緩やかな暖かさを持った細い指先に制され徐に瞳を持ち上げると、シェリルのしっとり濡れた双眸に見据えられてアルトは思わず息を飲んだ。彼女の甘い歌声が水面に波紋を残すように耳朶を震わせる。
――もしもアタシの気に入らない伴奏をするようならカメラ回ってたって止めるわよおそらくその言葉の通りに彼女は自分の伴奏が気に入らなかったのだろう。手の甲を覆うように触れる指先に些か力が入っている。既にアルトに背を向けて、アカペラのまま歌い続けるシェリルの表情は彼には見えないが、後ろ手に自分の手を抑えたままの彼女の意思を汲み取れないほどアルトは馬鹿ではなかった。そっと、シェリルの歌声を邪魔せぬように息を吐き、アルトは大人しく鍵盤から指を退けた――
「正直、やられた……って思ったよ」
いい経験になったことには違いないが。そう言って項垂れるようにカウンターに寄り掛かるアルトの背を、ミハエルが軽く叩く。ゆっくりと氷の溶けるグラスを眺めれば、その甘い蜂蜜色に映るのは何処か楽しげにすら笑うアルトの顏で、ミハエルはほっと胸を撫で下ろした。
「なあ、アルト。リラ・K・ビレンコーフェン……って知ってるか?」
「……いや」
「シェリルが雇ってる伴奏専門のピアニストだって。シェリルが猛アタックして落としたらしいけど」
へえ。と軽くグラスを傾けたのちに、その縁を人差し指の腹でなぞりながらアルトは静かにその名を反復してみせた。
「リラ・ビレンコーフェン、ね」
自分には前奏と僅かワンフレーズで演奏を止めさせたシェリルが心酔にも等しく好いている伴奏者。その名から女性であることは違いないだろう。けれども自分の知る名ではないところを見ると、そこまで世間に出ていない人間であることも容易に想像できる。
そもそも“伴奏”だけを主体にするピアニストがいたことが珍しくてならない。仄かに甘さの香るブランデーで喉を焦がしながらアルトはもう一度心中でその名を呟いた。
20120319 Takaya
先ずは自らの敗北を贈る