翌日。
午後からの授業は裏山を利用しての札取り合戦だった。
六年の生徒を、い、ろ、は組関係無く二分割して、互いの持っている札を取り合う。札は一人一枚。朱か黒に塗られており、それが即ち組分けとなっていた。札には紐が付いており、首に掛ければ一目でどちらの札かわかるようになっている。
伊作が引いた札は朱。留三郎が引いた札は黒。つまり、伊作と留三郎は別々の組となってしまった。
とは言っても、ただの演習だ。ああ、留三郎と対峙したら厄介だな、位は思ったが、それ以上に何かを思う事も無く、然らば留三郎は「じゃあな」の一言で山林の中へと消えて行ってしまった。
さて、自分も山の中に入り、誰かの黒い札を取らずとも、せめて自分の朱の札は守らねばならない。
伊作も留三郎の消えた山林とは逆方面に向かい、走り出した。
もの音を立てぬように気配を殺し、かつ周りの気配を探りながら進む。どこに罠が仕掛けられているとも知れないので、足元や宙にも気を配る。なるべく、誰もいない方へ行きたい。
それで、出来ればこの演習が終わるまでどこかに隠れて時間をやり過ごしたい。
文次郎辺りにそんな魂胆を知られたら「この腑抜け目」と罵られそうだが、今日はどうにも仕方無いのだ。
「っつ、いてて」
腰が痛くて、激しい争いなんかはとても出来そうにない。
原因は至極簡単。昨夜の留三郎を受け入れた所為だ。
痛いのは腰だけじゃなくて、口に出せないようなところだってヒリヒリとして痛い。それは昨夜の所為だけではなく、その前夜にも事に及んでいた事で事態を悪化させたのは明確だった。こんな事になるなら、少し加減しておけば良かったなとの後悔もある。しかし、それで昨夜の事を思い出して、腰の奥が疼くのも確かだった。
早く演習が終わらないかな、それで夜になって、皆が寝静まったらまた今日も―――
そんな猥らな妄想に胸を熱くしていた時、背後に誰かの気配を感じた。
「ッツ!」
慌てて振り返ったが、腰から背筋に掛けて駆ける様に走った痛みに素早く身を引けない。思いの外、極近くまで迫っていた影はこちらに手を伸ばしてきて、上衣の首周りを掴まれ、強い力で引き寄せられた。
「うわっ!」
「私だ、私」
「仙蔵?」
そこにあったのは見慣れた友人の姿だった。
その胸にあるのは、幸いにも朱の札。
仙蔵は“味方”だった。
「全く。私だから良かったが、こんなにあっさり捕まってどうする?」
「アハハ、すまない」
耳に痛い仙蔵の言葉を空笑いで誤魔化すと、ハァと溜息を吐かれた。
彼は辺りを見渡すと、屈めと手振りで合図してきたので従う。丁度、足元には朽ちて倒れた大木があり、身を屈めればその影に隠れる事が出来た。
「小平太がこの辺りをウロウロしている」
「え?」
伊作の隣に並んで身を屈めて来た仙蔵は、それでも周辺を警戒しながら小声で言った。
「やつの札は黒だ」
「……それはまずいね」
小平太の札が黒だとは……。
仙蔵が味方と分かった今、小平太は最高に厄介な“敵”だろう。留三郎だって敵として最悪な相手だが、小平太とは性質が違う。
「そんなんじゃ、アッという間に奪われてしまうな」
全く以て、仙蔵の言う通りだった。
「そうならないようにしないとね」
伊作が苦笑を浮かべれば、仙蔵は少し呆れた様に、けれど優しい笑みを浮かべた。
辺りは静かだった。誰の気配も無い。
小平太は勿論、いつ誰が札を奪いに来るかわからない状況だが、ほんの少しだけ気が抜けた。
そんな時だった。
「……ん? 伊作」
「何?」
呼ばれて顔を上げると、怪訝な仙蔵の視線が自分を向いている。
「ここのところ」
仙蔵はそう言って、自分の肩の辺りを指差し示した。
そこは丁度、先程制服を引っ張られたせいで衿もとが乱れている辺りだった。
「”虫食われ”があるぞ?」
それが何なのか、すぐに思い辺り慌てて制服の衿を正した。
それは“虫食われ”なんかじゃない。昨夜、留三郎に付けられた痕だろう。
「こ、今年は蚊が出るのが早いね?」
季節はまだ梅雨の前。木々の合間から覗く空は、まさに春の陽気といえるポカポカの快晴だ。まだ、蚊だって孵化していないこの季節。それでも、それ以外に誤魔化す方法も無いと伊作はヘラリと笑って見せる。
「あの、仙蔵も気を付けて?」
「私が?」
しかしながら、仙蔵の視線は冷たかった。
「真夏ならまだしも、こんな時期に蚊に刺される筈もなかろう?」
冷やかな突っ込みは尤もで、もはや固まるしかない。
仙蔵が再び、今度は大きな溜息を吐く。
「程々にしておけよ?」
“何を”なんて言うまでもないし、もう誤魔化したってしょうがない。
「……気付いていたの?」
おそるおそるで言ったのに「留三郎だろう?」と即座に返されてしまったら、もう何も隠す事はなくなってしまった。
誰にもバレぬようにと二人気を使っていた。
