ひより | ナノ
秋風がふわりと頬を撫でる。店の名前が入った藍色の暖簾を軒先にかけて空を見上げると雲一つない真っ青な空が広がっていた。
「今日も一日頑張りますか」
定食屋『日和』開店です。
カラカラ。古びた木製の引き戸がスライドする音が店内に響き渡る。来客を知らせる音に、すぐに作業していた手を止めてお客さんににこりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ!」
ここは木ノ葉の大通りから一本外れた路地にある小さな定食屋『日和』。店内はカウンターとテーブル席合わせても20人も入らないような小さなお店だけど、店主である父の絶品料理を売りに知る人ぞ知る隠れ店として常連さんに愛されながら細々と経営しており、私は一応店の看板娘として接客や料理の一部を任されている。
決して裕福な生活ではないけれど、大好きな父や常連さんに囲まれて幸せな日々を送っている。
一番忙しい昼時を過ぎた頃には店内は穏やかな時間を取り戻し始めていた。
「ひよりちゃん、ビール追加ー」
「もう、昼間から飲みすぎないで下さいね」
「ひよりちゃん今日も可愛いね」
「あはは、ありがとうございます」
この昼間から飲んだくれている人は店でも仕入れている魚屋さんのウミさん。さらりとお世辞を言ってくれるのは同じく店の仕入れでお世話になっている八百屋のヤマさん。二人ともこの店の常連客で昔から実の娘のように可愛がってくれている。それはとても有り難いのだけど、二人はしょっちゅう店に来ては真昼間からお酒を飲んでいる。「店は息子に任せてあるから大丈夫」だと言い張っているけど、そういう問題ではない。
いつもの調子にやれやれと肩をすくめていると、カラカラと戸が開く音がした。反射的に入口に視線を向けると、見知った常連客の姿に自然と顔が綻ぶ。
「アスマさん、紅さん!こんにちは!」
「ようひより」
「こんにちは、ひよりちゃん」
アスマさんは以前からよく来てくれている里の忍の常連さんで、紅さんはとっても美人なアスマさんの彼女さん。お二人ともとてもいい方で顔を合わせているうちによく喋るようになった。
「お二人とも相変わらず仲が良くて羨ましいです」
「なんだひより、お前好きな男もいないのか」
「今の私に恋愛している余裕なんてありませんよ。私にはこのお店とお客さんがいて下されば十分です!」
「色気ねぇな。そんなんじゃ一生男できねえぞ」
「放っておいて下さい」
アスマさんとこうして軽口を叩き合うのもいつものことなので気にしない。
それにお客さんの中には有り難いことに私のことを気に入ってくださって、食事に誘ってくださったことも何度かある。けど私はその度に仕事があるのでと断ってきた。仕事があったのは本当だし、今は恋愛をする気はなくてお店のことを優先してしたいと考えている。今の私には、父とこの店とお客さんが何よりも大切なのだ。
けれど、アスマさんと紅さんを見ていると恋愛っていいなーと思う。お互いを大切に想い合っていて、見ているこっちまで幸せな気持ちになる。
いつか私にも、そんな風に想い合える人が現れるんだろうか。
それから数日後、アスマさんはまた店にやって来た。
「こんにちは!今日はおひとりですか?」
「いや、今日は連れがいるんだ」
誰だろう?と思いながらアスマさんの視線を追いかけて入口に目をやると、やや遅れて店に入ってきたその人物に私は思わず声をあげた。
「あ!この前の……!」
アスマさんの連れの方は、この前私が道端で野菜をひっくり返した時に拾うのに手を貸してくださった人だった。
顔の半分を覆う覆面と左目を隠すように斜めにつけた額当ての怪しさに初めは慄いたけど、大勢の人が素通りする中、これから仕事だというのにわざわざ手を貸してくれた優しい人。あの時はお礼をしたいと申し入れて断られてしまったけど、まさか偶然とはいえうちの店に来てくださるなんて。
偶然の再会に感動してしまったけど、そもそも向こうは私のことなんて覚えてないかもしれない。いきなり大声出して何こいつって思われてるかも……。
「この前はどーも。ここのお店の娘だったんだね」
そんな私の不安を打ち消すように、恩人さんはあの日と同じようににっこりと笑った。よかった、覚えてくれてた。
「先日はありがとうございました」
「あの後落とさなかった?」
「おかげさまで」
「なんだひより、カカシと知り合いだったのか」
