[育むもの]

「苗字一族長の娘、名無しで御座います。不束者ですが、どうぞよろしくお願い致します」

そう言いながら頭を下げる女は、昨日自分の妻となった女だ。
今回の結婚は、いわゆる政略結婚というものだ。
兄者と姉上の時とは違い、今まで会った事も無ければ、話をしたのも縁談の時が初めて。
自分としてはこのまま嫁を取る気など微塵もなかったが、上役達や周りの者達に半ば強引に押し進められる様な形で縁談を組まされ、今に至った。
断る事も出来たが、苗字一族の持つ封印・呪印術を欲している上役達はどうしてもこの縁談を成功させたかったのか、殆ど己の意志など汲まれる事は無かった。
女は既に自分なりに覚悟を決めているのか、表情一つ変えずそう言った。

***

「扉間様、お茶をお持ちしました」

「あぁ」

手際良く湯呑に茶を注ぎ、邪魔にならぬ場所に置きそのまま会釈をし部屋を出て行く。
まるで女中の様な振舞いをする名無しに対し、特に何かを思う事は無い。

形だけの結婚だ。
自分としては手の掛からない方が扱い易く楽で良い。
例え愛が無かろうとも子は成せるし、それに対してどうこう言うつもりも無い。
それに、名無しが自分に対し何を思っているのか興味も無い。
無関心と言われればそうだが、政略結婚など所詮こんなものだ。

「…雨か」

用意された茶を啜りながら立ち上がり窓の外に視線を向ければ、薄暗い雲が空全体に広がっていた。
時折、雲の合間から見える稲光が近い内に来るであろう嵐を予感させる。

***

「っ…ぁ、んっ…」

初夜を含め、まだ数える程しか経験していないからか、未だ情事に慣れる事は無く、ぎこちなさを感じる。
極力優しくはしているつもりだが、それでも多少は痛みを伴うのか、遠慮がちに腕を掴まれる。
それでもゆっくりと身体を動かせば、少しずつだが声に艶が出て来る。

名無しは何を思って自分に抱かれているのだろうか。
愛してもいない男との、ただ子を成す為だけの行為が女にとって幸せである筈が無い。
一族長の娘と言う立場上、こう言った結婚も覚悟の上だったのか、相変わらず名無しが何かを言う訳でも無かった。
そう思ったら何も言わず、ただ黙って自分に抱かれるだけの名無しを心底不憫に思った。

***

千手に嫁ぎ、もう随分と時が経った。
それでも、相変わらずあの瞳が自分に向けられる事は無く、ただ形だけの夫婦が続いていた。
扉間様が私を愛する事は無い。
だから、私が扉間様を愛する事は決してあってはならない。
一方的な愛など、ただの重荷にしかならないのだから。
そんな重荷を扉間様に背負わせる訳にはいかない。

「…お前も一人?」

どこからか迷い込んだのか、庭の隅に白い毛並みの子猫が一匹。
親猫とはぐれてしまったのだろうか。
弱々しく、か細い声でまるで自分の居場所を知らせるかの様に泣いていた。
その姿を見ていたら、何故だか目頭が熱くなった。

本当は自分もこんな風に気付いて貰えるよう、声を上げて泣きたい。
少しだけでも良い。
自分にその瞳を向けて欲しい。
いつも近くに居るのに、心は寂しさばかりが募り、どんどん積み重なって行くばかり。

(寂しい…)

それでも、この言葉を声に出す事が許される事は無い。
そんな事をぼんやりと考えていたら、ふと遠い昔に一度だけ見た、扉間様の笑った顔が頭に浮かんだ。
扉間様とは柱間様とミト様との婚礼の時に一度だけお会いした事があった。
勿論、話などしておらず他人伝いでの紹介だったが、紹介された時の凛とした姿が印象的で、その時に初めて扉間様の事を知った。

