「あと一週間かあ」


 イル・ファンの賑やかな夜道を歩きながら、先ほど挨拶してきた人物を思い出した。契約した新居の大家は、人当たりの良い笑顔で、物腰の柔らかい男性だ。よく対応してもらって、ようやくこの先に光が灯った気がした。
 次の貸家は、ジュードの住まいと近い居住区にある。図ったわけではなかったが、声のかけやすい場所でなんだかほっとしていた。引っ越しが終わったら、今度は俺がジュードを家に招きたいものだ。その為には、諸々の用意を始めておかなければならない。



「お疲れさまでーす!」


 ホテルシェフの賄いにあやかったあと、交代のスタッフに挨拶をして、関係者用出入り口へと急ぐ。作業中、この先一週間のスケジュールを練っていたら、あっという間にシフトが終わってしまった。バイトリーダーからは、百面相が中々に愉快だったと笑われた。にやりと笑ったり、はたまた、眉を寄せて気落ちしていたり。
 しかたない。転居先に目途が立った瞬間、新居での生活を楽しみに思う反面、ジュード宅への居候生活が終わってしまうのだと気が付いて、どこに落ち着けばいいのか迷っている。元々一人の生活が長かったから、一人暮らし自体苦にはならない。けれど、ジュードと買い出しに出かけたり、お互いに無言でくつろいだり、冗談言い合ったりするのは、とてもとても楽しかったから。

 贅沢を覚えたなあ。弱くなったのかもしれないな。階段に足音を響かせながら、いかんいかんと首を振る。その分ジュードの時間をもらっているのだ。少し気を引き締めねば。……ああ、でも、やっぱり楽しかったなあ。
 少しやけくそに、強く押し開けた扉を挟んで、俺とその人は目を丸くした。


「び、びっくりした……。えと、アルバイトお疲れさま、エリアス」

「あれ、ジュード!?」


 胸を宥めながら、人当たりの良い笑顔を見せるのは、どうみてもジュード・マティスだった。医学校の制服ではなく、普段着として愛着しているらしい、白い線が眩しい青い意匠。ホテル前に整列する、イル・ファン名物≪発光樹≫の光を受けて、蜂蜜色の瞳がほんのりときらめいている。


「近くまで散歩にきてたんだ。そしたら、ちょうどエリアスのあがる時間だと思って、つい来ちゃった」

「そうなんだ……なんかサンキューな。寒くなかったか?」

「平気だよ。けっこう長く歩いてたから、体が温まってたし」


 たまには体動かさないとね。くるりと回転した腕は、同年代と比べたらずっと逞しい。言葉の通り、ジュードの頬はほんのりと色づいていた。もう少し寒い時期に入ったら、その吐息も白く染まるだろう。
 じっとジュードを見つめたまま、いつまでも歩き出さない俺に、少年が首を傾ける。そうか触ればいいんだと思いついた時には「うわわっ!?」少年は声を上げていた。


「うわわっ! なっ、なに!?」

「おー、ジュードの腹筋服の上からでもわかるんだな! 手もおっきいけど、腹筋もしっかり割れてるし……なんか羨ましい……」


 さすがは文武両道医学生。中が薄着のせいか、指先でなぞれば腹筋が浮かび上がる。
 夜でも分かるほど顔を赤らめた少年は、睥睨のまま、俺から一歩距離を取った。「ゴメンゴメン」人一人分詰めてみるものの、ジュードの口先は、心なしか尖ったままである。この少年は、やっぱり諸作動がどこか可愛らしいのだ。絶対拗ねそうだから、言わないけど。


「今日は雲がなくて、いい天気だな。な、ちょっと散歩して帰らない?」

「僕は構わないけど、エリアスは疲れてない?」

「いや、全然へーき」


 むしろ。雑踏のいない夜の刻には、イル・ファンの夜域がことさら美しく見える気がする。半月もいれば新鮮味なんて薄れてしまうが、今だにエリアスは空を見上げながら帰路に着く。

 星雲という言葉を知ったのも、イル・ファンを訪れてからだ。自然の現象とはいえ、星も自分を着飾ったりするものなのだと、似合わず詩的な言い回しを考えたものだ。一面の絵画というには、鮮やかすぎる気もした。


「初めて来た時、感動したんだ。暗闇って怖いものだと思ってた。でも、船室から覗いた夜には、こんなにも星が煌めいて……感動で息ができなくなるって、あれが二度目だったよ」

「一度目は?」

「ハ・ミル。あの時は、母さんの療養のためだったし、あんま覚えてないけどさ」

 語りたくない事情もあったが、友達に話すことではない。夕暮れを美しいと心から惚けたのは、後にも先にもきっとあの時だけ。あんな所に一人残してきた母が、今も心配でならないのだから。



「……、…………エリアスってば!」

「うわっ!?」


 突然の超重力にがくりと視界が揺れて、思わずジュードの服を掴み、ついでのように、二人とも地にしゃがんだ。
 なんともおかしい状態だが、突然の事態に目を白黒させるしかない俺に対して、いち早く回復したジュードが慌てて手を離す。そこでようやくジュードに腕を引っ張られたのだと理解して……ああ、そういえばジュードって、かなり力が強いんだっけ?


「ご、ごめん。話しかけても反応がなかったから……」

「いや、俺こそ、考え事してて」


 会話だけは落ち着いているのに、ぼやけた顔で互いを見る自分たちが、この世で一番面白く見えて、「ふふっ……」「ぶはっ」夜域に向かって大笑いした。青春ってこういうことかなあ。

 ついでのついでと、その場に座り込んで手摺に体を預けてしまう。汚れるよと言いながらも、ジュードも隣に腰掛けた。


「俺、ジュードがいてくれてよかった」

「えっ……ど、どうしたの? 突然」

「ジュードがいなかったら、俺今頃どうしてたかなって」

「……エリアスなら、きっと……僕がいなくても、自分でしっかり動けてたんじゃない、かな」


 急にしゅんと首を垂れてしまう少年に、エリアスは笑ってしまう。たった一人の同い年で同期な彼は、とても繊細で心優しい少年なのだ。


「もしもなんて分かんないけど、こうしてジュードと話すきっかけができて、俺は嬉しかったし。助けてくれてホントにありがと、ジュード」

「な、なんか照れちゃうよ……僕、人からそんなこと言われたの、初めてだし」

「俺も人に言ったの初めてだから、照れくささもおあいこな」


 さて、と腰を上げて、ジュードに手を伸ばす。それを掴んだジュードは、それはそれは柔らかに笑った。



'140519

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