恩人さん……もとい、カカシさんの隣りで成り行きを見守っていたアスマさんが不思議そうに尋ねてくる。二人を空いている席に案内しながら私はアスマさんにこの前のできごとをお話した。
「へー、カカシが人助けねえ」
「何よその顔。オレだって困ってる人を放っておける程冷酷な人間じゃないよ」
「そうですよ、アスマさん。カカシさんに失礼ですよ」
「……ひより、以前から思ってたがオレに対しての当たり強くないか?」
「アスマさんが意地悪ばっかり言うからですよ」
「……」
笑顔で言い切ると、アスマさんは返す言葉もないという表情で黙ってしまう。その様子を見ていたカカシさんはクスクスと笑った。
「二人は随分仲がいいんだね」
「アスマさんはウチの常連なんですよ」
「看板娘はこんなんだが、この店の料理は絶品だからな」
「こんなんで悪かったですね。アスマさんにはもうサービスしてあげません」
「ひより、オレが悪かった」
アスマさんは見るからに狼狽えていた。……偶然とはいえカカシさん連れてきて下さったし、今日のところはゆるしてあげよう。
「お待たせ致しました」
アスマさんは生姜焼き定食、カカシさんはこの時期旬の秋刀魚の塩焼き定食をそれぞれ並べて、ごゆっくりどうぞ、と笑って席を離れた。
カウンターで洗い終わった食器を拭きながら、カカシさん達のいるテーブルを窺うと驚くべき光景が飛び込んできた。
カカシさんがもう食べ終えている!
席を離れてから数分しか経っていないのにどうして、何があったの?
うちの定食には、主菜となる肉か魚料理以外に、白飯、汁物、小鉢が二種とお新香がついてくる上、それなりにボリュームもあるから数分で食べきれる量じゃない。カカシさん前ではアスマさんが「相変わらず早いな」と突っ込みながら肉を頬張っている。
あの覆面の下はどんなお顔なのか単純に興味があったので、こっそり盗み見るの楽しみだったんだけどな。残念に思っていると、私の視線に気づいたカカシさんの目が柔らかな曲線を描く。
「ご馳走さま」
「お口に合いましたか?」
「うん。どれも美味しかったよ」
「それならよかったです」
結局、あの後もカカシさんが覆面を外すことはなかった。
アスマさん達が席を立ったのを見計らってレジへと向かう。
「カカシさん、この前はきちんとお礼ができなかったので、あの時のお礼に今日はご馳走させてください」
「え、気にしなくていいのに」
「店主もそうしろと言ってますので」
カカシさんがカウンターにいる父を見ると、視線に気づいた父が一つ大きく頷く。
「ならお言葉に甘えてご馳走になろうかな」
「はい!」
「ひよりオレは?」
そう尋ねたアスマさんに、父が間髪入れずに「アスマ、お前は金払えよ」と言い放った。
最後にまた「ご馳走さま」と言い残して、背中を向ける二人を見送った。
カカシさんにあの時のお礼が言えてよかった。同じ里にいるとはいえ、私は店に籠りがちだから、この機会がなかったら二度と会うことはなかったかもしれない。そしてカカシさんがこの店を出てしまえば、客と店員ですらなくなってしまう。やっと出会えたのにこれで終わりだと思うと、急に寂しくなった。
「カカシさん!」
気づけばその丸まった背中に向かって声をかけていた。歩みを止めたカカシさんがゆっくり振り返る。
「あ、えと、あの……」
思わず呼び止めてしまったけど、その後のことを考えていなかった。引き留めてしまった以上何か言わなくては。
「えーと……」
「ひよりちゃん」
何て言おうか言葉を選んでいると、カカシさんに名前を呼ばれた。驚いて顔を上げるとカカシさんが穏やかな笑みを浮かべていて、思わず見惚れてしまう。
「また来てもいい?」
「はい!お待ちしてます!」
遠くでアスマさんの呼ぶ声がして、カカシさんが表通りの方へと向かって行く背中を、見えなくなるまで見ていた。
店内に戻ってアスマさん達の食器を片付けていると、あることに気づいた。カカシさんが食べた秋刀魚の塩焼きが骨だけが標本みたいに綺麗に残っていて、身は余すことなく食べつくされているのだ。食べている様子は全然わからなかったけれど、喜んで貰えたと思っていいんだろうか。
『また来てもいい?』
社交辞令で言ってくれただけかもしれない。けれど、私を喜ばせるには十分すぎる言葉だった。次はいつ来てくれるだろう。カカシさんが来る日を待ち遠しく思いながらきれいになった食器を片づけた。
まだ鼓動を知らない
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