×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -





▼   5


 静雄はこの世の何より折原臨也を嫌っていた。例えるなら、その辺りに転がる悪臭を放つ生ゴミのほうがよっぽどましだと思えるくらいには。しかし同時に静雄にとって臨也は物事の判断基準の基本であり、必要不可欠な存在であった。
 臨也になら全力の怒りを向けられる、臨也は壊れることがないと、静雄は本気で信じていた。身も心もペラペラのアルミホイルのようなものでできているから、臨也は傷つかないのだと。そして同時に臨也の心を動かし怒らせ、傷つけることができるのは、胡散臭い人間愛という枠から外れている静雄だけだという自負もあった。そう、あの日までは。
 仕事帰り、いつものノミ蟲臭を感じて静雄はさっそく退治に向かう。仕事でムシャクシャしていたから、憂さ晴らしにはもってこいだった。臭いの元はどうやら新羅のマンションの方向にいるようで、さすがに中に乗り込んで暴れるのはセルティにも悪いかと考える。だが勤務時からの苛立ちは臨也の臭いも助長して、今にも爆発しそうなくらいに大きなものになっていた。臨也がマンションにいるならば、引きずり出して外で殴ればいいことだと判断し歩を進める。しかし静雄の予想を裏切り、意外なことに臨也はマンションの外にいた。それもほとんど、最悪に近い恰好で。
「臨也! 臨也! 聞こえる?! もう少しだから寝ちゃだめだからね!」
 遠目から見ただけでも、物凄い量の血が臨也の太腿から流れているのがわかった。新羅とセルティが二人がかりで、傷ついた臨也をマンションに運び入れていく。
 ああ、臨也にも赤い血が流れているのだと、傷つくことができるのだと静雄は純粋に驚いた。同時に、人間らしく傷ついている臨也が許せなかった。そして次に、静雄は巨大な不安にかられた。
 臨也は、死ぬのだろうか。臨也が死んでしまったら、今度こそ静雄は一人になってしまう。ならどうすればいい。答えは一択だった。
 自分が臨也を危険から守ってやらなければ。静雄以外が臨也を傷つけることがないように。誰も臨也に触れぬように。その時初めて静雄は、自分の中の臨也に対する異常なまでの執着を認めたのだ。
 それから臨也はまる二ヶ月、池袋に姿を現さなかった。新羅に事情や容態を訊いてもはぐらかされる。きっと乱闘になることを危惧したのだろう。しつこい静雄に根負けした新羅は一言、生きてはいるよと横顔で告げる。それだけわかれば十分だった。
 新羅のマンションを後にして、静雄はさっそく臨也を囲うための下準備に取りかかる。まず場所をどうするかと考え、ふと以前芸能人である弟が追っかけやマスコミから隠れ蓑として、小さなアパートを丸々買い取っていたことを思い出す。そしてそこはだいぶ前にストーカーのようなファンに場所が割れてしまったからと、今はもう使われていないアパートの一つだった。静雄は幽に頭を下げてその一室を貸してもらうように頼み込んだ。幽は快く静雄の頼みを受け入れた。
 そして一ヶ月という時間を費やして、臨也が快復するまでに済ませて置くべき準備を終わらせたのだ。まずは捕まえた臨也が逃げ出さないようにと、ホームセンターで木板を窓の数分購入し外れることのないように釘で丁寧に打ちつけた。わずかな間だが、こういった力を要するところでアルバイトをしていた経験が役に立ったことを喜んだ。
続いてとっくに切れてしまっていたアパートのある二部屋の電気と水道、ガスの手続きを済ます。こちらは予想以上にあっさりと完了した。
 静雄が唯一躊躇ったのは、会社の有給申請だ。良心の呵責を感じながら上司のトムに相談すると、トムは嫌な顔一つせずにたまには静雄にも休みが必要だと快諾した。日数的に静雄が旅行に行くと考えたようで、静かな田舎にでも行ってリフレッシュしてこいと労いの言葉までかけられる。静雄はトムの言葉を否定するなどという愚鈍なことはせずに、トムの想像に乗っかり話を進めた。気が引けて入社して以来滅多に使っていなかった、溜まりに溜まった有給休暇の申請手続きをどうにか済ませ、静雄は胸のつかえが取れたような心地になる。
 そして最後に、必要になるであろう様々な小物を購入しに店をまわっていく。それは例えば、臨也を拘束するための手錠や足枷だったりなどだ。臨也ならば縄で縛っただけでは簡単に逃げ出せることを知っていたから、静雄が少し力を入れたくらいでは壊れない本格的なものを用意した。他にも目隠しや鞭、ガムテープなど金に糸目はつけずに想像でき得るあらゆるものを購入していく。いよいよ準備は整った。あとは肝心の臨也を確保するだけだ。


