06.I have to forget about him

【彼のことはわすれなければならないんです】



後悔のない人生を送ることは限りなく不可能に近いことだ。
誰にだって一度や二度は、あの時こうしていればとか、あの時あんなことをしなければとか、そんな後悔をしたことがあると思う。
たとえば、いつもとちがうものを選んでみたらやっぱりいつものやつの方がよかったりとか、迷って買わなかったものを後になってやっぱり買おうと思って行ったらしたらもう売り切れになってたりとか、最初から諦めてあったかもしれない好機を逃しちまったり、取り返しのつかないようなとんでもない失敗をやらかしちまったりとか、そんなことが。
俺にだってこの人生の中で後悔をしたことは何度もある。
人助けのつもりでやったことが裏目に出ちまったりとかなんてのは、しょっちゅうだな。
その中でただ一つだけ、後悔という言い方をしたくない悔いがある。
それは今は亡き妻である友恵の最期を看取ることができなかったことだ。
一人の夫として、これ以上に辛く悲しいことはなかっただろう。
でも友恵の望むワイルドタイガーとしてなら、悔いているとは決して言わない。
あなたはどんな時でもヒーローでいて、と友恵がそう言ったからだ。
だから後悔はしてない、そう思うことにしている。
だけどそんな俺は今、突きつけられた現実にショックを受け、そして後悔している。
何を後悔してるかって?
それは、バニーを好きなんだと自覚しちまったことだ。
だってそうだろ?
もし俺がバニーを好きだって自覚してなかったら、こんなことで傷ついたりしなかったと思う。
……たぶん、だけどな。
ただ唯一の救い、と言い方も変な気がするがよかったのは、まだ俺がバニーに自分の気持ちを言ってねぇことだ。
これでもし言ってたら、俺はきっと今以上に傷ついて、もっと後悔してただろう。
もう一度あのゴシップ記事を思い出しても、載っていた写真の二人は誰が見たってお似合いな美男美女で、やっぱりアイツには綺麗な年相応の女の子がいいんだって改めて思った。
こんなおじさんなんかじゃなくってさ。
本当に、まだバニーに言ってなくてよかった。
俺はぷるぷると震えて今にも涙を出してしまいそうな涙腺を叱咤して、それからぐっと上に向けて腕を伸ばした。
好きになったやつが幸せになれるなら、それが一番じゃねぇか。
「よしっ!いっちょワイルドに仕事するぜっ!」
いつもは見るだけで嫌気が差す書類の山を前に気合いを言えれて吠えると、取り敢えず一番上にある書類に手を伸ばした。
だがそこで、書類は期限の迫っているものから片付けるんですよ、と以前バニーに言われたことを思い出して、まずは期限の確認をすることから始めた。
分別が終わったら、今度は一枚ずつ目を通しサインをしたり、末端で始末書や経費精算なんかをする。
元々こういうデスクワークは苦手だが、バニーのためなんだと思ったら頑張れた。
そりゃアイツみたいにすらすらできねぇけど、それでも俺が今できることは、アイツの分まで仕事をやることだけだ。
しかしやる気に反して、書類の山はなかなか減ってくれない。
「っだ!まだこんなにあんのかよ!」
といっても大半は、俺がぶっ壊しちまったビルの損害賠償とかの書類なんだけど。
いつもならバニーが呆れた顔をしながら、仕方ないですね、なんて言って手伝ってくれるのに。
俺は空いている隣のデスクをちらりと見て、それから慌てて自分のデスクに向き直った。
「今は俺がやんなきゃダメなんだ!」
そう気合いを入れ直したところで、経理のおばちゃんがコーヒーを淹れてくれた。
こんなことは滅多にあることじゃない。
「えっと、ありがとうございます。なんか珍しいっすね!」
「今日のタイガーは頑張ってるから。まぁ、いつもそうだといいんだけどね」
「ははっ…、いつもすんません」
苦笑しながらぺこっと軽く頭を下げて、受け取ったコーヒーを啜る。
書類の量から考えて定時に上がるのは無理そうだが、残業になったって今日は文句を言うつもりはない。
さっきも言ったが、これがバニーのために今の俺ができることだからな。
「絶対に終わらせてやるぜっ!」
コーヒーを半分ほど飲むと、俺は再び書類の処理に取り掛かった。






