20140919


ふと、気になった。

「そういえばさー、あなたの名前聞いてないよねー」

はぁ?とこちらを振り向く淫魔の顔は、欠片も予想していなかった問いかけに素直に驚いたという表情だった。
何を言ってるんだこいつは、という思考を隠しもしない淫魔に、あれ私ってばそんなに変な事を言ったのかなと戸惑いが生じる。

「名前っていうか、まあ、呼び名っていうかさぁ……そういうの、聞いてないよね?」
「あ? 名前なんて知らなくても問題ねぇだろうが。ここには俺とお前しかいねぇんだぜ」

まあ、そりゃそうだ。いつだって、この不思議な空間で思う存分この淫魔に抱かれて、それで終わりなのだから。
お前、あんた、貴様、あなた、雌犬……いや雌犬・雌豚・雌猫等の雌シリーズは決して許容してはいないのだけれど。
まあとにかく、お互いに個人名など呼び合わなくても、確かにこれといって問題はなかった。
おまけに基本的にゼロ距離なのだから、呼びかけて注意を引く必要もない。
「そうなんだけどさー……」
それでも、それでは足りないと思ったのだ。ということを、何と言えばこの淫魔に上手く伝えられるだろうと言葉を探す。
例えば実家の猫にだって、小学生の頃教室で飼っていた亀にだって、駅前の置物にだって、名前があるのだ。
二十数年そんな環境で暮らしていれば、それが仮にただの記号だとしても、名前があるということに慣れてしまっているのだ。
まして、こんな風に抱かれている相手の名前くらい、知りたいと思ってもおかしくは無いだろう。

「……それに、最中とか、ちょっとした時とか、呼びたい時があるし」

恋人同士だったらきっと、好きだとか愛してるとか、名前を呼ぶような……そういう瞬間に、言える関係も呼べる名前も持っていないのは、地味に苦痛だ。
なんてことを自分から言っておいて、恥ずかしさと気まずさに襲われるのだから情けない。
居たたまれなくなって顔を落としていると、暫くの沈黙の後にふぅと溜め息が聞こえた。

「……馬鹿か」

ああやっぱり。
はいはいそうですね、馬鹿でした。ただの餌の分際で、過ぎた事を言いましたものね。
決して傷付いてなんていないけれど、へこんだと思われるのは嫌なので精一杯の憎まれ口を叩こうとしたのに。続いた言葉が予想外過ぎて、口を開くことはできなかった。

「やれやれ、人間ってのは面倒くせぇな。そんなに呼びたきゃ、お前の好きに呼べばいいだろ」

てっきり笑い飛ばされるか馬鹿にされて終わるのだと思っていたから、純粋に驚いた。
けれど、その沈黙を別の意味に受け取ったらしく、なおも淫魔は言葉を続ける。
少しばかり、早口な気がするのは、気のせいだろうか。焦っているみたいだなんて、気のせいだろうか。

「仕方ねぇだろ。生憎、人間用の名前は持っていないからな……だからそう、不満そうな顔をするなよ。
 ……あー、うぜぇ。人間風情が魔物の名を呼べば、気が狂うことくらい察しろよ頭悪りぃな」

前言撤回。最後に舌打ちを入れてくるところとか、見下した口調だとか、至って平常運転だ。
けれどまあ、こういう魔物だと慣れてしまった今では、その平常運転が心地いい。

「……おい、気持ち悪りぃぞ。何でそんなににやけてんだ」


  ***


「えへへ、じゃあなんて呼ぼうかなー。ここは定番の太郎かなぁ? ねえ、どう? 太郎くん?」
「……別に好きにすりゃいいだろ。だが……まあせいぜい、俺様が『お前の理想の姿』だってことを忘れないようにしろよ」

ふんと笑う顔は、確かに私の理想の男性そのものだった。非の打ち所も無く、全てがドストライクでとても格好いい。
本当に、性格と言動さえ無ければ理想通りなのだ。見た目だけなら、今まで付き合った誰よりも好みだ。ただし、口を開くと途端に理想からはみ出るのだけれど。
とにかくそんな無条件で格好いい顔で、適当な名前でいいのかなー?とにやにや見つめられると、さすがに気まずい。

「うっ。そ、そうね。どうせ呼ぶのならもうちょっと『らしい』名前の方がいいかもね」

思わずそうは言ってみたものの。実際のところ、名前なんてそうすぐに思いつくものではない。
まして、未来への願いを込めての名付けではないのだ。これ以上無く出来上がっている、淫魔への呼び名といえば、一体何が相応しいのか。
髪の色にちなむのか、目の色か、はたまた内面の印象か……って、意地悪でわがままで偉そうな印象しか無いのだけれど。

そうやってうーんと頭を抱える私を、見つめる淫魔は静かだった。
その目に浮かぶ感情までは、私にはわからなかったけれど。



  


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