ひより | ナノ

恋をしたら、アスマさんや紅さんみたいな、お互いを想い合えるような素敵な恋ができると思っていた。けれど、現実に待ち受けていたのは、苦しくて喉の奥が焼きつくような、苦い恋だった――




「ひよりちゃん注文いい?」
「生姜焼き定食ですね。かしこまりました」
「ひよりちゃーんこっちもー」
「はーい、今行きます」
「ひよりちゃーん」
「いつものですね。すぐ持ちします」

定食屋『日和』はお昼のピークを迎えている。満席になってもお客さんは20人と満たない小さなこの店も、父と二人で切り盛りしている為ピーク時はいつもてんやわんやだ。でも、今の私には気が紛れて丁度いい。暇な時間があると余計なことを考えてしまうから。

あの日、カカシさんに別れを告げられてから、どうやって帰って来たのかは覚えていない。帰宅して部屋に直行し、そのまま布団に潜った。カカシさんの言葉を思い出すと涙がぽろぽろ零れて布団に顔を押し付けてたくさん泣いて、夜が明ける頃には涙はすっかり枯れていた。

父はあの日の夜については何も触れてこなかった。流石に翌朝は目の腫れが酷くて心配されたけど、何事もなかったかのように振舞ってくれている。勘のいい人だから何があったかは察しているかもしれないけど、何も聞かない優しさに甘えている。




お昼の忙しい時間を過ぎた頃、いつもならカカシさんが訪れる時間。カウンターの一番奥、この時間帯はカカシさん専用だという暗黙の了解のようなものができているその席はまだ空席だった。
ぼーっと空席を見ている私に気付いた常連さんが気遣わしげに声をかけてくる。

「カカシさん、今日は来るといいね」
「……そうですね」

あれから一週間以上が経とうとしているけど、カカシさんは店に来ていない。この店に通い始めてからこんなに長く店を訪れないのは初めてだ。以前私の護衛をする為に強引に休みをとったせいで任務が立て込んで来られなかったというのはあったけれど、今回の原因は間違いなく私だ。

数日はカカシさんに別れを告げられた事実が受け入れられなくて、きっとなにかの間違いで、また来てくれるんじゃないかと心のどこかで期待していた。けれどカカシさんはいつになっても来なくて、日が経つにつれてあの言葉は本気だったのだと、ずしりと胸に重くのしかかる。


食器を片付けている最中うっかり手を滑らせてしまい「落ちる!」と思った時にはけたたましい音が店内に響き渡っていた。

「し、失礼しました!」

慌てて食器の破片を拾おうとしてチクりと指に刺すような痛みが走る。破片で指を切ってしまったらしい。赤い筋がぷっくりと浮き出ている。

「ひより、大丈夫か?……ひより?」

その場で蹲る私に心配そうに声をかけてきた父が深く息を吐き出す。

「泣くほど痛いなら我慢するな」

それは傷のことを指しているのか、それとも他のことを指しているのか。

今まで堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。
傷ついた指はちっとも痛くないのに、胸が締め付けられるように痛い。

浮き上がる鮮血に、血塗られた手を思い出した。

私はあの夜、カカシさんのことを恐ろしいと思い、差し出された手を拒んでしまった。
初めて会った日、繁華街に行く途中の森、トウヤさんに襲われそうになった時、これまであの優しい手は何度も私を助けてくれたのに、なんて最低なことをしてしまったんだろう。

忍の人達が体を張って守ってくれているから平穏な暮らしがある。
平穏な暮らしの裏で、手を汚している人達がいる。

わかっていたはずなのに、私は何一つわかっていなかった。

そのせいでカカシさんを傷つけた。

後悔してももう遅い。

店員と客という関係ではなくなり拒絶された今、もう会うことすらできないのだから。













任務報告を終えるとまた次の任務を言い渡された。次の任務まで少し時間がある。食いっぱぐれていた遅い昼飯くらいはとれそうだ。といってものんびりしている時間はない為、アカデミーから近い立ち食い蕎麦屋で済ませることにした。

ニシン蕎麦を注文すると数分もしないうちに注文の品が出てくる。流石は早さが売りの立ち食い屋だ。その早さから客のほとんどは忍連中で、時間はないが飯は食いたいという連中は手っ取り早く此処ですませる者も多い。かく言うオレも『日和』へ通う前はよく訪れていた。
あの頃は食事なんて義務のように考えていて、誰かと食事をして同じペースで同じものを食べて美味しさを共有し合う喜びなんて知らなかった。それを全部教えてくれたのは彼女だったな。

久しぶりに食べるニシン蕎麦は、なんだか味気なく感じた。

ふわりと紫煙が香ったとのと、隣に影が落ちたのはほぼ同時だった。

「とろろ蕎麦一つ」
「あいよ」

そいつは店主と短く会話を交わすと、この店が禁煙だったことに気付いたのか携帯灰皿に煙草を押し付けた。

「お前がここに来るなんて珍しいな」
「ま、たまにはね」
「最近はずっと『日和』に入り浸ってただろ?今日はいいのか」
「……もうあの店には行かないよ。あの子にも会わない」
「なんだ、喧嘩か?」

アスマが不思議そうな顔を向ける。

「そんなんじゃない。……ただ、オレはあの子の側にいるべきじゃない」



オレの大切な人は皆いなくなってしまった。もう誰も失いたくない。失うくらいならば二度と大切な人は作らないと決めた。

そんな冷え切った心に光が射した。彼女の傍は陽だまりのように温かくて、オレの凍てついた心を溶かしていった。

できるならずっとこの穏やかな日々を望みたい。でもオレはそれを望んでいい人間じゃない。

かたや忍とかたや一般人。
オレと一緒にいたらいつか彼女が傷つく。そうなる前に離れなければ。

今ならまだ戻れると考えていた矢先、彼女が店の若い常連客に襲われた。彼女が襲われているのを見た時、自分の中で抗えないくらい彼女の存在が大きくなっているのがわかってしまった。彼女の笑顔を自分だけに向けさせたい。

けれど任務帰りの夜、血塗られた自分の姿に怯える彼女を見て、オレと彼女では生きる世界が違うことを痛感した。

オレと一緒にいては彼女は幸せにはなれない。

結果、彼女を冷たく突き放した。

『だいたい君はオレの何なわけ?』

吐き出した言葉は自分に突き刺さった。オレは彼女の恋人でもなければ、友人でもない。所詮ただの客と店員。この程度の言葉で容易く切れてしまう脆い関係だ。同じ里で暮らしているとはいえ、こっちが意識すれば彼女と会うことは二度とないだろう。



「アスマ、時々でいい。あの子を守ってやってくれ」
「カカシ……お前……」
「へい!とろろ蕎麦お待ち」

大将がふわっふわのとろろがのった器を置く。アスマが一瞬そっちに目を配ったのを見計らって席を離れる。そろそろ次の任務へ出立の時間だ。

「おい!カカシ!」

店から声を張り上げている友人は、なんだかんだ情に厚い男だ。きっと彼女が困っている時には手を貸してくれるだろう。


見上げた空は雲一つなく晴れているのに、目に映る世界は昔のように色を失っていた。



迷い子、ふたり



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