闇だった。
果ての無い、闇だった。
さっきまでの、生温い安らぎは存在しない。
自身の体温に包まれているはずの身体は、どこか荒寥とし、からだの芯まで凍えるような冷たさに侵されている。
少女は、何故か今よりもずっと小さくか細い膝を抱えて、ギュッと身体を縮こまらせていた。
小刻みに震える身体は寒さに凍えているのか、それとも、殺されるかもしれないという恐怖がそうさせているのか、それすら解らない。
とにかく、今はただじっと息を潜め、奴らをやり過ごすしかないのだ。
己の非力な両腕では奴らを打ちのめすだけの力が無いことを、少女は十分に理解していた。
理解していることだけが少女を救っていた。
何故、自分がこんな目にあっているのかという疑問は起きなかった。
必然的に、少女は生まれながらにして、自分の辿る運命を想像し尽くせていたのだ。
少女には、少女になる前の記憶―――前世と呼ぶ頃からの記憶があった。
前世の少女は、ごく普通の人間だった。特別裕福なわけでもなく、何かに秀でていたわけでもない。どこにでもいる、ありふれた人間。
しかし、それでも幸せだった。
優しい両親と気のいい友人に囲まれて、なに不自由ない幸せな日々を暮らしていた。
―――そして、死んだ。
なんて事はないただの事故。そして死。
死の瞬間というのは不思議と思い出せないが、ただ気がついたら死んでいて、気がついたら宙を漂う塵になっていた。
塵として漂っていた間の記憶は酷く曖昧だ。
泣き縋る両親の顔を見たかもしれないし、それは妄想だったのかもしれない。
ただ、自分の力ではいかんともしがたい引力のようなものが働き、暗く湿った方へと流されていったことだけが明瞭に記憶に刻まれている。
そして引きずられるように、新たな生を受けたのだった………。
外を徘徊している敵が不気味な音をたてながら、侵入を図っていた。
少女は滴るほど汗をかいた。肌に滲む度、産毛をそり立たせるような冷たい汗だ。
少女は今、押し入れの中に身を隠している。
なんて安易な場所に隠れてしまったのかと、抱える膝をきつく抱きしめた。
歯を食いしばる。決して吐息すら漏らさぬように。
噛み締めた歯茎からは血が滲んで酷い味がした。
敵が近づく気配。薄い板を踏みしだく音が、死刑宣告のように蝸牛を震わせた。
見つかったら最期だ………。
そう思うと、一瞬たりとも眼を閉じていられない。
恐怖が爪先から這い上がり、少女の震える身体をちくちくと刺した。
ふと、押し入れの隙間から、薄暗い外の様子が垣間見えた。
少女は恐る恐る隙間を見遣って、そして息をのむ。
猫がいたのだ。
白い無垢な子猫。
まあるいアルビノの瞳、毛布のように柔らかい毛、しなやかな体。頬を寄せると、日だまりのにおいがする。
少女は陸に上げられた魚のように喘いだ。
逃げて!そう叫びたい。
子猫のすぐ背後に、大きな影が迫っている。
それを伝えたかった。
だが強張った唇はふるふると震え、僅かばかりの息を吐くことで精一杯だった。
猫に影が迫る。
影の正体が明らかになるにつれて、酷い吐き気に襲われた。
それはまさしく、憎悪そのものの姿だった。
見境のない殺意に、眼が爛々と光っている。
何本もある腕で獲物を捕まえ、その醜悪な顎で喰い殺してしまう。
恐ろしい怪物だ。
怪物の獰猛な眼が、猫を捕らえる。
少女は猫を助けに行くどころか、指一本動かすこともままならなかった。
身体はまるで寒さに凍ってしまったかのように固まり、小刻みに震えるだけ。
そのうちに、猫のか細い悲鳴が上がった。
白い毛が、赤に侵食されてゆく。
猫。猫。猫。
少女は、喉の奥で絶叫した。猫が死んでしまう。
だが、凍った体を溶かすだけの熱量を、少女は絞り出せなかった。
猫を助けに行けば、自分も殺されてしまう。そんな恐怖が確かにあった。
己の浅ましさに、眼の奥が曇ってゆく。
少女はぐらぐら揺れる視界の中で、猫の瞳から尊い生命が遠のく様を茫然と眺めていた。
……ねこちゃん。
少女は譫言のように唇を震わせる。声は出ない。
かわりに、涙が溢れる。
ねこちゃん。
猫は、死んでしまった。
何処か遠くで、亡きがらを埋めに行かなければと考える自分がいる………。
目が覚めると、既に朝だった。
悲しみと絶望の余韻が、深く心に響いている。
ボロリとこぼれ落ちた涙が、シーツに染みを作った。
少女は目を、少し強引に拭う。
今日もまた、目覚めは最悪だ。
少女は洗面台の前に立ち、使い古した歯ブラシを手に取った。
そこで漸く気づいたのだが、手のひらには赤い爪痕が残っていた。
その痕をしばし眺める。
猫の夢を見るのは久々だった。昔はあんなに頻繁に見ていたのに。
記憶とは、どうあっても風化するらしい。
チューブから歯磨き粉を搾り、歯ブラシを口に含んで上下に動かす。
余談だが、歯磨き粉という名称は正しくない(だって、どう見たってこれは粉じゃない)。正しくは練り歯磨きというのだ。
口を濯ぎ、顔を洗って前髪をかき上げる。
不揃いな髪の長さは、勿論お洒落でわざと、というわけではない。
自分で切ると、どうしてもこうなってしまうのだ。これについてはもう諦めている。
鏡に映る自分の顔を眺めていると、毎回の事ながらげんなりとしてしまう。
驚くほど、父親によく似ている。
目許や鼻の形、髪から瞳の色まで、ほぼ完璧に父譲りだった。
父親を実際にこの目で見た事はないが、確かこれと同じ顔をしていはずだ。
三代目火影は、少女と少女の父親の関係について一切公開していない。
少女もその意図を組んで、顔を覆い隠すようなダサ眼鏡をかけているが、それだけでは見る者が見れば一発で解るだろう。
……どうせ産まれるなら、本編に登場しないような脇役として産まれたかった。
いまさらぶちぶち言っても仕方ないが、言わずにはいられない。
「今日も素晴らしく快晴だ!まったく…。忌ま忌ましい事にね!!」
天気にまで文句をつけて、ハンガーにかけておいたケープを手に取る。
すっかり手に馴染むようになったくたびれた生地が、少しお気に入りだった。
それをベッドの上に放り、部屋の西側にあるニスの禿げた古箪笥から、今日着る私服を引っ張り出す。
大概似たような服しか持ち合わせていないあたり、女として終っている気がした。
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