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「#エロ」のBL小説を読む
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 臨也は静雄が好きだ。それは好きというきれいな言葉では到底形容しきれない複雑なものだったが、大元にあるのは確かにその感情だった。きっと一目惚れだったのだと思う。そしてそれは臨也にとっての初恋だった。
 だが肝心の静雄はというと、初対面にもかかわらず臨也とは正反対の感情を覚えたらしい。静雄はやたらと嗅覚がいい。一目見て臨也の歪んだ本性を見抜いたのだろう。気にくわねぇの一言が、どれだけ今後の二人の関係に影響を及ぼすことになるのか静雄は想像していなかった。
 いや、想像する必要がなかったのだろう。気にくわない相手と自分から連むような性格の持ち主ではない。それならそれでこれ以上関わることもないと判断したのであろう。
 だが臨也は静雄の判断を悉く覆した。静雄から関わってこないのならば自分から関わっていくしかないと考えたのだ。初恋は叶わないとかいう面白味もないジンクスが巷にはあるようだが、臨也はそういった不確かなまじないのようなものは一切信じていない。諦めるという選択肢など端からなかったのである。
 しかし臨也には一度極端に嫌われた相手から好かれる方法がまるでわからなかった。初めこそは普通に話しかけることも試みたが、静雄は名前を呼ばれるだけで臨也を睨み、怒鳴り返す有様だ。心底関わりたくないという静雄のその態度は、毎度臨也を深く傷つけたのだった。
 そして段々と静雄の気を引こうと純粋なアピールであったはずのものがエスカレートして、どこかの過程で歪みを帯びた。その好意のベクトルは、一番好きという立場が与えられないのならばせめて、一番嫌いという称号が欲しいと全くの逆方向に向けられたのだ。
 それからというもの、臨也は静雄に対する嫌がらせを徹底した。例えば逃走劇中に静雄をトラックに突っ込ませて轢かせてみたり、地元のチンピラの大群を送り込んでみたりとそれはもう思いつく限りの様々な手段を用いて。臨也の高校時代のほとんどは静雄に費やしたといっても過言ではない。
 そうして嫌がらせにしては度が過ぎたそれらを仕掛けていくうちに、静雄がどのようなことで特別怒りを露わにするのかを学んでいった。非常識な膂力やその派手な外見から誤解されがちだが、誰でも彼でも理由なく理不尽に怒りをぶつけるということはまずほぼあり得ない。
 静雄が心から嫌っていることは小難しい理屈を並べて本題をすり替えたり、卑怯な手段を用いて自分は高みの見物を決め込むような人間だ。そうとわかれば臨也の人格も自然とそのように姿を変えていった。
 努力の甲斐あって嫌悪の塊となった臨也を、静雄は余程名前で呼びたくないようで手前だのノミ蟲だのと吐き捨てるようにあだ名としては幾分センスに欠ける代わりの呼称で臨也を呼ぶ。それは臨也の努力の成果なのだから喜ばしいものである筈なのに、呼ばれるたびにどこかに潜んでいた寂しさが顔をだす。
 しかし、気づいてしまったのだ。殺し合いの最中だけは臨也を名前で呼ぶことに。静雄の一番になりたくて、名前を呼ばれたくて、もっと声を聞きたくて、その歪みに歪みきった倒錯した愛情の延長が、これだ。
「もしもし? ええ、折原です。……ああ、もちろん。覚えていますよ、お久しぶりです。いえいえ、とんでもない。……今夜ですか? わかりました、では十時にそのホテルで」
 用件だけの電話を早々と切り、いくつか所持している携帯のうちの一つをバックに押し込む。こういったものに内容や中身は必要ない。
 正直全く記憶にない番号と声だったがそれもよくあることであったし、万が一相手が初対面だろうとこの携帯にかけてくるということは、することは一つだと決まっているので特に問題はない。
「さて……」
 今日のやつはどのくらい彼を彷彿とさせてくれるのだろうか。

