Episode:8『仰ぐ不安』
 




時刻は8時を回っていた。

暗い紺色の空に、真っ白な雲が漂っている。
地面には影が落ち、星は見えない。

今夜は満月だ。

まだ底冷えするような季節ではなかったが、この日の夜は冬の寒さを彷彿とさせる冷気が漂っていた。



明かりのついていない寝室。
ベッドに寝そべっていたイルカは、窓の外に浮かぶ円い月を眺めていた。

ヘッドボードが窓の下に来るよう配置したベッド。ここで仰向けになると、木の葉の空が一望できる。


イルカは、今日アカデミーを卒業した生徒たちの顔を一人一人思い返しながら、複雑な心境で溜め息をついた。

忍の道は決して楽ではない。命の危機に曝される事もあるだろう。

彼ら卒業生が、立派な忍になってくれる事を心から祈っている。だがその反面で、忍なんか辞めて安全な世界で暮らしてほしいと願う自分がいる。 

教師とは難儀な職業だ。いつも、相反する気持ちとの葛藤を余儀なくされている。



イルカはふと、あの満月のように光る髪を思い出して、眉間にシワを寄せた。

うずまき九。

これはイルカが何もしてやれないまま卒業してしまった生徒の名だ。

九と初めて会った時から、今日まで、自分は何を与えてやれただろうか。
あるいは、何かを与えてやれたなどという考え自体、驕りでしかないのだろうか。


正直な話、イルカはうずまき九が恐ろしかった。
勿論、教師として九のために心を砕いてきた事は真実である。

自分と同じ、親の愛情を知らずに育った子供だ。
自分のように、いつか幸福になってもらいたいと願う気持ちも、また疑いようがない。

しかしどうしようもなく、思いと感情は食い違った。
親のように愛してやりたいとさえ思うあの子を、里の脅威のように恐れている。

かさぶたの下から膿んでいくかのように、じくじくと押し寄せる不安。
大地を裂く爪。人の肉を喰いちぎる赤い牙。獲物を探す獰猛な眼。
九の透明な瞳を見る度、瞼の暗闇で踊る九つの尾があった。 

12年前の出来事は深い傷となって、いまだに傷み続けている。



イルカは視界を閉ざし、俯せになった。枕をで頭を隠し、ふがいない自分に蓋をする。

時折、風が唸るような音を立てた。ビュウビュウと唸る声が、まるで自分を責めたてているかように聞こえた。

……起きていても暗転するばかりだ。

今日はこのまま寝てしまおうと思った。






はっと目が覚めた。

日干しした布団の臭いが鼻腔をくすぐる。

窓がカタカタと音を立てている。外では風がよりいっそう鋭い唸り声を上げていた。

イルカは仰向けに寝返ると、時計の文字盤を眺めた。
寝起きでぼやけていた目の焦点が合うと、時計の針は8時35分を示している事が解った。

眠りについてからまだほとんど経っていない。

イルカは欠伸を噛み殺し、手探りで枕を手繰り寄せる。
グースのダウンが詰まった枕は、真昼の数時間、カラカラに乾いたお日様に曝されたおかげで、すっかり新品のような弾力を取り戻していた。

再び意識がまどろみ始める。
イルカは掛け布団にすっぽり体を収めた。
心地よい暗闇が意識を覆っていく。 



「‥…――イ――せん――!!」


ドアが叩かれる音で、イルカは飛び起きた。

玄関の方に意識を向けると、誰かが力任せにドアを叩きながら叫んでいるようだ。

イルカは転がるようにベッドから身を起こすと、急いで玄関へ向かった。

ドアを開けた先に佇んでいたのは、同僚のミズキだった。

肌寒い夜にも関わらず、ミズキの額は汗でびっしょりと湿っている。
途切れ途切れに息を吐く様子から、よほど急いで来た事が窺えた。


「イルカ先生、大変なんです!!とにかく、とにかく火影様の所へ行かないと!!」


ミズキは焦っている様子を隠すこと無く、叫ぶように言った。


「どうしたんです?」


イルカの眉間が、自然と険しくなる。


「どうしたもこうしたもないですよ!九君が火影様の所から封印の書を持ち出したらしくて……!」


ミズキはまくし立てるように言い放つ。

イルカは、一瞬何を言われたのか解らないような顔で、意味もなく口を開けた。 


「…‥は?…ち、ちょっと待って下さい。どうして九の奴がそんな物を…」

「それは…僕には解りません。とにかく、火影様の所へ集まって下さい!!」


九の姿が浮かんでは消えてゆく。

イルカは、自分の頭が真っ白になっていくのが解った。

封印の書とは、初代火影が禁じ手の術を書き記した危険な代物だ。

それを九が持ち出したとなると、生温い罰則では済まされない。

九がただの子供で、ただの悪戯として、禁術書を持ち出したのなら、拳骨と長いお説教程度で事は済んだだろう。

しかし。
九はただの子供でもなければ、ただの悪戯で禁術書を持ち出すような性格でもない。

うずまき九は、イルカが知る子供の中では、最も聡明な少年だ。
火影が厳重に管理している書物を持ち出せばどうなるのか、解らない子供ではない。

ならば――…‥。

そこまで考え至ったイルカは、自分が最悪の想像をしている事に気づいた。


「…イルカ先生」


茫然とするイルカの前で、ミズキが神妙な顔をしたまま口を開く。 


「こんな事言いたく無いんですけど…もしかして九君は、封印の書で里を使って復讐するつもりなんじゃ……」

「まさか!…いや、まさか…そんな事は…」


イルカは、とにかく否定しようと咄嗟に口を開いたが、言葉は最後まで続かなかった。
今、イルカもミズキと同じ事を考えていたのだ。
九はそんな子ではないと、何故庇ってやれないのだろう。
自分の生徒を、心から信じてやれない己に、酷く失望した。 


「…火影様の指示を仰ぐしかない。…行きましょう」


絞り出したようなイルカの声は、頼りなく震えている。
拳を握りしめると、いつの間にかかいていた汗で指が滑った。

気遣わしげなミズキの視線が、どうしようもなく痛い。

教師として、自分はどうあるべきなのか。
もし、九を見つけたら、自分はどうするべきなのか。
頭の中では様々な事が渦巻いているのに答えは見つからない。

ふと、火影の穏やかな笑顔が頭に浮かんだ。


……火影様はどうなさるおつもりなんだろうか。

火影が孫のように育ててきた九に残酷な仕打ちをするとは思えない。
しかし、その周囲の人間はそうもいかないだろう。
殺すべきだという意見が飛び交う事は、目に見えている。


(どうか…お願いです。火影様…!)


イルカは祈るような思いで、駆け出した。

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