パタタッと駆ける軽い足音。
そちらに目を向けた朧はおや、と目を丸くした。
茶碗が走ってる。
この家で茶碗が走ることは、不思議ではない。むしろ茶碗に留まらず湯のみや大皿まで飛んだり跳ねたり踊ったりするのだから。
だから驚いたのはそこではなく。
「影茶碗か?」
今までこの家の中で見た事がない欠けた茶碗。
敷地内にある蔵にはそれこそ沢山の古物たちが付喪神になる日を今か今かと待ってはいるが、それらは大切に保管され、手入れも行き届いているから欠けるだなんてあり得ない。
どこぞの名匠に創られた茶碗が、欠けて捨てられ大地の気を吸って妖となり、いつの間にやら住み着いていたのだろう。
だがその茶碗が『影茶碗』だとするならば、それがこんなにも忙しく走り回ることが意味するものは……。
「まさか、な」
予知能力などない朧は自身の中に湧いた予感を見ないふりして抱えていた書類を持ち直す。そして再び歩き出した。
今頃、あの二人は無事仕事をし果せているだろうか。きっと出来ている。なんたって、あの二人は優秀だ。
家中に響き渡るような蝉の声の中、背後でパキンッと何かの割れる音を聞いた。
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