 折原臨也は身体を売って情報を得ている、という噂が流れ始めたのはおよそ三ヶ月前からだ。実際それは事実であったので特に気に留めることはなかったし、仮にそれがデタラメだったとしてもその程度の噂で心が折れるようなタマではないのは自覚している。
 いつだったか無駄に察しのいい闇医者の友人に勘付かれてしまい、ほどほどにしておきなよと窘められたがその程度のことで臨也が行動を改めるわけがなかった。恐らく新羅もそれをわかった上で本気で止めようとしなかったのだろう。いい友を持ったと我ながら皮肉に思う。
 臨也が静雄に向けている感情と同等のものが静雄から返ってくる可能性がほとんどゼロに等しいことは理解していた。あの手のタイプは直感で物事を判断し、理屈や言葉で説き伏せられることを激しく嫌う。頭では理解していても静雄が欲しくて欲しくてたまらなくて、それでも終着点のない感情に疲れ、臨也は代わりを求めるようになった。

 始まりは偶然だった。面倒な案件に邪魔をされて趣味の時間、いわゆる人間観察に精を出せない日々が続き鬱憤が溜まっていた。
 これで静雄が人間に囲まれて笑っている姿を見なくて済むのならと半ば投げやりになり仕事を詰め込もうとすらしたが、それも優秀な部下にピシャリと迷惑をこちらにまでかけるのは勘弁してちょうだいと撥ね付けられ諦めた。室内での作業ばかりで外に出れない日が続き、自ずと気分も塞ぎ込んでしまう。運動とは異なる疲労が蓄積されていく。
 健康志向な臨也にとって、定期的に身体を動かすことのできる池袋は恰好の人間観察場所だった。身体を動かすと言えば聞こえはいいが、池袋でのそれはそのような生やさしいものではない。壁を駆け、宙を舞い、常人ではとてもこなすことができないアクロバティックで過激な追いかけっこだ。静雄の憎悪を一身に浴びることのできるあのスリリングな一時が恋しかった。
 ようやくなんの面白みのない案件が片づいたのは引き受けてから一週間後の朝方で、臨也は足りていなかった睡眠を心ゆくまで貪った。臨也が目を覚ましたのは日がとっぷりと暮れた時間帯だったが、眠らぬ街と謳われるほどだ、人だってまだまだ溢れかえっているだろうと池袋に赴いた。
 このような時間じゃ静雄との遭遇はほとんど期待できない。スケジュール帳を開いて今日の日付の横を確認する。月のマークの隣の数字は二十になっていた。ちなみに太陽の隣には七十と記されている。もう少し早く起きていれば静雄に会える確率が高かったのにとそんな考えが頭をよぎるが、寝不足のまま静雄に見つかったところでボロ雑巾にされるのがオチだろう。
 静雄予報と勝手に名付けているそれは、静雄のシフトをこっそりとあるルートから入手して、池袋での静雄との遭遇率を様々な要因を考慮して弾き出したものである。そこそこに正確率の高いそれは臨也の行動をこれまで何度も助けていた。
 バーテン服のせいか、一見するといかにも夜の人間といったような風体をしているため夜のほうが遭遇率が高いイメージが抜けないが、反して静雄の生活は律せられていて早寝早起きを子どものように徹底していることを知っている。
 それでも運よく一目見れればと静雄がよく出没する大通りを目指す。交差点の隅にあった傷んだバーの看板に寄りかかり、どこかにその姿がないかと忙しなく目を動かした。白のシャツに黒のジャケットを羽織った金髪が目にはいり、一瞬どきんと胸が跳ねるが、よく見ると格好こそは似ていても赤の他人であった。
 暗がりだったとはいえ、似ている人物を目にしただけでときめいてしまう自分に鼻を鳴らす。注視してみると服装だけでなくワックスの盛り方も静雄と似ている。
 ほんの少し興味を引かれ、今日の人間観察のターゲットになるかどうか注意深く様子をうかがう。そのうち臨也の視線に気がついその男は、嬉しそうに笑いかけこちらへ向かって歩いてくる。ひょっとして知り合いにいただろうかと脳内で検索をかけるがそれらしい該当者は引っかからなかった。
「なあ、オニーサン。ちょっといい?」
 どうやらこの男の様子からしても初対面で間違いがなさそうだ。へらへらといかにも軟派な男の耳にはじゃらじゃらと下品なピアスがぶら下がっている。臨也の目の前で立ち止まった、風が吹いたらふわふわと飛んでいきそうなくらいに軽い男を瞬時に上から下まで観察する。そして心底がっかりした。