「ふざけたことをっ……」
僕は部屋で一人そう呟くなり、ニュースペーパーをサイドテーブルに叩きつけて舌打ちをした。
顔出しヒーローの宿命と言われればそれまでだが、それにしたってこれを笑って受け流せるほど僕はできた大人ではない。
いや、以前の僕ならできたかもしれないが、今の僕にはそんな余裕などありはしない。
朝起きた時までは気分がよかったのに、その後は降下する一方だった。
昨夜酔った虎徹さんを腕に抱いて寝ることができたことは、まぁ彼の意思は別として、僕にとっては幸福なことだった。
それから慌ただしく部屋を出て行ってしまったことは、非常に残念だったけれど。
それでも会社に行けばまた会えるのだと自分を納得させてシャワーでも浴びようとしたところで、ロイズさんから電話があり、そこからが気持ちは一気に降下した。
朝から何事だと思えば、数日前に撮影を一緒に受けたモデルとのゴシップ記事が掲載されていると言われ、さらにそれに便乗したマスコミが騒ぐだろうからと、しばらくは出勤することはもちろん、自宅から外に出ないでくれとまで言われた。
外出ができない以上ネットで調べるしか手段がないと思い、探してその記事の概要を読んでみると、ありもしない捏造話があれこれと記されてあり、それはもう怒りを通り越して呆れてしまうようなものだった。
そもそもゴシップとして挙げられたそのモデルとは、撮影した日に初めて会ったのだ。
それがなぜたった数日で熱愛に発展するのか不思議でしょうがない。
しかも記事には、撮影前からの付き合いがあったとか、お忍びデートを繰り返していたとか、まったく身に覚えのない話が書かれていたのだ。
人をバカにするにも程がある。
大体、僕には好きな人がいるのだ。
それは言うまでもなく虎徹さんのことで、彼以外との熱愛報道など、迷惑極まりない。
もしロイズさんからの許可が下りるなら、このモデルの事務所と雑誌の出版社を訴えたいくらいだ。
「虎徹さんとの熱愛報道なら大歓迎なのに……」
はぁ、とちいさく溜息を吐いたところで、僕は重大なことに気が付いた。
「もしかして、虎徹さんはこの記事を本気にしてしまっているんじゃ……」
早とちりが十八番な彼なら、大いにあり得ることだ。
恐らくロイズさんからは大まかな話だけを聞いて、きっとそれを事実だと思い込むにちがいない。
そして最悪の場合、頑張れよ、などと笑って言うだろう。
「冗談じゃないっ!」
慌てて携帯電話を手に取り、虎徹さんに電話をかけた。
彼のことだから、この部屋を出た後に一度自宅に戻り、それからロイズさんに適当な言い訳でもして昼あたりから出勤しただろう。
時刻はランチタイムを優に過ぎた頃。
これならもう会社にいるだろうし、電話にも気付くだろう。
「………あれ?」
しかし予想に反して、呼び出し音が続くだけでまったく出る気配がない。
一度切り、もう一度かけ直したが彼は出てくれなかった。
「……おかしい」
会社にいるなら恐らく彼の苦手とするデスクワークをしているはずで、いつもなら早々に諦めて携帯電話を弄り出す頃なのに。
どうして着信に気付かないのだろうか。
「……まさか…無視している…?」
もしかして、もう最悪の事態になってしまっているのか。
だとしたら彼が電話に出ないのも頷ける。
「そんなっ…冗談でしょう、虎徹さん……」
絶望的な現実に僕は全身の力が抜けて、膝から崩れるようにして座り込んだ。






