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なんだか、もう、最悪の気分だ。結局承太郎を無視して帰ってきてしまったし、家に帰っても暇だから夕食もとらないままシャワーを浴びて泥のように眠った。胃が活動する音に堪えきれなくなって日付が変わる直前に食料を買いに出たのだけれど、帰ってきてアパートメントの自宅の扉を見遣ると誰かがインターホンを押している。…ああ、もう。何でよりによって今夜。2、3分アパートメントの前でうろうろしたのだけれど、よく考えたらなんでこっちがこそこそしなきゃいけないんだ。考え直して、それでもゆっくり階段を上る。こんな時間に訪ねてくる方が悪い。残念ながらいま機嫌が良くはないし、邪険に扱っても許されるだろう。申し訳ないとは思うけど。
手に持ったビニール袋が擦れて音を出した。音を聞いた男がこちらに振り返る。表情が少し変わったってことは、私の顔を知ってるのか。見たところ日本人だし、うーん、推し量るにサラリーマンかなにか?……要するに、どこにでもいそうな顔をしているこの男。

「…そこに住んでいる者ですが、なにか」
「なまえさんですか?」
「ええあの……どちら様?失礼ですけど、こんな時間に訪ねてくるのはどうかと思いますよ」
「ああ、これはどうも、失礼いたしました……どうしても急を要したものですから…不躾ながらこんな時分に。」
「………」
「わたくし、虹村と申します。」
「ニジムラさん?……存じ上げませんけど、私に何か」
「ええ、少し込み入った事情でして、お父上のことで」

もう……。明日にしてくれないだろうか。第一眠たいし、それを差し引いてもこの男の話し口は癇に障る。なんなんだこいつ。胡散臭い。

「父が?あの、ニジムラさんと父の関係は……伺っても?」
「ええ、そりゃあもちろん。わたくし、お父上が入院なさっている病院で勤務しております。」
「ああ、そうなんですか。第一病院の」
「いえ、中央病院です。」
「あっ、すみません、そうですね…」

引っかからないなぁ。本当に病院の職員?それにしてもこんな時間に訪ねてくるはずがないし。さっきからこいつ、挙動がおかしい。私が顔を見ている時はポケットを弄るし、一々目を合わせようとしてくる。……嘘を吐いてるな、こいつ。手を隠したがるのは典型的な反応だし、真実味を出そうとして必要以上に目を合わせるのもそう。さっきから表情が動いていないのも。……裏返せば嘘を吐き慣れてないってことか。

「立ち話もなんですから、上がります?あの、私、鴻上先生によくお世話になったんですけど、先生お元気でしょうか。」
「鴻上先生ですか、ええ、元気になさってますよ。お父上ともよくお話なさってます」

聞きながらポケットから鍵を取り出した。鴻上先生ね。そんな人、いやしないんだけど。なんなんだこの男。嘘を言うならもう少し固めてから言え。取り敢えず……そうだな、家にあげるのはまずいから…。あげるふりをして締め出せばいいか。ちょっと怖いし。
鍵を回す音が安蛍光灯に照らされて響いた。ゆっくりと押し開けて、半身滑り込む。さあ、早く閉めなくちゃ、この男が行動を起こす前に!

ズン、と、鈍い音がした。多少速度を上げた心臓の鼓動を聞きながら目を扉に向ける。早く鍵をかけるんだ。それから様子を見て、帰らないようなら警察に……、
ところが、どうしたことか、扉は完全には閉まっていなかった。やけに固そうな無機質な真っ白い腕があちらから差し込まれている。なんだこれ、男の腕じゃあない、だってあいつはグレーのシャツを着ていたんだから。一歩後じさると、白い腕の持ち主_一応ヒトのような体型だけど顔は分からない、仮面?いや、全身まるで骨みたいな_が入り込んできた。なんだこれ、いつのまに…、それよりもこの状況が。
そのまま尻餅をついてしまう。なんてことだ、早く扉を閉めるんだ、ああ、足に力が入らない……こんなことが!

「シィー、静かに、お嬢さん」

一瞬白いのが喋ったのかと思ったのだけれど、いつの間にか入ってきていたニジムラが話していただけだった。非常に良くない状況だ、やばい……ああ、殺されるかもしれない。第六感が警報を鳴らしてるのに、結局食べられなかったと床に落ちた袋を悲しく思う自分がいた、私は追い込まれると自分を客観視する癖があるらしい。

「騒がないでくれよ、別にとって食おうとしてる訳じゃあないんだ……こいつが見えるんだね?」

さっきとは打って変わって表情豊かなニジムラが笑う。こいつとは白いやつのことか。なんなんだその、普通は見えないかのような言いかた?

「見えるか?って……なにを聞いてるのか分からない……その白いのが、なにか……」
「ああ、もう結構。見えてるんだね。なあ、君にとっては迷惑千万な話だ。訳もわからないまま……。でもまあ悪く思わないでくれ。これも仕事なんだ、こっちも金をもらってるんでね……」
「……?なに、どういうこと、!!」

それまで微動だにしなかった白いなにかがいきなり俊敏な動きを見せた。私の口を塞ぐと、ニジムラがハンカチーフのようなものを懐から取り出す__途端に視界が暗転した、私は重力を手放して、一種心地良いとも言える真っ暗な意識の中に落ちていく……。