 全然似ていない。なぜ自分は一瞬でもこの男に静雄の影を見たのだろうかと自己嫌悪にすら走りそうだ。静雄の声はもっと低くて重みのあるものだったし、なによりあの派手な外見からこそ先入観をもって判断されがちであるが、静雄はここまで頭が軽くない。
「ねえ、聞いてんの? オニーサンてば」
 視界を占領する金髪が、ひどく心を逆撫でする。中身が詰まってなさそうな軽いその声も耳障りだった。臨也が求めていた人物と服装や髪色、髪型が似ているというのに微塵も心は揺れ動かない。
 それどころかみるみるうちに臨也の中の温度が下がっていくのを感じた。無視を決め込んでも一向に去ろうとしない男にこれでもかとわざとらしい大きな溜息をつく。
「悪いけど、ボランティアには興味がなくてね。そういうことなら他を当たってくれ」
 ひらひらと手を振ってその場を去るつもりだった。一刻も早く運動不足と共に溜まっていた鬱々とした気分を解消したい。こうなったら自ら出向いて静雄のアパートの近くでなにか事を起こして怒った顔を拝んでやろう、そんなことで頭は占められていた。
 空っぽのもなかのような男の横を通り過ぎようと半身をよじったところで臨也の肩に男の手がかけられる。
「ははっオニーサン面白いね。……ねえ、今から遊ぼうよ」
「……は?」
 思いがけない誘いについ振り返ってしまう。もしかしたら少し間抜けな顔をしているかもしれない。この場合の遊ぼうの意味がわからないほど臨也は子どもでも純粋でもなかったし、相手の正気を冷静に考えられる余裕はまだ確かにあったのだ。
「いいじゃん、ちょっとくらい。ボランティアじゃない、きちんとお金も払う。それでオニーサンも俺もお互い気持ちよくなれる。最高でしょ?」
 金髪の男は安っぽい手つきで首に腕を絡めてくる。その拍子にふわっと香った、今一番会いたかった人物と同じワックスの匂いが、臨也を自棄にさせた。
 どうせ本物が手に入らないのなら、少しでもこの孤独感が満たされるのならそれでも構わないかと滲み出てきた卑屈さに従うことにしたのだ。
「言っておくけど、そんなに安くないよ、俺」
「えっマジ!? いいよそれくらい出す出す! いやあオニーサンみたいな美人と遊べるなんてツイてるわあ」
 へらへらと腰に手を回してきた男の手が気持ち悪い。こんな手が欲しいわけでないと心は訴えていたが、臨也は聞こえないふりをした。やたらとべたべたと触り続ける男に釘をさすように、低い声で告げる。
「ただし、条件がある」
 今から考えても、あの時の自分はどうかしていたのだと思う。

 折原臨也は身体を売って情報を得ている、という噂自体は真実であるが、訂正する箇所がないわけでもない。
 まず第一に、情報を得ることが目的ではないということ。情報を得るために身体を売ったことなんてただの一度もない。そんなことをしなくてはならないような素人でもなかったし、そもそもそれは臨也のポリシーに反する。
 こんな生業をしている以上、一般的な職業に就いている人間より多くの噂が絡みついてくることは仕方がないし、なにより噂話というのはその面白さが大事なのであって信憑性は必要がないことは臨也もよくわかっている。むしろその噂たちに支えられているような仕事なので文句も言うまい。
 二つ目は誰でも彼でも抱かれてやっているわけではないということ。先日、金さえ払えば誰にでも足を開くのだろうと噂を鵜呑みにして路地裏で襲いかかってきた男数人を返り討ちにしてやったばかりだ。誰でもいいわけではない。抱かれる対象は金髪の男だけだと決めていた。これは最低条件だ。
 それがどこでそうなったのか、金髪の男と折原臨也がホテルに入っていくのを見たという証言が、折原臨也は平和島静雄とヤっているというものにいつしか形を変えていた。大方折原臨也と金髪で結びついたのが静雄だったのだろうと推測する。
 静雄からしてみればいい迷惑であろうそれを敢えて訂正しなかったのは、その噂を聞いた者たちの反応を楽しむという人間観察的な側面も含まれていたが、その本質は静雄がそれを耳にして少しでも臨也になんらかの感情を抱けばいいと思ったことと、本当にそうでありたかったという手遅れな願いからだ。