ただ憧れの様なものだった。
千手一族の中でも屈指の実力を誇り、柱間様の右腕として多くの戦場に出て功績を上げていた。
そんな扉間様は自分にとってまるで雲の上の存在の様な人だった。
だから、縁談の話が来た時は、自分の耳を疑ってしまった程だ。

(ただ、お傍に置いて下さるだけで十分。それ以上を望む事などしてはいけない)

そう自分に言い聞かせ、泣き続けている子猫の喉を優しく撫でれば、また少し目頭が熱くなった。

***

「扉間、さま…っ」

名前を呼んでしまった。

今までずっと気を付けていたのに、つい無意識の内に出てしまい、言い終わった後に後悔の念が押し寄せた。
扉間様にとってのこの行為は、ただ子を成す為だけのものであって、自分はその器になるだけの女。
そんな自分がまるで、もっと求めるかの様に彼の名前を呼んでしまった。
決して呼んではいけない名前なのに。
そう思ったら急に瞳が潤んで涙が零れ落ちそうになった。
慌てて気付かれぬ様に手で覆う様に隠すが、そんな自分の行動に扉間様が気付かぬ筈も無く、ゆっくりと動きが止まる。
少しの沈黙の後、先に口を開いたのは扉間様の方だった。

「…ワシに抱かれるのは泣く程嫌か?」

「な…っ、違います!違うんです…。嫌なんかじゃありませんっ…。だから、どうかこのまま続けて下さい…」

小さく放たれたその言葉と少し悲しげな表情に一瞬で心臓が鷲掴みにされる様な感覚を覚える。
自分の取った行動が扉間様を傷付けてしまったのだ。
嫌な訳じゃない。
ただ、自分の心の弱さが出てしまっただけ。
扉間様は何も悪くない。
そう返せば、その言葉に何を言う訳でもなく、またゆるやかに動きは再開された。

***

息を整え、近くにある自身の衣服を手繰り寄せようと身体を起こせば、同じ様に隣で横になっていた扉間様に腕を掴まれた。
いつもなら、このまま身なりを整え、隣に敷いてある寝床へと移る。
しかし、今は無言のまま腕を掴まれている為、動く事も出来ず、正直どうしたら良いのか分からない。
そんな自分の困惑した様子に気付いたのか、そのまま腕を引かれ、先程と同じく扉間様の隣に横になる様に寝かされる。

「あ、あの…」

「このまま向こうを向け」

言われた通り、扉間様に背を向ける様な形で横になる。
いつもとは違う流れに困惑しつつもその言葉に従い、大人しくそのまま待っていれば、ふわりと自分の身体に布団が掛けられた。
そんな扉間様の行動に慌てて身体を起こそうとしたが、それはいとも簡単に阻止され、再び布団の中へと戻される。
あまりの予想外な行動に無意識に身体が硬くなる。
しかも、何も話されないから、余計にどうしたら良いのか分からず混乱してしまう。
意味も無く、ただ早くなる心臓を落ち付けようと深く呼吸するが、中々思う様には行かなかった。

「…そっちを向いたままで良い。お前と話がしたい」

「え、」

そう言いながら、こちらに身体の向きを変えたのだろう。
背中越しに扉間様の視線を感じる事が出来る。
いつもの扉間様とは違う態度に少しだけ不安になる。
それに、こちらを見つめるだけで何も話されないから、より一層不安だけがどんどん募って行く。
沈黙に耐え切れず小さく名前を呼べば、ようやく話して下さる気になったのか、心地良い声が耳に響いた。

「ワシに抱かれるのが嫌ではないと言うのなら、何故あの時に泣いた?」

その言葉に心臓が大きく跳ねた。
正直、何と返せば良いのか分からない。
扉間様に抱かれるのが嫌な訳がない。
例えそこに愛は無くとも、自分を気遣う様に抱いて下さるし、優しく触れる手はとても温かい。

ただ、あの時は扉間様の名前を呼んでしまった事の後悔や罪悪感をどうする事も出来ないまま、自分の弱さだけが表に出てしまった。
駄目だと分かっていた筈なのに名前を呼んでしまった。
そんな自分の不甲斐無さや寂しさが入り混じり、どうする事も出来なかった。