「ふぅ……やっと終わったー!」
山積みになっていた書類は、きれいさっぱりなくなった。
もちろん不得意なデスクワークだっただけに、予想通り定時には終わらなかったけど。
これまた珍しく経理のおばちゃんがちょびっとだけ手伝ってくれたが、定時になったらあっさり帰っちまった。
しかし帰り際にまたコーヒーを淹れてくれたのは驚いたな。
なんか今日はやさしかった気がするし。
ってか、あれか。
仕事を真面目にしたらいつもやさしくしてくれるのかも。
「じゃあこれからはもう少し真面目に仕事すっか、なんてな……へへっ」
ちいさく笑ってから、両腕を上げて背筋をぐっと伸ばす。
慣れないことすると体が疲れちまうな。
でも無事終わらせることができてよかったぜ。
「これでバニーも喜んでくれっかなぁ。それとも、いつもこうだといいのに、なんて笑うかな?」
どっちにしても、バニーの役に立てたならそれでいいや。
もしかしたらこれから先、こんなのが増えるかもしれねぇしな。
「……アイツ、今頃なにしてんだろ」
今日はヒーロー要請もなかったから、結局話を聞くどころか、顔を合わせることもなかったな。
まぁ、今バニーに会ったところで気まずいだけなんだけどさ。
「なに言ったらいいか、わかんねぇし……」
これはこれでよかったのかも、と苦笑して俺は帰り支度を始めた。
そうだ、ロックバイソンとファイアーエンブレムには色々話聞いてもらったし、報告しといた方がいいよな。
そう思って携帯電話を取り出すと、着信履歴が数件あった。
「全然気付かなかった……」
それだけ仕事に夢中だったってことか?
いや、夢中って言うよりも必死だったって言う方が正しいか。
「あ…バニーからも電話かかってきてる……」
時間はだいぶ前だが、二件着信履歴が残ってた。
もしかして、あの記事の話でもあったのかな。
「騙していてすみません、とか…?」
彼女のことがバレちまって、後ろめたくなったのかな。
こんなおじさん相手でも。
「律儀なやつだなぁ……」
そんなこと、気にしなくてもいいのに。
むしろ、余計に惨めな気持ちになっちまうっての。
俺はかけ直すべきかしばらく迷ったが、なんとなく話の内容が想像できたから止めた。
今はまだ、笑って応援できる気がしねぇし。
他の着信履歴を見ると、ロックバイソンとファイアーエンブレムからだった。
「ははっ…、これは慰めの電話か?」
どこまでも面倒見のいいやつらだ。
どうせ慰めてもらうなら、酒を飲みながらがいいよな。
そう思って、俺はファイアーエンブレムの方に電話をした。
「……あ、もしもし?ファイアーエンブレム?」
『やっとかけ直してきたわね、あんた』
ちょっぴり不機嫌そうな声に苦笑しながら、電気を消してヒーロー事業部を出る。
時間が時間なだけに、廊下には人気がなかった。
「悪い悪い、残って仕事しててさぁ。書類の山を一人でばーっと終わらせてたんだよ」
『どうせあんたの壊したビルとかの始末書とかなんでしょ?』
電話越しにファイアーエンブレムが笑って、俺はムッと下唇を突き出す。
どうせ、正義の壊し屋ですよーっと。
「そんなことよりさ、お前これから暇?飲みに行かねぇ?もちろん、お前の奢りで!」
『いいわよ。……聞きたいこともあるし』
ファイアーエンブレムの声のトーンが急に下がる。
やっぱ慰めの電話だったのな。
ロビーまで下りて入社口を通り抜けると、警備員のお兄さんに片手で挨拶して会社を出た。
『場所は前と同じでいいかしら?』
「おう!…あ、ロックバイソンも誘っていいか?」
『……牛ちゃんにはアタシから連絡しておくわ』
なんだ、今の間は。
アイツなんかあったのか?
まぁ、べつにいいか。
「頼むわ。んじゃ、今から店に行くからな!」
『えぇ。アタシもすぐに行くけど、先に飲んでてもいいわよ。じゃあ、また後でね』
電話を切ると、俺はあの店まで歩いて行くことにした。
バニーへの気持ちを封印するために、震える指で想いを綴った未送信メールを打ちながら。






