓があるか?流石に逃げ出せるような大きさじゃあないだろうけど、助けが呼べる程度の物は?色々と思いを巡らせながら洋服をひっ掴みシャワールームに入ろうとしたとき男が徐に口を開いた。

「余計なご足労はなさらないほうが良いかと存じますよ」

乱暴に扉を閉めて聞こえないふりをした。ああ、そんなの、するに決まってるだろう、莫迦か。人を誘拐しておいて言えた口か!
それでもまずは……そうだな、落ち着かなきゃ。落ち着いて、どうにかして外に出なければ。