「…名前を…、扉間様の名前を呼んでしまいました」

小さく、申し訳なさそうに言う名無しの言葉の意味が分からず、何も言わずその後ろ姿を見つめる。
自分の名前を呼んだ事が何故、あの涙に繋がるのか。
名無しの心意が分からぬ以上、自分はどうする事も出来ない。
それから、まるで言葉を選ぶ様に相変わらず小さな声で話し始めた。

「…私は、ただ扉間様のお傍に置いて下さるだけで良いのです。自分が子を成す為だけの器であると言う事も、それ以上を望んではいけないと言う事も、
全部分かっていた筈なのに、それ以上を求めてしまいました…。そして、その気持ちが扉間様の重荷になってしまうのかと思ったら、そんな自分が不甲斐なくて…」

そう話しながら小さく鼻を啜る音が聞こえ、泣いているのだとすぐに気付く。
名無しの思ってもいなかった自分に対する想いを聞き、一瞬言葉が出て来なかった。
出会ってから今まで、そんな素振りを見せた事も無かったし、ましてやそんなにも思い詰めていたなんて気付かなかった。
それよりも、名無しが自分をそんなにも慕ってくれていた事に一番驚いた。

確かに最初はただ子を成す為だけの結婚だったが、日が経つにつれて少しずつ名無しに対する情も生まれて行った。
抱く時も自分本位のものにはしたくないし、極力優しく触れていたつもりだった。
それでも、名無しは自分を「子を成す為だけの器」と言った。
その言葉を聞いた時、名無しにそんな風に思わせてしまっていた自分に対して情けなさと、どこにぶつけて良いのか分からない怒りが込み上げて来た。

「…お前をそこまで追い詰めていたとはな。すまない」

「あ、謝らないで下さい…っ!。私が勝手にお慕いしているだけで、扉間様は何も悪くありません。だから、どうかお気に病まないで下さい…」

自分の言葉に驚いたのか、すぐに身体の向きを変え、真っ直ぐこちらを見つめながらそう言われた。
薄暗い中でも分かる程、真剣な瞳でそう言う名無しのこんな姿を見たのは初めてだった。
今までずっと自分に気付かれぬ様に己を隠し、押し殺して来たのかと思ったら、その健気さが急に愛しくなった。
そのまま腕を引き胸の中に納めれば、小さく驚きの声が聞こえた。
緊張しているのか、身体は強張ったままで、それが少しだけ面白かった。
名無しと夫婦になってからこんな風に抱き締めた事も無ければ、互いの心の内を話した事も無かった。
だから今回、偶然でも名無しの本心を聞けて良かったと思う。

「…自分の想いを押し殺すな。それと、お前はもう少しワシに対して我儘になるべきだな」

「我儘に、ですか…?」

「そうだ」

自分のその言葉に少し考えた後、胸元に顔を埋めたまま小さく声が聞こえた。
意識を集中させ、その声に耳を傾ければ「我儘」とは言い難い様な言葉が耳に入った。

「少しだけ…、少しだけでも良いので、扉間様に、愛して欲しいです…」

そう小さく今にも泣き出してしまいそうな声で言うものだから、つい無意識に口元が緩む。
もっと欲張っても良いと思うが、それを名無しに言ったところで、すぐには無理だろう。
抱き締めたまま「お安い御用だ」と言えば、また少し鼻を啜る音が聞こえた。

自分達の結婚は愛のあるものでは無かった。
それでも、今回の件で自分達の関係は少しだけ変わったし、これから先も変わって行くだろう。
時間はまだまだたくさんある。
子が生まれるのが先か、自分達が変わるのが先かは分からないが、もう名無しに涙を流させる様な事はしない。
そう思ってしまう自分はもう既に、名無しの我儘を聞いてしまっているのかもしれない。

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