あれからどれだけの時間が経ったのか。
気付けば外はすっかり陽が沈み、暗くなっていた。
まるで僕の気持ちのようだと思って、だけどすぐにバカバカしい考えだと自嘲する。
すると不意に、沈んだ思考を邪魔するように部屋の呼び鈴が鳴った。
「……こてつ、さん…?」
そんなまさかと頭では思いながらも微かな希望を抱いてその場から飛び上がり、確認もせずに逸る気持ちで部屋のドアを開けると、そこに立っていたのは愛しい人ではなく、その親友でありヒーロー仲間でもあるロックバイソンさんだった。
内心肩を落としながら、それでも愛想笑いを浮かべる。
「あの、どうし……っ!?」
だがロックバイソンさんは突然、なんの予告もなしに鳩尾へ思い切り拳をぶつけてきた。
それに驚きながらも僕はなんとか踏みとどまり、痛みを堪えつつロックバイソンさんを見ると、いつもに増して険しい表情をして立っていた。
「顔を殴らなかったのは、わずかに残った良心だ」
たしかに、顔出しヒーローが頬を腫らして表舞台に立つというのは世間的にもよろしくない。
しかし、なぜ僕がこの人に殴られなければならないのか。
その疑問の答えは尋ねるまでもなく、すぐに返ってきた。
「俺はな…虎徹がまた新たな幸せになれるなら、それでいいと思ってた。たとえその相手が男だとしても、だ。アイツ自身が選んだ道なら、俺だって口を挟むつもりはなかったんだ。だけどな、そんなアイツの気持ちを裏切った」
その言葉に、僕はぐっと息を呑む。
そうか、この人もあのゴシップ記事を見たということか。
「お前はモテるし、こんなのは珍しいことじゃないだろうけどな」
「……あんなのは真実じゃありません。僕には身に覚えのない話だ」
実際、あの記事は捏造されたもので、事実とは到底呼べないような代物だ。
それはこの人も気付いているんじゃないのか?
「あれが事実かどうかなんてのは関係ねぇ。問題は、恋心を自覚したアイツを裏切ったってことだ」
「……え、?」
「虎徹はお前が好きだと気付いたんだ。嫁さんを失って、もう恋をすることはないだろうと……だけど自分の中に芽生えた恋心に気付いてしまったアイツの気持ちが、わかるか?娘のいる四十路を前にした男やもめの気持ちが」
ちょっと待ってくれ。
この人は今、なんと言った?
虎徹さんが僕を好きだと、そう言ったのか?
「そんな……虎徹さんが、僕を…?」
「あぁ。だがアイツは今頃、失恋気分だろうよ。お前に騙されたんだと思ってな」
「僕は騙してなんかいませんっ!」
虎徹さんのことを騙すだなんて、そんな愚かなことをするはずがない。
僕は彼のことを心から愛しているというのに!
「……それで、虎徹さんは…?」
「恐らくファイアーエンブレムに酒でも奢ってもらってるんじゃないか?」
「場所はっ!?」
さぁな。
彼に会って、無実を証明して、この人が言ったことが本当かどうか訊ねたい!
「さぁな。……じゃあ、俺の用事はそれだけだ。邪魔したな」
それだけ言い残すと、ロックバイソンさんはさっさと部屋を出て行ってしまった。
虎徹さんに会いたい。
いや、虎徹さんに会わなければ!
僕は数秒ほど立ち尽くした後、慌ててジャケットと携帯電話を掴んで部屋を飛び出した。



 And that's all...?





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