芳しい午後六時と静かな息吹
 カウンター越し、邪気のない笑顔に見つめられて不思議な心苦しさに陥りながら逃げるように視線を下に落とすと、手書きのポップメニューが目に入った。"午後はポアロのコーヒーと素敵なひと時を"……やはりここはコーヒーを頼むべきなのか。
 気付けば勝手に口が動いていた。

「……ではホットコーヒーを一杯」
「かしこまりました」

 身の回り二、三歩の距離を動きながらテキパキと準備を進める青年の背中は、そのあどけなさの残る顔立ちとは裏腹にとても広く大きく見える。働く男の後姿だと昔憧れていた上司が自然と重なった。勤め始めて長いのだろうか。そんなことを考えながら、彼のあまりの手際の良さに呆けているとその背中越しによく通る声で何気なく問いかけられて我に帰った。

「普段コーヒーはよく飲まれます?」
「えっと。そうですね、とは言っても缶コーヒーですけど」

 スラスラと言葉は泉が湧き出るように口を滑るが、そんなのはウソだ。自動販売機で缶コーヒーを落とすよりも、コンビニでパックの甘いコーヒー牛乳を手に取る機会の方が断然多いし、専ら私は紅茶派である。背を向けた彼から自分が見えないのをいいことに、何となく合わせるような会話になってしまったが、準備を進めるその様子の中にどこか楽しげな雰囲気を感じ取ってしまったのだからこれはもう不可抗力だと言いたい。だって、ここまできて普段はコーヒー飲みません、だなんて口が裂けても言えやしない。流石の私もそこまで鈍いつもりはない。
 唯一の救いはその間にもカウンターの上で着々と組み立てられて行く器材には辛うじて見覚えがあったことだ。残念ながら名前は出てこない。なんて言うんだっけなぁ……あぁ、ドリップじゃないのは確かなはずなのに。
 ええっと。思わず情けない声が出る。

「おや、見たことがあるようですね。ポアロではこのサイフォンで一杯ずつ丁寧にコーヒーを淹れているんですよ。飲まれたことはありますか?」

 そう、サイフォン。純喫茶とかの店内広告でよく見るあれだ。まぁるいフラスコのような瓶の中にお湯が注がれて行くのを見つめながら「残念ながら」とそこは正直に答えることにした。
 万が一、後から味の違いを問われたとして、答えられるはずなどないからだ。分かりました、と頷きながら電動ミルで粉を挽く片手間に青年はアルコールランプに火を灯す。長くて綺麗な指先を離れた青い炎がゆらりと瓶の中のお湯を温めていく。フラスコの底からプツプツと小さな泡が液体を静かに登って行った。

「サイフォン式のコーヒーは、下のフラスコと上のロートを使い気圧の流れの変化を利用して液体を操りコーヒーを淹れるため、別名バキュームコーヒーメーカーとも呼ばれるんです」
「……なんだか仰々しい別名」
「確かにサイフォン、の方がスマートですよね」

 説明されるがままに見つめていれば、挽かれたばかりの粉は彼がロートと言った上の筒状の瓶に静かに入れられトントンと手で揺すって均されたのち、沸き立つフラスコの口に嵌め込まれる。すると吸い上げられるようにお湯がロートへとじっくり移っていく。思わずその見慣れない光景に自ずと上体が前のめりになり、次第に嵩を増すお湯にコーヒーの焦げ茶色の粉がゆるやかに混ざり合っていく様は見ていてどこか楽しいとさえ感じていた。

「不思議……あ、いい香りがしてきた」
「今日はホンジュラスのハイグロウンを中深煎りでご用意しています」

 なんの呪文だろうかと聞きなれない言葉に顔を上げれば、慣れた手つきでロートのお湯と粉を混ぜながら彼はその中の様子を熱心に見ていた。その視線があまりにも真剣で少しドキリとする。そして慌てて外らせた先のロートの中のふわふわとした泡と粉、液体の三層に言いようのない美しさを感じた。
 三十秒ほど経ったところでアルコールランプが瓶から外され、しなやかな手が再びロートの液体を緩くかき混ぜる。立ち上がる芳しい香りを肺いっぱいに吸い込んでいると、ロートからフラスコへとコーヒー液が静かに落ちていく。

「パフォーマンス度が高いですね」
「確かにこれを見てしまうとドリップコーヒーなんかはかなり地味に感じてしまうかもしれませんね」

 いつの間にか温めていたであろうコーヒーカップを清潔感のある白い布巾で拭き上げながら彼は笑う。とはいえそれぞれに良さがあるわけですが、と拭き上がったカップをソーサーに乗せ、その中に静かにコーヒーを注いでいく。ふわりと立ち昇るのは湯気だけでなく、コーヒーの上品な苦い薫り。見つめた先の黒く澄んだ液面は照明を浴びて煌めいている。素直に美しいな、と思いながら勧められるがままに一口口に含んだ。

「やだ、美味しい……」

 あまりにも自然なに流れで促されたため忘れていたが砂糖は一切入れていない。ブラックで飲むことなど滅多になかったが、それでもなんの抵抗もなしに液体は喉を通り抜け、その後口内に静かに残った薫りに誘われて再び口を付けざるを得なかった。はて、コーヒーとはこんなにも美味しい飲み物だっただろうか。

「中粗挽きでよりアッサリとした飲み口になるように淹れましたから、お苦手でも口にしやすいとは思いますよ」
「え、なんで」
「失礼ながら僕の質問への答え方が、好んでコーヒーを飲まれる方のソレではないな、と思ったもので」

 青年の仕事への姿勢もそうであるが、客に対する観察眼も相当なものとみた。こんな若者がいるだなんて、世の中もまだまだ捨てたものではないな、と年寄りが茶をすするようにしみじみと残りのコーヒーを飲み進める。

「なんだかごめんなさい。でも本当にコレ、すごく美味しいです」
「謝らないで下さい。気に入って頂けたことは、今の貴女の顔を見れば分かりますから」

 ふふ、と穏やかな笑みを浮かべながら器材の洗い物を始めた彼とは裏腹に、色々気を遣わせたのかもしれないと私の表情はやや引き攣り気味だ。でも今回のことでコーヒーに対するイメージは良い方向へと変わった。これを機に大人の味を正しく覚えていくのも悪くない。

「そういえば、お名前をお伺いしても?」
「あ、申し遅れました。私、橋谷円華と申します」
「円華さんですね。僕は安室透と言います」

 さらりと名前で呼んでくるあたりが若いというか、あざといというか。もはや年齢なども問わず、この安室という青年は女という生き物をうまく味方にするタイプだろう。中身だけでなく、顔の偏差値も十二分に高いし。
 全くもって目に薬である。



20190104
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