皆が見ている所では過度に触れ合う事もしなかったし、今まで通りを貫き通していたし。それが、こんなアッサリと……。
なんだか頭が痛くなってきて、抱えた膝の合間に項垂れて頭を挟む。
「あまりハマり過ぎるなよ? 後々、孔が緩んで大変な事になると聞く」
「……括約筋、鍛えてるから」
「そこまでしてやりたいのか?」
呆れたといわんがばかりの仙蔵の声が耳に響く。
「仙蔵はっ……、あれの良さを知らないからだよ」
そう、仙蔵は知らないのだ。性器を直に弄られ、絞られる事よりも、もっともっと強い快感を。
思い出すだけで腰が疼いてしまう程の恍惚の瞬間を。
何度目かわからない仙蔵の溜め息が聞こえた。
流れ始めた気不味い沈黙に、メソメソと俯いたまま顔を上げる事が出来ない。
―――カサッ
シンと静まりかえった空気の中、小さな小さな音が聞こえた。
地面に落ちている葉を踏む音だ。
バッと顔を上げると、仙蔵も同じように顔を上げており、身を隠している背後の朽ち木に隠れながら辺りを伺う。
そこに見えたのは、案の定、小平太だった。
まだ大分距離がある為、仙蔵と伊作の二人には気付いていないようだが、こちらに近付いて来ている。その胸元には既に何枚かの朱色の札が掛かっており、彼が最初から身に付けていたのだろう黒の札はよく見えない程だ。
目視できる程の近くに迫った今、選択肢は三つ。逃げるか、戦うか、このまま息を殺して見付からない様に隠れているか。
今日の伊作では、二番目の戦うは非常に難しい。そして逃げ切る自信もない。従って、その場で身を縮めるという選択肢を取る。
仙蔵も、今、飛び出して行くのは不利だと睨んだのか、伊作と同じように身をより小さく屈めていた。
着実に歩み寄ってくる足音に、ヒヤヒヤとしながら耳を澄ます。
そうしていると、ふと足音が聞こえなくなった。どこに行ったのだろうか?と顔を上げて、仙蔵と一度視線を合わせてから、二人、朽ち木の向こうを覗いてみれば―――
「「うわぁ!」」
「みぃぃっけぇ!」
音もなく超至近距離に迫っていた小平太に、二人同時に悲鳴を上げて走り出した。
間髪いれずに嬉々とした声を上げ、彼は首に掛けた幾つもの札を鳴らしながら追い掛けて来る。
木々が立ち並ぶ隙間を器用に縫いながら走り逃げた。
しかし、それは小平太も一緒で、ニヤニヤと笑みすら浮かべてこちらに迫って来る。よくよく考えたら二対一なはずなのにおかしい。けれど、既に追われてしまっている状況で、彼に反撃する為に足を止めても、仙蔵も一緒に止まってくれるかはわからない。今日の自分ではどう考えても一人じゃ対抗出来ないし、それに全力で複雑な山林な中を走っているせいで腰の痛みが増している。
先を逃げている仙蔵との差が僅かに開いて来た。
まずい。そう思った時、仙蔵の姿が急に視界から消えた。
「あれ?」
どこにいったのだろうかと思ったら、彼は急に直角の方向へと方向転換を図っていたのだ。伊作は勿論、それを追えていない。ただ、ひたすら真っ直ぐの方へと走っている。
確かに二人一緒に逃げるより、別々に逃げた方が得策かもしれない。そうは思ったのだが、残念な事に小平太は仙蔵には目もくれずに伊作の方を追って来た。
「えぇぇぇっ!」
そうして呆気なく背後から伸びて来た手に捕まり、後方に引っ張られて、湿った土の上に派手に転がった。
全身に衝撃が走り、巻き上がった土が少しだけ口に入る。
「ッゲホ……、なんで、僕ばっか!」
「長次が、今日は伊作の動きが鈍い筈だから、まずは伊作を狙えって言ってたんだけど、本当だったなー」
小平太は揚々と言いながら、土の上に転がる伊作の朱の札を抜き取る。
「え?」
札を奪われてしまったのだが、しかし、その事よりも耳を疑いたくなるような事を小平太は言っていなかっただろうか?
長次が……、なんと言った?
「さて、仙蔵はどこに逃げたかなぁ?」
小平太は一度全身で大きく伸びをすると、地面に転がったままの伊作を置いて、山の木々の合間へと再び走り出して姿を消してしまった。
仰向けになり、土に汚れた顔もそのままに木漏れ日に目を細めていると、軽やかに木の上から降り立った影が一つ。
先程、伊作とは別の方向へと逃げた筈の仙蔵だった。小平太の気配が遠退いたのを見計らって戻って来たのだろう。
「そういえばな、先程言いそびれたのだが、お前等、ろ組の部屋には筒抜けらしいぞ?」
“長次が今日は伊作の動きが鈍い筈だから……”
仙蔵に言われた事で、先程の小平太の言葉に合点が行く。つまり、長次は昨晩自分達が何をしていたのか知っていたのだ。
「小平太の五月蝿い鼾が収まった時は要注意だな?」
恥で死ねる、死んでしまいたい。
そう思いながら、伊作は泥のこびり付いた両手で土まみれの顔を覆った。

 




back

- ナノ -