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疲れ果てて足腰が立たなくなってしまった臨也の着替えを慣れない手つきでどうにか終わらせ、いわゆるお姫様抱っこという抱き方で車まで運んだ。ほとんど身体に力が入らないようで、だらりと手足は重力に従っている。
 家まで送ってやるからと、回らない舌に自宅の住所を喋らせた。滅多に使われることのなかったカーナビに呟かれた住所をセットする。臨也には内緒にこっそれと目的地登録もしておく。
 車を走らせながら臨也をいじめた生徒の名前と具体的にされたことを説明させた。プライドが邪魔をするのかなかなか話したがらないので、このままでは話し終わる前に臨也の家に着いてしまうと少し遠回りをすることとなる。
 ナビが説明した道順と異なった方向へハンドルを切ると、臨也が怯えたようにこちらを見つめたのがわかった。すっかり怖がられてしまったなと苦笑いを浮かべる。家にすぐに着かないことがわかると、諦めたようにぼそぼそと詳細を明かしていく。
 なるほど確かに、臨也が話した通りだと黙っていたら上級生がつけ上がりそうな内容だった。それに臨也の性格的にもやり返さずにはいられなかったのだろう。
「でもよ、手前今回が初めてじゃねえだろ」
 全部話してしまえと続きを催促すると、わかっていたのかというふうな目でこちらを見遣る。その瞳はどこか眠そうで、瞼が落ちてしまいそうになるのを必死に堪えているようだった。それもそうだ、普通の子どもならとっくに寝ているような時間だ。こんな時間まで無理をさせたのだから当然だろう。
 臨也がことの顛末を話し終えるのを黙って横顔で聞いていた。これで幽霊騒動もなくなるだろうと、静雄を苛立たせていた原因が一つ胸から消えて清々しく思う。
 話し終えた途端黙りこくる臨也に、家族はと訊くと、両親は出張中で家を空けていると答えた。双子の妹がいるが、まだ幼いので両親と一緒だとも付け加えられる。短い静雄の問いかけに知りたいことを先回りして告げられ、一本取られたなと乾いた声で笑った。
 つまりこれから向かう折原家は空っぽで、特に小難しい言い訳を考える必要がないということだ。このような年齢の子どもを一人にしていいのかとも思ったが、それは臨也の家庭の問題だろうと口にしなかった。とにかくひとまずは安心だと、臨也にばれぬよう溜飲を下げる。
「もうやめろよ。あとはこっちに任せろ」
 これ以上臨也が手を汚すような事態になるのは避けたかったし、なにより臨也の話を聞く限り、それは嫌がらせとしての度を超えている。歴としたいじめだ。いじめがあることを知って放っておくわけにもいくまい。教師らしくそれを悪化させないように制止をかけた。
「……大人なんて、信じてないよ」
 恨めしそうな顔をして静雄を一瞥する臨也の視線が痛い。やりすぎたことを少しばかり後悔した。正直にそれを伝えるとふいっと窓のほうを向いてしまう。どうやら完全に嫌われてしまったようだ。
 臨也がそういった態度を静雄にとるのは当然のことであったし、全くの自業自得だというのに僅かに心がささくれ立った。
「そういえばよ、どうやって警備のスケジュール把握してたんだよ」
 話を変えようと気にしていない調子を装い数段声のトーンを上げて尋ねる。「ああ、そんなこと」と臨也は窓の枠に肘をついた。この季節でも夜はまだ冷え込む。臨也の息で助手席の窓がじんわりと曇っていく。
「訊いたら答えてくれたよ。お仕事大変ですねって言って」
 ちらりとこちらを振り返り、悪そうな笑顔を見せた。なんて子どもだと嘆息する。
「じゃあ、図書室は」
「あそこって、閉めるの早いでしょ。基本的に放課後の解放もしてないし。俺、常連だからお姉さんに放課後も読みたいなって言ったらこっそり開けといてくれるって」
 きっと司書の若い女性も、母性をくすぐられるようなあざとい笑顔に騙されたのだろう。一体何人の大人が誑かされているのだ、情けないと、自分を棚に上げて眉間に寄った皺を指の腹で押し戻す。
 質問に答え切ると、ふわふわと蝶が羽を閉じるように瞼が下される。とっくに限界だったのだろう、こくこくと舟をこいで眠りに落ちてしまった。
 ナビに住所を設定したので迷う心配もない。着いたら起こしてやるかとそのまま寝かせておくことにする。あれほど警戒していたのに、今は穏やかな寝顔を静雄に晒しているのが少しばかりおかしかった。
 しばらく車を走らせると、ナビが目的地に辿り着いたと機械的に告げた。ナビが示した通りならばこの家で合っているはずだ。
 一目で金持ちの家だとわかるような外観だった。決して派手などではないが、その敷地の広さや夜でもわかるほど整然とした庭は、裕福な家庭を想像させるのには十分だ。
 軽く臨也の肩を揺すって起こしてやると、寝ぼけたような目がこちらを映す。まだ意識がはっきりしないようで、水槽の中の金魚のようにゆらゆらと視線が揺れていた。