 一ヶ月後、何も知らない臨也はのこのこと池袋にやってきた。どこまでもしつこく追いかけるつもりだったが、臨也はまだ本調子でなかったようで静雄の投げたコンビニのゴミ箱に頭を打ち、あっさりと倒れた。このように簡単に捕まった臨也に理不尽な怒りを覚えるも、臨也が起きてしまっては元も子もないと用意したアパートへと足を急がせる。大きなトラブルもなく、すんなり臨也はアパートに担ぎ込まれた。こうして臨也を閉じ込めることに成功したのである。
 静雄は臨也が部屋から逃れようとする度に、臨也の骨や内臓が傷つかない程度に殴りつけた。臨也にはどうして毎度逃げ出そうとしたタイミングで見つかるのか理解できないようだったが、極めて単純なことである。静雄は同じアパートの、臨也の部屋の音がよく響く一室に潜んでいたのだ。
 臨也の怯えた顔は静雄の支配欲を満たし、そして加虐心を煽る。こういう顔ならば愛嬌もあるのにと考えたくらいに静雄はその表情が気に入った。例えばピアスを開けたときなどがそうだ。すぐにそれは怒りの表情に変わったが、静雄の網膜に焼きついたのは臨也の恐怖に歪んだ表情だった。
 臨也がそう簡単に、静雄の手に落ちるなどとは思ってもいない。だから静雄はいくつもの心理的ストレスが加わるような状況を用意し、徹底的に臨也を管理した。静雄のいないときにあえて臨也の身体を物理的に拘束しなかったのもその一つだ。
 逃げられるのに逃げられない、逃げようとすればひどい目に遭うというのを臨也に叩き込むためだった。対して静雄のいるときに臨也を拘束したのは、静雄がいなければ自分は何もできないのだと思い込ませるためだ。臨也は表にこそ出さなかったが、その精神的な負担は相当なものであったはずである。
 転機が訪れたのは、臨也を監禁してからおよそ一週間を過ぎた頃だった。静雄の携帯に新羅から電話があったのだ。画面に浮かび上がった名前を見て、静雄の心は凍りつく。この計画が露見したのだろうかと、嫌な汗が背中を伝う。
 臨也に何が起きたのか悟らせぬように静雄はすぐさま部屋を出て、万が一にも話し声が聞こえない所まで来てから電話を取った。
「もしもし静雄? 今どこ? ねえ、臨也と一緒だったりしない?」
 新羅はやたらと勘がいい。いきなり核心を突いてきた新羅に舌を打つ。
「ああ? なんで俺がノミ蟲なんかと一緒にいなきゃなんねえんだ。つーか名前を出すなって言ったよなあ……?」
 不機嫌な声は演技ではなかった。ようやく臨也が従順になり始めたというのにと、焦りと怒りがない交ぜになって静雄を苛立たせる。誰にもこの生活を、邪魔させるわけにはいかない。
「おい、ちょっと!? これくらいで切らないでくれよ!? 君だってもういい歳した大人なんだからさ、そろそろその性格を改めたらどうかな。短気は損気って言葉くらい君も聞いたことーーああごめん切らないで! 僕が悪かったから! ……で、臨也の話に戻るんだけど」
「……なんかあったのかよ」
「会う約束をしてたのに、全然連絡が取れなくてね。まあよくあることなんだけど、ちょっと急用だったものだから。セルティも仕事を中途半端に与えられたままで、どうしていいかわからなくて困ってるんだよ。僕はともかく、セルティを悩ませるなんて許されることじゃない!いや、困った顔のセルティももちろんとても可愛らしいし、何をしていてもその美しさは天香国色だよ!それでもやっぱり私はセルティが笑ってくれていたほうがーー」
 静雄はこのような時にまた始まったと、適当に相槌を打って生返事をする。こうなった新羅を電話越しで止めるのは不可能だ。だが電話を切り上げることもできなかった。新羅がわざわざ静雄に電話をかけてきた、その真意を知る必要がある。
「ーーそれでセルティがその時……て、ああごめんごめん、話が逸れてしまったね。もしもし? まだ繋がってる? ……ああうん、よかったよかった。それで臨也のことなんだけど、静雄が知らないならそれでいいんだ。知り合いを適当に当たってみただけだから。じゃあ、時間取らせて悪かったね」
 一方的に話して一方的に切り上げようとする新羅に苛立ったが、どうやら臨也の情報がどこかから漏れたわけではないらしいと安心する。画面をスライドさせて電話を切ろうと、携帯を耳から離す。するとやっぱり待ってと新羅の焦った声が聞こえ、再び耳に携帯を押し当てた。
「……静雄、俺はね。セルティさえ隣にいてくれれば、あとは正直どうでもいいんだけどさ。それでも君も臨也もこんなでも一応友人だし、仕事を増やされてセルティとの愛しい時間を削られないためにも言っておくよ。……あんまり虐めたらだめだからね。臨也はああ見えて結構繊細だから」
「な……っ」
 じゃあと新羅は別れの挨拶を口にして、今度こそ電話は切れた。ツーツーと機械音だけが、やけにうるさく廊下に鳴り響く。
 新羅はどこまで知っているのだろうか。あの様子からだと関わる気はないようだが、それでも油断はできない。
 この電話をきっかけに、静雄はこれまで抑えていたものが吹っ切れた。新羅本人が関わる気がないとしても、他の知り合いがどう捉えるかはまた別の問題だ。時間をかけて懐柔しようと思っていたが、万一知り合いがここ訪ねてきたときに臨也を奪われることがないように、早急に自分のものだけにすると決めた。そして嫌がる臨也を無理やり犯したのだ。
 新羅は、臨也の精神は弱いのだと言った。この状況に置かれればどのような人間も大抵ストレスになるだろうからそれが本当かどうかはわからないが、その日を境に、臨也はあっという間に表情を失くし無口になっていった。
 次に大きな変化があったのは、それからおよそ一週間後のことだ。臨也がまたも懲りずに逃げ出したのだ。
 その日は幽との食事の約束が入っていて、アパートを長時間離れなければならなかった。しかし最近の臨也はおとなしかったので、特に問題はないだろうと部屋を後にする。
 約束の場所へ向かっている途中、幽から連絡が入った。どうしても休めない仕事が急遽入ってしまったという。幽の仕事柄それも仕方のないことであったし、今までも何度かこのようなことはあったので、静雄は残念だけれどまた今度と予定を変更しアパートへと踵を返す。
 その時だった。臨也が部屋から抜け出し、必死の表情で路地を駆けているのを見つけたのは。
 もしものためにと持っていたスタンガンを使う日は、もうこないと思っていた。ここ数日の臨也は従順であったので、油断していたのだ。
 あのまま幽との予定がキャンセルにならなければと想像して、静雄はゾッとした。
 静雄はマグマのような激しい怒りのまま、これまで以上の仕置を臨也に与えた。ごめんなさいと謝り怯える臨也を、もう二度とここから出たいと思わなくなるよう徹底的に痛めつける。
 しかし臨也はその途中で、口にしてはならないことを口にした。殺せと、静雄にそう言ったのだ。なぜ臨也を守るためにこうしているというのに、その静雄が臨也を殺さねばならない。そろそろやめてやろうと思っていたが、余計なこと喋る口を塞いでその分の仕置きを続行し、臨也が気を失うまでひたすらに責める手を緩めなかった。
 そしてその日を最後に、これまで何かしら抵抗を続けていた臨也が、ぱたりと抵抗をやめたのだ。それからの臨也はみるみるうちに様々な事柄に対する反応が薄くなり、それだけに留まらず、臨也の表情や言動がまるで子どものそれになっていった。臨也なりの現実逃避の手段だったのだろう。それに初めて気づいた時に感じた僅かな違和感を、静雄は放置し続けた。
 それから三日程経つと、臨也は静雄にべったりとくっつくようになり、静雄が仕事に行くのを嫌がった。そのとき静雄は、ようやく放置していた違和感と向き合わねばないないこととなる。
 このような臨也は臨也でないと、掠めた思考を慌てて振り払う。臨也が隣にいてくれるならばそれでいいと、静雄は臨也に笑いかけた。


