せめて貴方のために泣けたらよかった
 本気で誰かを愛したこと、ないんだと思う

 帰り道の公園でふと足が止まる。
 店を出てからずっと、ぐるぐると頭の中を彼の言葉が巡っていた。果たして本当にそうだろうか?と思うが、決して多くはない過去に関係を持った男の顔を思い出そうとすればする程、情けないことに誰一人としてはっきりとした記憶を呼び出せない自分がいることに気が付いた。
 たしかに好き、だったのだと思う。だからこそ彼氏、彼女という明確な肩書きをつけて隣にいたはずなのだ。なのに……

「名前もちゃんと思い出せないなんて……わたし、相当ひどい女だなぁ」

 零れた涙の理由は、考えたくない。
 五年付き合った男に別れを切り出された時ですらうんともすんとも言わなかった涙腺が、ここに来て情けないほどに緩んだのだから。
 首元に巻き付けたストールに顔の下半分を深く埋め込み、近くにあった木製のベンチに腰を下ろした。冷たい風が耳を刺すのにそれ以上に目頭が熱い。声を押し殺して、自身の肩を抱いて、この熱が冷めるのをじっと待つ。

「あの……よかったらコレを」

ボヤけた視界の先に差し出されていたのは淡いグレーのハンカチで、突然のその優しさに理解が追い付かず言葉を発せずにいると「知らない男から手渡すには、やはりティッシュの方が良かったでしょうか」と顔を上げた先で困ったように微笑む顔は言葉遣いに反して少し幼いにように思えた。
 褐色の肌に、眩しいがどこか柔らかい印象を与える金色の髪。目尻の緩く下がったベイビーブルーの瞳に、思わず吸い込まれそうになる。

「あ、いえ。すみません……お借りします」

 戸惑う言葉とは裏腹に、ほとんど反射的に伸ばしていた手に、丁寧に渡されるハンカチ。どうぞ、と微笑んだ青年はそのままごく自然な流れで隣に腰を下ろした。
 ありがたく、溢れる涙を仄かに甘い香りのする優しい生地で拭いながらチラリと青年を盗み見る。久しぶりに雲の少ない空を見上げていた横顔が、私の視線に気付いたのかゆっくりとこちらを見た。
 綺麗な顔……それ以上の形容はとてもじゃないが私にはできない。

「何があったかは存じあげませんが、泣きたいときは泣いたほうがいいですよ。哀しみを心の中にため込むのは、よくありませんから」

 見ず知らずの青年の二心のない優しさと気遣いに触れて、傷んだ心が少し温まるのを感じる。
 そうやって、彼にも知らず知らずのうちに甘やかされていたんだろうな、と納得した。そして、無条件に向けられる優しさに、私は一体何を返せたというのだろう……やはり、考えたくもなかった。


 それから十五分ほどして、ようやく落ち着いた涙腺を手にしたハンカチで最後にもう一度だけ軽く抑えて、深く息を吐き出した。息が白くなるまではまだ少し日があるが、それでも屋外でじっと過ごすには十分過ぎるほどに凍みる季節である。
 あれきり何も言わずにただ隣にいてくれた青年に向き直ってゆっくりと頭を下げた。ありがとうございました、と。
 ポケットに突っ込んでいた右手を出した青年はそれを口元の高さで振りながら「とんでもないですよ」と人好きのする顔で笑う。

「むしろ見知らぬ男が隣にいても落ち着かなかったのでは、と座ってから気付いて……しかし、泣いたままの女性を一人置き去りにするのも忍びなく」
「ふふ、真面目な人」
「そうやって笑って頂けるのであれば、この性分も悪くないかなとは思います」

 どこまでも律儀なその姿に思わず口が綻ぶのを感じた。ハンカチはそのまま処分して頂いても結構ですので、と言われるがどう見たって使い込んだ形跡などないそのハンカチを――しかもよく見てみればそこそこいいブランドのものであるのに、捨てれるはずなどあるわけがない。

「いえ、そんなわけにはいかないので」
「では……僕、ここで働いているのでお時間があるときで構いません、コーヒーでも飲みに来て頂けたら嬉しいです」

 食い下がる私を見かねて、青年は名刺入れを上着の内ポケットから丁寧に取り出した。質の良さそうな革の口を開き、薄茶色の紙を一枚取り出す。両面印刷のそれはいわゆるショップカードというやつで、表面には"ポアロ"とコーヒーカップのマークとともに描かれたロゴが、裏面には店舗の住所と連絡先、それから簡単な地図が書かれていた。住所の並びから見ても、お店は私でもたどり着ける立地にあることが分かる。

「必ず伺います」
「ぜひお待ちしております。ではまた」
「本当に、ありがとうございました」

 すでに立ち上がっていた青年が、爽やかな笑顔とともに軽く会釈する。つられて微笑めば、なんとなく彼が満足げに笑みを深くしたような気がした。



20180928
prev top next
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -