木造アパートや古い一戸建てが並ぶ住宅街。砂利が敷き詰められた駐車場を避けて、細い小道を自転車を引いて歩いていく。駐車場を通った方が近道になるが、聡史は一度もここを通ったことはない。通る前に忠告を受けたからだ。

「硝子の破片が落ちてることもあるから、そこは通んない方がいいよ」

 忘れようとしても、忘れられない。あれは、着なれないフォーマルを身に包み、真新しいランドセルを背負って迎えた、六年前の、春のことだった。自転車に乗った少年が、砂利道を通ろうとしていた聡史を後ろから引き留めたのだ。
「同じ小学校の、新入生だよね? オレ、二年の皆川友則って言うんだ。キミは?」
「荻野……聡史」
 それが、あの人と初めて交わした会話だった。

 父親が亡くなって、マンションから祖母の家に引越した日から、聡史は不安で堪らなかった。通うはずだった私立の小学校は、祖母の家からだとかなりの距離があった。忙しい母に毎日車で送り迎えさせる訳にもいかず、結局、今通っている公立学校に変更になったのだ。祖母の住む家は、何度か遊びに来ていたので知っている。だが町に住む子どもは知らない子ばかり。当然ながら、幼稚園の友達とは離れてしまった。
 小学校を入学する以前の時よりは多少マシになったが、聡史は人見知りが人一倍激しい子どもだった。集合写真を撮り終わった際、新しいクラスメイト達は顔見知り同士が多いのか、個別で写真を撮り合っていた。親同士も顔見知りなのだろう。皆、仲良さそうに近所のファミレスで昼食をとる話をしていた。聡史の母親は無理をして仕事を抜けてきてくれたが、式を終えると、やはり急いで職場に戻ってしまった。
 鮮やかなチューリップの花束と、タクシー代だけが、聡史の手に取り残されたのだ。

「大丈夫だよ。タクシー乗ったら直ぐだし、家にはお祖母ちゃんもいるし」

 心配する母親を安心させる為に言った言葉は、泣きそうになっていた自分自身を慰める為の言葉でもあった。しかし、タクシーの窓ガラスから、走り過ぎて行く見知らぬ町の景色を目をしていくうちに。胸の中に留めておいた蟠りが一気に溢れ出し、堰を切ったように泣いてしまった。
 このまま、ずっと独りぼっちだったらどうしよう。
 強く握りしめたせいで、ひしゃげてしまった花束を見つめながら、何度も呟いた。
 でもまさかその数分後に、そんな不安を一切拭い去ってくれる人が現れるとは夢にも思わなかったのだ。

「泣かないで。目をつむってごらん」

 みっともなく零れる涙を指で拭ってくれた後、柔らかい掌が聡史の目元を覆い隠した。甘い、お菓子のにおいがしたからなのか。視界を閉ざされても、抵抗しなかった。

「オレも妹も、コレ、お気に入りなんだ」

 瞼を閉じて、口を開けば、彼がお気に入りだという飴が放りこまれた。この魔法の飴は、いつも同じ味だった。
 泣きやんだ後に、差し出された、聡史より僅かに大きく温かい手。この手は聡史をいつも色んな場所に連れて行ってくれた。登下校は勿論一緒であったし、皆川は学童保育施設の生徒ではなかったが、毎日のように遊びに来てくれて。休日には噴水のある大きな公園で遊んだり、図書館で宿題をした。夏には市民プール、お祭りに行って、屋台を回り、帰りには河川敷で花火をして。秋にはマラソン大会に参加して、冬には児童館でクリスマスパーティーをした。一年中、ずっと一緒だった。四年生になって、受験勉強の為に聡史が進学塾に入るまでは。



