それが何かと聞かれたら
「ただいま」

玄関を潜れば、足の幅ほど開いた扉の先からひょっこりと小さな顔が覗く。そして「来いよ」と呟くまでもなく、駆け出した爪がフローリングを走る音にアルトは片膝を折った。
小さく響く鈴の音と頭の中に残る優しい声が重なって、まいったなぁ。と抱き上げたディーヴァの額と自分のそれをそっと重ねる。肌に当たるのは短い毛だが、フワリと柔らかくてどこか安心する。

「どうすればいいんだろうな」
まん丸の瞳がまるで考えるように細められた。そして甘えるようにすり寄ってきた小さな身体を落とさぬように片手で支えながらアルトは靴を脱いだ。

「生憎、お前やミシェルみたいな積極性は、持ち合わせていないんだが」

きょとんと瞬きをするその表情に穏やかな笑みが誘われる。とりあえず、お前のご飯だな。話はそれからだ、と甘く指を食みはじめたその頭を数度撫でてリビングへと入った。

静まり返ったその部屋に微かに香る上品なコーヒーと葉巻の薫り。カウンターの上で手のひら大のメモと何枚かの紙幣が灰皿の下敷きになっていた。
「忙しい人だな……」
世界的に有名なオーケストラの楽団が今この日本へと上陸している。そして、アルトの父親であり日本屈指の指揮者である早乙女乱蔵との全国公演はまだ始まったばかりだった。

シンク上の戸棚から目的の箱を取り出すついでにアルトはメモ書きに視線を走らせた。
右肩上がりだが丁寧な文字で『何かあれば連絡ください』と、そしてその下には携帯の番号と、おそらく事務所の番号が並んでいた。新しい父のマネージャーは、とてもマメな人らしい。
アルトはカラカラと軽い音を立てながら皿に吸い込まれるように少しずつ積もって行くキャットフードに視線を移し替えた。そして肩口でそわそわし出したディーヴァに「落ちるぞ」と嗜めるように呟いて皿を床に置く。

「はいはい、お待たせしましたお嬢さん」

レディはもう少し淑やかにしてくれよ。と食事に夢中になってしまった背を撫でながら、アルトはその場に静かに腰を下ろした。
落とした瞼の先で揺れる金糸が眩しい。繊細でいて、けれども此処まで辿り着くための努力が伺える指先の奏でる音を、また聴きたい。また、会いたい。
胸の中が熱くなるのを感じながら呟いた「……本当に、まいった」という声が、誰もいないリビングへと吸い込まれていった。

20170325 Takaya
果たして答えは出るのだろうか
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