 あっという間に臨也を閉じ込めてから、一ヶ月と少しが経過した。静雄はある日突然、臨也の意思を尊重する形で外に出ていいと許可を出したのだ。
「解放してやるよ。好きなところに行けばいいし、臨也が大好きな人間観察だってできる。手前はもう自由だ」
 臨也は困惑しつつも、その一方でどこか安堵したようだった。その頃の臨也はもう静雄に逆らうことができなくなっていたので、臨也はどちらにせよ外へ出ることになっただろう。
 臨也のトレードマークであった黒ずくめの服を差し出す。手渡された服を受け取った臨也は、懐かしいものを見るといったよりは、初めてのものを目にしたような表情をした。
 黒ばかりの服に着替え終えた臨也は、どうにも落ち着かないようでそわそわとしている。それもそのはずだ、それを見越して静雄は白い服を臨也に着せ続けていたのだから。
 何度も不安げに静雄を振り返り、返された財布だけを握り臨也は部屋を出て行った。しかし三十分もしないうちに、臨也はこの暗い部屋へと自分の意思で戻ってきたのだ。
 全て静雄の目論み通りだった。このために一ヶ月以上もの間、臨也を外界から完全に隔離してきたのだから当然だ。
 日の光の眩しさに怯えるように。車の大きな走行音に怖がるように。愛していると豪語していた人間を見て恐怖するように。静雄は肩を震わせて自らをきつく抱きしめ涙をこぼす臨也を心配そうな顔で見つめ、そっと両腕で包み込んだ。
「シズちゃん、シズちゃん……!」
「どうしたんだよ。外に出たかったんだろ?」
「やだ、出たくない、こわい。捨てないで、ここにいる……!」
 こうなることを望んでいた。この日のためだけに、たくさんの時間と金を費やした。それなのに静雄の心はどこかぽっかりと、穴が空いてしまったような喪失感を感じている。
 自分が手に入れたかったのは、本当にそばにいて欲しかったのは、誰だったのだろうか。
 それでも泣きじゃくる臨也を手放すことなど、静雄にはできなかった。


