試験会場となった教室に秒針の音が響く事はない。何故ならその日だけ、壁に掛けられた時計が外されているからだ。せめて黒板に書かれていた終了時刻を確かめようとしてみるが、白い数字はまるで聡志を嘲笑うかのように、ぐにゃりと歪んで、混ざった。
 教室に入って、机に座った時から、気付いていた。昨晩、布団の中に入っても治らなかった悪寒が続いていることを。
 プリント最後の問八は創作問題だ。主体性が乏しい聡志にとってこの手の問題は苦手分野だった。だが、配点が最も高い訳のだから、時間が無いといって、無下にする訳にはいかない。空欄のまま提出すれば、貴重な三十点を失うことになる。
 二つ前の問四は盲目の「ハンディキャップ」を抱えた女性作家のエッセイを抜粋して作られた文章問題であった。最終問題はその「ハンディキャップ」といったキーワードを使用して、百字以内で作者に対する自身の考えを書き表せということだ。
 流し読みしたので、エッセイは断片的にしか覚えていない。少しでも点数を稼ぐ為に、もう一度確認した方が良いのだが、頭痛が酷過ぎて、内容が頭に入ってこない。
 駄目だ、気持ちが、悪い。
 ついには、耐えきれなくなって、顔を目の下にある机にひれ伏せた。火照った頬が冷えた机に当たって、先程よりほんの少しだけ楽になったような気がする。
 気のせいかも、しれないけどさ。
 握り締めていたプリントを離すと、聡史はゆっくりと、瞼を閉じた。

 五感の一つである視覚を失う事は、健常者には想像がつかないくらい、不便な事なんだろう。エッセイの著者である女性は、事故によって永遠に暗闇の世界に閉じ込められた代わりに、かけがえのない光を得たと述べていた。“光”に該当するのは、エッセイ先述にあった友人や、配偶者、子どもの事なんだろう。年齢が二桁になってまだ一年程しか経っていない聡史には「障害があるのに、仕事も育児も頑張っていて凄いなと思いました」という模範的な回答しか記せなかった。
 仕方なかった。こうして、瞼を閉じていれば、光は消えるが、開けば、また直ぐに戻るのが聡史にとって、当たり前の世界だから。目で見るのではなく、心で見るなんて至極、大人の意見だと感じられた。年齢だけのせいじゃない。精神面でもだ。だからだろうか。聡史には、目を閉じても、開いてもあの人の真意が見えなかった。あの人が伝えたかったことが、何一つ分からなかった。



「目をつむって、口を開けてごらん?」

 それは聡史がまだ小一だった頃。泣いていた時にはいつも、あの人が唱えてくれた魔法の呪文だった。呪文通りに口を開けば、投げ込まれた安っぽい飴玉。子ども騙しだと何度も思ったけれど、口から飴を吐き出したことはなかった。
 別に、飴が欲しかったんじゃない。砂場の中心にある遊具の中で、独りきりで隠れていた自分を必ず探しに来てくれる人が居るということが単純に嬉しかった。
 もしかすると、また泣くって思われたのだろうか。だからあの人は、数年ぶりにあの呪文を口にした。
 飴玉はもう、持ってなかったくせに。呪文の力は、衰えていなかった。涙を流す時に似た、わびしさはものの数秒で引っ込んだからだ。
 けれども、長い年月を掛けて慰めの呪文は呪いに変わっていた。呪文をかけられた後は、馬鹿みたいに晴れ渡っていたはずの心は、今ではこんなにも、重たく、苦しい。
 気がつけば、あの人の腕を振りほどいて、逃げるように家の中へ駆け込んでいた。
 見たことなかった。あんな辛そうな表情は。六年間、ずっと一緒にいたけど、一度も。
 記憶の中では、あの人は呪文を唱えた後はいつも、笑っていた。それなのに、何故昨日はあんな顔をした? あの人は何を言おうとしていた?
 誰か教えて欲しい。どうすれば良いのか。どうすれば、あの人を救えるのか。早くしないといけない。間に合わなくなる。




 組んだ腕の中で、閉じていた瞼を開く。光は無い。暗闇だった。何も見えなかったし、何も聞こえなかった。耳に入ってくるのは、エアコンの室外から吐き出される緩やかな温風の音と、クラスメイトが紙面に向かってシャーペンを走らせる音だけ。

「そこまで」

 静寂を遮るチャイムの音にハッと伏せていた顔をあげると、黒板の前にいた講師がプリントを回収するように指示を送っていた。
 空欄を埋め終えたテスト用紙を封筒に仕舞い、前の席に回す。筆箱をカバンに突っ込むと、教室が騒がしくなる前に席を立った。
 エレベーターが、一階の駐輪場に到着すると、既に見回りの講師が待ち構えていた。
「大丈夫か? 今日は暖かくして、早く休めよ、聡史」
「はい、先生……さようなら」

 マスク越しでなんとか絞り出した声は驚く程、しゃがれていた。


「新中学生基礎学力強化春季講習」のポスターを目印に、駐めて置いた自転車のカゴにカバンを入れた途端、マナーモードにしたままの携帯が震える。母親からだ。

“少し遅くなります。夕飯は買って食べて下さい。”

 兄弟はいない。父親も死んで、いない。母一人子一人のシングルマザー。別に今時珍しいことじゃない。聡史が小三まで通っていた学童保育施設では、寧ろ片親でない生徒が通って居る方が珍しかった。

「弁当屋は、もう九時だから閉まってるしな」

 夕飯にファーストフードは遠慮したい。ファミレスもパスだ。小学生が一人、家族連れで賑わった週末の店内で食べるなど、拷問に等しい。一度、入ったファミレスで地獄を味わったのだ。
 小さい女の子に、ソファー越しで、
「ねぇパパ。あのお兄ちゃん、なんで一人で食べてるの?」
と指を差された時ほど、恥ずかしかった経験は無い。
「また、コンビニかぁ」

 考えたら、結局そんなところしか思いつかなかった。
 出来たら、もう少しだけ、時間を潰したかったのに。そうすれば、昨日自分にキスをして、呪いをかけたあの人に会わずに済んだかも知れないから。あの人を助けたい。けれど、どうやって? 何の力にもなれない惨めな自分を思うと、足が竦んだ。彼に会うことがとても怖かった。



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