薬指にかかる魔法が解けた日
 学生時代から五年ほど付き合っていた二歳上の恋人に突然別れを切り出された。それは、他に好きな人ができた、だなんて世間的にはとても些末な理由だった。
 周囲からはもうそろそろ結婚も考えているんじゃないか、だなんて言われていたというのに、たとえ長い年月を経ても人の気持ちなど決してあてにはならないということが分かった。
 しかしながら、私はそんな彼を責める気にはなれなかった。

「……そうなんだ」

 決して彼のことがどうでも良かった訳ではない。純粋に寂しいと感じたのも事実だ。
 五年という歳月の中で生まれた感情にも行為にも嘘偽りは決してない。けれど"なぜ?"とか"どうして?"とかましてや"なんで私じゃないの?"だなんて、そんな衝動にも近い気持ちは微塵も生まれてこなかった。
 溢れる涙も、勿論ない。

「やっぱりな……」

 窓側の四人がけのボックス席に対面する形で私たちは座っている。通路を挟んだ向こう側には家族連れが、彼の後ろには女子高生の集団が、私の後ろは若いママたちの集まりが……そんな、どこにでもあるチェーン展開のファミリーレストランの喧騒の中でも、彼の落ち着いたバリトンの声は長年聞きなれたせいか驚くほどクリアにこの耳に届く。
 視線の先にあったアイスコーヒーから顔を上げると、一人何かを理解して諦めたような彼の黒い瞳に触れた。
 涙を流すのは彼の方かもしれない。

「お前はさ……自分じゃ気付いてないと思うけど、俺のこと愛してないよ」
「違ッ、そんなこと」
「だったら引き止めろよッ!なんで?どうして?って聞いてくれよッ!五年も付き合ってたんだぞ?……そしたら、俺はこんなッ」

 いつだって私に優しく触れた大きな手で自分の目元を覆いながら、彼はそれきり喋らなくなった。
 すっかり薄くなったアイスコーヒーの中で、まるで氷が踊るように溶ける音が響く。
 周囲の声はずっと遠くなっていた。


 果たして謝ることが正解だったのか、それとも追い縋るべきだったのか、答えなどは分かるはずもなく、ただただ続く沈黙に耐えかねてすでに美味しくもなんともないアイスコーヒーを細いストローから律儀に啜る。
 彼のものは一切手をつけられていないので氷が溶けた水とコーヒーとがグラデーションの様に静かに佇んでいた。
 店内の暖房がよく効いていたからそれを頼んだというのに、グラスに触れる冷え切った指先に少しだけ後悔をする。それも、もう遅い。何より、この冷え切った空気を温める方法を私は知らなかった。


 彼とは大学の同好会で出会った先輩後輩の関係で、人懐こい笑顔が可愛い人だなというのが第一印象だった。何度かの飲み会で話をし、学内でも軽い挨拶やコミュニケーションをとり、当時の私のバイト先だったカフェに他の先輩たちとよく来るようになった。その後、個人的にも頻繁に連絡を取るようになり、一年ほど経った頃にデートに誘われ、デートその日の別れ際、まるでそれがテンプレートで用意されていたかのように告白された。ずっと好きだったんだ、と。
 騒がしくもなく、かといって大人しくもない、比較的面倒見のいいお兄さんタイプの彼は同級生からも後輩からも親しまれ、女子からの人気も噂程度が耳に入るぐらいにはあった。そんな彼が、他の誰よりも自分を選んでくれたことは素直に嬉しかったし、少しだけ赤くした頬で「良かったら付き合ってくれないかな?」と随分自信なさげにいう姿を愛らしいと思った。
 私でよければなんて当たり障りのない返事をして、照れながら酷く喜んだ様子の彼にキスをされて、抱きしめられた時の熱い体温は――ああ、ダメだ。覚えていない。

「俺のワガママに付き合わせてごめん」

 唐突に彼が口を開く。顔を覆っていた手はすでにテーブルの上で静かに組まれていた。穏やかに、けれども確実に無理をして作った笑顔が痛々しい。そうさせているのが自分自身だと思うと、共鳴するように心が痛んだ。
 ほら、これは愛ではないのか?
 胸の奥で誰かが問う。

「……なんで、謝るの?」
「お前は本気で誰かを愛したこと、ないんだと思う。相手の好意に合わせて、そう思い込んでるだけで……それでも、俺が頑張っていつか本物になればって思ってたんだ。結局、独りよがりだったけどな」
「そんなこと……」
「俺が他の女を好きになったって聞いたとき、なんにも感じなかったろ?そんな顔してた……戸惑いも、怒りも、悲しみも……なんにも見えない顔。だから、これはもうお互いに限界なんだな……って」

 透明の筒状になった伝票置きからそれを素早く抜き取った彼は「ごめんな。けど、今までありがとう」という言葉とともに席を立ち、最後に一度だけ私の頭を柔らかく撫でて店を出ていった。
 いつのまに外していたのか、褪せた揃いのシルバーリングがグラスの横で静かに煌めいて、彼が気に入って使っていた香水の香りだけが、ひどく、優しく、残った。



20180928
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