 静雄が路地の先に消えていくのを確認してから、門田はあるアパートの一室のチャイムを鳴らす。中に人がいるような気配はあるのだが、ドアは開かない。少し置いてからもう一度チャイムを鳴らすと、恐る恐るといった形でドアから臨也が顔を出す。
 ドアが開いたことと、臨也がとりあえずは無事であることに門田は安堵した。
「わああどうしたのドタチン、久しぶり」
 来訪者が門田だとわかり、臨也は頬を緩ませ大袈裟なくらいに喜んだ。だが門田はドアから全身を露わにした臨也の異様な恰好に言葉を失う。どのような状態の臨也を見ても、揺らがないと覚悟を決めていた。しかしそれはあっさりと打ち砕かれる。顔を合わせるのは久しぶりだというのに口をついたのは再会を祝う挨拶でなく、驚きや怒りやを憐憫を交えた複雑かつシンプルな疑問だった。
「……臨也。お前それ、どうしたんだ」
「それって、なにが?」
 門田の問いかけの意味を理解できなかったのか、臨也はキョトンとした顔をして首をかしげる。その仕草がやけに幼い。
「首とか耳とか、どうしたんだよ。お前はそういうものを着けるような奴じゃないだろう」
 門田に指摘され、臨也はようやく得心した表情を見せた。そして嬉しいことを訊かれたかのように、パアッと顔を輝かせる。臨也が顔を揺らす度に深紅のピアスが陽の光に反射し、不気味にきらめく。
「これ?これはね、シズちゃんからもらったの」
 臨也は幸せそうに目を伏せ、光沢のある黒い首輪を大切そうに撫でる。何か触れてはならない不吉なものを感じ、門田はそれ以上の詮索を避けた。今は僅かな時間も惜しい。
「……悪い、話は後で、な。裏に車停めてあるからよ、そこまで急げ。早くしねえと静雄が来ちまう」
「……なんで? シズちゃん、怒らせなければ優しいよ?」
 ありえないと、門田は愕然とした。臨也が静雄に対してそのような評価を口にするなど、あり得るはずがない。少なくとも今の臨也の状態が、純粋な優しさから成り立ったものでないのは門田にもわかる。何かがおかしい。このままではいけないと、やや強引に臨也の腕を引く。
「臨也、いいから来るんだ!」
「な、なに!? や、だ! はなして! 行きたくない! でたくない!」
 臨也は子どものように駄々をこねて、ドアノブを掴んだまま離そうとしない。まずい。時間がないのに。そして、恐れていた事態に陥った。
「……門田?」
「シズちゃん!」
 臨也はタタッと裸足のまま駆けて、飛び込むように静雄の腰に抱きつく。異様な光景に、門田は言葉もでなかった。
「シズちゃん、おかえり」
「……門田、手前臨也に何しようとしてた」
「シズちゃん怒らないで。ドタチン、なんもしてないから」
 不安げに静雄に縋り、門田を庇う臨也に違和感を覚える。これは、誰だ? 少なくとも門田の知っている折原臨也は大胆不敵で、常に何かを企んでいるような狡猾な人間だった。
「臨也、いいから引っ込んでろ。ちょっと話すだけだから」
 静雄が優しく言い聞かせるように臨也の頭を撫でると、臨也はちらりと門田に不安げな顔を見せて静雄の後ろに下がる。静雄からビリビリとした敵対心を向けられたが、門田は怯まなかった。
「何しに来たんだよ」
「決まってるだろ。臨也を連れ戻しにきた」
「臨也がここから出たいって言ったのか?」
「それは……」
 静雄が後ろを振り向き、臨也のほうに目をやる。臨也はふるふると首を横に振った。
 なるほど、岸谷の話していたことはこういうことだったのだ。今になってあの小難しい話を理解した。