 細い小道を通り、自宅の前に辿り着くと、スタンドを立てて自転車を止める。上着ポケットに手を突っ込むと、中に入れた鍵束を手探りで探った。
 築四十年になる元、祖母の家は庭ごとブロック塀で取り囲まれており、玄関の前に小門がある。床下浸水を防ぐ段差がある為、自転車を運び入れることは、まだ小学生で小柄な聡志にとって中々苦労する作業だ。このまま門の前に置きっ放しにした方が、塾に行く時には楽だ。だが、近辺に住む人々はお年寄りばかりなので、自転車一台置くだけでも狭い道では歩行の妨げになる。それに、家主であった祖母は、人一倍厳しい性格だった。自転車を置きっ放しにして、祖母にうるさく嫌味を言われても、かなわないので、帰ったら門の中に仕舞うことが聡史にとって習慣となっていた。それは祖母が亡くなった今でも続いている。
 門の鍵を開け、やや高い段差を越えて、自転車を持ち運び入れる。カゴの中に入れてあったカバンを取り、鍵を閉めようと門の前に立った時。ふと思い立って、引き戸上方にある柵の合間から、向かいにある二階立てのボロアパートを覗いた。
 昨日の夜、塾から帰ってきた聡志を皆川はアパートの二階から出迎えてくれた。今まで見たことも無いような、ひどく憔悴した顔で。
 今日もてっきり、階段の上で待っているかと思いきや、そこには誰の姿も無かった。
 今日は……居ないみたいだ。
 ほっと胸を撫で下ろして、引戸錠のツマミに指を引っ掻けた。だが、階段から視線を下に戻した時、施錠仕掛けていた手を止めた。

「え……?」

 一ヶ所だけ取っ手が無い箪笥。ビデオの差し込み口が開きっぱなしのテレビビデオ。変色した電子レンジ。使い古された家具や、電化製品の数々が、アパートの自転車置き場前に並んでいた。どれも、聡志にとって見覚えがあるものばかりであり、それぞれに同じような縦長のシールが貼られている。シールは、去年、亡くなった祖母の遺品を整理した時に使った。“有料粗大ゴミ券”だ。

「トモ兄っ!」

 弾かれたように、引き戸を開け放ち、アパートに向かって走りだした。今にも壊れそうな鉄筋階段を駆け上がり、一番左奥の部屋を目指す。インターホンは鳴らない。大分前から壊れているから。

「なんで」
 いつもは不用心に開き放しのドアは、今日に限って一向に開かなかった。

「なんで、なんで」

 ガスメーターに隠してあるはずの合鍵もない。電気も回っていない。人の気配すらなかった。

「なんでだよっ、トモ兄っ!」

 部屋のドアを叩く気は起きなかった。
 叩いて、もし返事が返って来なかったら?

「なんで、トモ兄まで、……居なくなっちゃうんだよぉ」

 父や、祖母。身近な人が居なくなるのはいつも突然だった。皆川まで、彼らと同じように、二度と会えなくなってしまうんだろうか。二人と違って皆川は生きている。死者とは違う。生きていれば、またいつか会える日が来るかも知れない。でもそれは、別れた相手の確かな居場所が分かっている場合だ。聡志は皆川の事を何も知らなかった。連絡先も、何処へ行ってしまったのかも。
「ボクの、せいだ」
 一向に開かないドアを前に、拳を強く握り締め、深く項垂れる。
 突然、じゃない。予感はあった。いつか、こうなってしまうんじゃないかって。

「昨日、トモ兄の話、聞いて、あげられなかったから」

 散々皆川に助けて貰っておいて。肝心な時に限って、恩返しさえ出来ない。
 何が少しはマシになっただ。あの頃から、全く何も変わっていないじゃないか。
 昨日の皆川の真意は分からない。でも、何を伝えようとしていた。なのに、ろくに話も聞こうともせずに、自分は逃げた。何を言えば分からなくて。結局眠ることも出来ず、一晩中思い悩んでも、答えは見つからなかった。

「トモ兄」

 今更、後悔したって仕方ないのに。

「トモ兄っ……ごめん、ごめんなさい」

 せめてもの罪滅し、とばかりに。焼けるような喉の痛みを堪えて、謝罪の言葉を何度も、何度も繰り返した。



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