 臨也を下さなければとエンジンを止めて助手席に回り込んでドアを開ける。シートベルトを外してやると、ふらつきながらもなんとか自力で地面に降り立った。
 何故だかなかなか家に入ろうとしない臨也を不思議に思い軽く背中を押すと、ぐるっと勢いよくこちらを振り返り小さな手が静雄の両手を包み込む。
「先生、お願い、誰にも言わないで。お願い」
 出口のない迷路に迷い込んでしまったような顔だった。涙が落ちぬようにと必死に目を瞠って、張力でなんとかしずくが零れ落ちるのを耐えているのがよくわかる。
 きっと普段は人の前で泣くような性格ではないのだろう。自分で散々虐めたというのに、守ってやりたいなどと馬鹿げたことが頭に浮かんだ。なんて勝手だろうと思ったが、仕方がなかった。鞠のような頭にぽんと手を乗せる。
「言わねえよ。手前がきちんといい子にしてたらな。ほら、冷えちまうぞ」
 家へ入るのを促すと、ようやくランドセルから鍵を取り出してドアの鍵穴にねじ込んだ。扉を開けてからも何度かこちらを振り返るのが小動物のようだった。軽く手を振ってやると小さく頷いて、静かに扉が閉められる。
 臨也が家に入ったのを確認して、静雄も早く自宅に帰らねばと運転席に乗り込んだ。実際のところ、これが露見して困るのは自分だということは胸に隠してエンジンをかけた。




 翌日、朝一番に臨也の両親から学校に連絡がくるのではないかと内心ひやひやしていたが、取り越し苦労に終わった。
 とんでもないことをしてしまったと自覚したのは臨也と別れてからで、それまでは臨也の存在に気持ちが高揚して正常な判断を大きく欠いていたことを認め猛省した。
 自分自身を全力で殴りたいくらいに教師としてあるまじき行為をしたが、実践体育のようなものだととんでもなく適当な理由をつけて割り切ろうとした自分が情けなくて腹が立つ。
 ごちゃまぜの感情をくしゃくしゃに潰して、罪悪感に向かって思い切り投げつける。そのまま罪悪感が砕けてくれればよかったのだが、残念なことにそれは今も胸の真ん中にずっしりと居座っている。
 校門に立って生徒の登校を見守っていると、元気な挨拶をかけられる。いつもと変わらぬ風景が余計に静雄の心をかき乱した。やってくる生徒達が次々と朝の挨拶をして静雄の横を通り過ぎていく。
 ぶわっと春風が吹いてほとんど散ってしまった桜の花弁がひらひらと舞った。今日の掃除の時間も大変だろうと、すっかり桃色に染め上げられた道路に目を眇める。道路標示の止まれの文字が、乱暴に桜の消しゴムで消されて所々しかその白線がわからなくなっている。
 校舎から着席十分前の予鈴が鳴り響く。いつも早いうちに登校する臨也の姿はまだ見当たらない。生徒の数も次第とぽつぽつとしたものになっていく。
 あれだけのことをしたのだ、今日は休むだろう思っていたが、予想を裏切って臨也はいつも通りに登校した。その姿を見たときは思わず目を瞠った。手入れの行き届いた黒いランドセルが朝日に反射してきらきらと光る。
 確かに一瞬目があったが、臨也の表情に変化は見られなかった。何事もなかったかのように、子ども達の間で足が速くなると流行りの靴を履いた小さな足が、一定のリズムを刻んでこちらへ向かってくる。その足取りは軽やかだった。
「先生、おはようございます」
 やたらと明るい挨拶に面食らった。端から見れば無邪気な笑顔の裏に、黒いものが隠れていることを静雄は知っている。そしてその笑顔がもっと可憐に咲き乱れることも静雄は知ってしまった。
「あ、ああ。おはよう」
 たじろいだ静雄を軽く笑って、くいくいと大人より一回り小さな手が静雄の顔を招き寄せる。招かれるままに中腰になると、木苺のような瑞々しい唇を顔に近づけられてドキッと心臓が跳ねた。
 昨日この唇がどれだけ魅惑的な声を奏でたかを思い出してしまう。そんな静雄を知ってか知らぬか、臨也は笑顔のままそっと静雄に耳打ちをした。
「もうしばらくは黙っててあげるよ」
 だから今日はおいしいものが食べたいなと、甘ったるい声で囁かれる。
この腹黒めと起き上がろうとした静雄の頭に、不意に臨也の手が伸ばされてなにかを摘みあげるような仕草をした。そして手にしたなにかを静雄から隠すようにぱっと両手で覆う。
 臨也に囁かれた選択肢のないおねだりにため息が口をついて出る。吐き出された息に安堵が含まれていたことを、臨也は気づいているのだろうか。
 なにが食べたいんだと静雄が尋ねると、にこにこと黙ったまま静雄の頭から取り上げたなにかをそっと差し出される。もったいぶるようにゆっくりと開かれた手のひらには、薄桃色のハートがちょこんと乗せられていた。
 ああ、やっぱりこいつはとんでもない悪餓鬼だ。


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