「臨也? ああうん、大体なんとなく想像はついてるけど。静雄だろう? 悪いけど今回、僕は関わる気がないんだよね。それにもともとあの二人の間に割って入ることなんて、誰にもできないだろう。どういう過程であれ雨降って地固まるとは程遠いいけれど、その形に二人はまとまった。私もセルティがいてくれさえすれば他には何も要らないと思っているから、静雄の気持ちはよくわかるよ。あとは臨也だけど、うーん。多分もう無理じゃないかな」
「無理?」
「うん。臨也の心はいま累卵之危にあると思うよ。早いところ心神耗弱ってやつだね。被監禁者における心理状態でいくつか有名なものがあるんだけど、例えばストックホルム症候群。名称くらいは耳にしたことがあるだろう? そう、閉鎖的な空間で長時間監禁者と同じ時間を共有したことによって、被監禁者が監禁者に同情したり愛情を覚えたりしてしまう心理状態のことなんだけど。監禁者がいなければご飯も食べられない、排泄もままならないような状況下に置かれていたら特に、この心理状態が強く出る傾向がある。あとはそうだね、学習性無力感。これは例えば、ある場所から脱出しようとするたびに、殴られるなり蹴られるなり妨害を続けられたとしよう。するとね不思議なことに、物理的な拘束から解放されていてもここからはどうやっても脱出することができないと、どうせまた痛い目に遭うだけだと諦めてしまうんだよ。今の臨也にはこの二つの心理状態が働いていると思う。もっと酷ければ、その他の症状を引き起こしていてもおかしくない。そうなると臨也の意思を以ってして連れ出すのは、ほぼ不可能だ」
「……ならどうすりゃいいんだよ」
 友人がどんな目に遭っているのかそこまで想像した上で、客観的にぺらぺらと理論立てる岸谷に静かな怒りを覚える。
「どうしてもというなら、無理無体に連れ出すほかないだろうね。それが臨也の、あの二人のためになるかどうかはわからないけど。あとは君の好きにするといい」
 新羅は門田の感情に気づいていたように肩を竦め、困ったような顔をして話を切り上げた。

 そして門田は二人と対峙して、ようやく岸谷の他人に対する推測の鋭さを思い知ったのだ。岸谷の読みはほぼ当たっている。臨也はここから連れ出そうとする門田に怯え、静雄に助けを求めた。
「臨也は出たがってねえみてえだが」
 臨也は静雄の後ろから、決して離れようとしない。不穏な空気に臨也は静雄の袖を引いた。静雄は心配するなと、もう一度臨也を安心させるような声をかける。以前の二人の関係を知る人間からすれば、到底考えられないものだった。
「臨也、お前がしがみついてるのは静雄だぞ?」
 臨也は何を言っているのだと、再びキョトンとした顔をする。子どものような仕草で首を傾げ、門田のセリフをおうむ返しに答えた。
「シズちゃんだよ?」
「そうだ。散々嫌いだって十年間騒いでた、あの平和島静雄だ」
 門田の言葉に臨也の顔が曇っていく。おろおろと視線が定まらず、静雄と門田を行ったり来たりした。静雄の服を握る、男にしては小さな手が小刻みに震える。不安定な臨也を見てこれ以上は危険だろうかと、踏み込むことに躊躇いを覚えてしまった。
「そう、だけど、でも」
「臨也。もういい、何も考えるな」
 静雄が震える臨也を抱きしめると、臨也は安心したように身体の力を抜いて静雄に身を預けた。静雄が手を握ると臨也は嬉しそうに笑い、静雄の腕に頬ずりをする。臨也に穏やかな顔を向けていた静雄は今、門田に鋭い眼差しを向けている。
「門田。これ以上臨也を惑わそうってんなら、お前でも容赦しねえ」
 このままではいけないと、部屋に入ろうとする静雄の腕を掴む。静雄は臨也を抱えていたにも関わらず、簡単に門田を振り払った。
「待て静雄。こんなのよくないに決まってるだろ! 臨也のためにも、お前のためにもならない! いつまでそうしてるつもりだ!」
「いつまでだ?」
 なおも厳しく静雄を追求すると、静雄は愛しさと寂しさを混ぜたような表情で臨也を見つめ微笑んだ。
「臨也が望むまで、だ」




[ prev ]




[ back to title ]