 そして三つ目ーー

「あ、起きた?」
 霞む視界で金髪が揺れている。ここはどこだと重たい瞼を押し上げて、すぐにそういった類のホテルであることは理解した。揺蕩う金髪に一瞬静雄かとも期待したが、それはないとすぐにその選択を頭の隅に追いやった。
 打ち付けられたように痛む頭と腰で情報を処理しきれない。臨也のほうを振り向いてミネラルウォーターを差し出した男の顔は、やはり静雄とは似ても似つかぬものだった。なんで自分はこの男とこんなところにいるのだろうとまわらぬ頭で考える。
 重い身体を起こし受け取ったペットボトルのキャップがパキンと音を立てたことを確認してミネラルウォーターを喉に流し込む。乾燥してパサついていた唇に弾力が戻っていくのを感じる。その間もズキズキと訴えてかけてくる腰の重さや、想像もしたくない部位の激痛が嫌でもここで何があったのかを告げていた。
「もう、ひどいよね。声を出さないなら遊んでやってもいい。ただし声を出したらその瞬間にやめる、なんて条件、俺はじめてだよ。オニーサン変わってるってよく言われるでしょ」
 軽薄な調子でペラペラと並べられた台詞を聞いて、まばらであったが徐々に記憶が戻ってきた。そうだ、この男と寝ることを承諾したのは紛れもない自分であったと、なんとも表現し難い感情が込み上げてくる。
 ふらつきながらベッドから起きあがろうとする臨也を支えようと、伸ばした男の手をぴしゃりとはたき落とす。
「そういうの、いいから」
 事後まで甘ったるくされるのはごめんだ。どうにか自力で立ち上がり、風呂場まで向かう。一刻も早く、べたついた身体を洗い流したかった。
「なあんだ、そっけないなあ。まっいいや、俺はもうシャワー済ませてあるからさ。……っと、はいじゃあこれ」
 身なりをすっかりと整えてある男は、安っぽい財布から三万円を取り出してベッドのサイドテーブルに置いた。男は自らの快楽のために金を払って臨也を抱き、臨也は求めている人から決して向けられない温かな感情を錯覚させるために男に抱かれた。それだけのことだ。
「終わったあとまでベタベタしたいっていうタイプじゃなさそうだからさ、俺は先に帰らせてもらうよ」
「……ああ。確かに受けとった」
 サイドテーブルに並べられた三枚の諭吉を確認し、了解の意思を示す。温もりを求めたはずなのに、こんなものなのかと、抱かれる前より心は冷めたくなっているような気すらした。
「また縁があったらよろしくな。それじゃ」
 軽い言葉に軽い笑みを浮かべ、言葉通り男はさっさと部屋から去っていった。
 それからというものの臨也は両手では数え切れないくらいに金髪の男に抱かれた。抱かれるたびにこれは違うと心が拒み、虚しくなるだけだとわかってはいたが、その抱かれた虚しさをまた他の男で埋めようとする。
 終わりの見えない負の連鎖にがんじがらめにされた心は重くなっていくばかりだ。次こそは抜け出さなければともがけばもがくほど、蟻地獄のようにその深みにはまっていく自分が滑稽だった。




 思っていたよりずっと早く仕事が片づいてしまい、臨也は時間を持て余していた。とかく暇である。一つ伸びをして冴えない気分を追い払おうとしたが、粘り気のあるそれはそう簡単にいなくなってはくれなかった。こういう時に限って波江は休暇だしと、休暇を出した自分を棚に上げて不満気に唇を突き出した。
 話し相手がいないとこうも事務所がやけに広く感じのかと、波江の休みがまわってくる度に考えさせられる。愛する弟にしか興味を示さない彼女だとしても、話を聞いている人物がそこにいるという事実は臨也を多少なりとも慰めていたのだ。
 事務所にいてもすることも、臨也を楽しませることも何もないとわかったので壁にかけてあったファーコートを羽織り、なにか面白いものでも転がっていないかと池袋に繰り出した。
 いつもならば静雄にちょっかいを出しに行くという目的が優先されるのだが、生憎今日ばかりはそんな気分にもなれなかった。そもそも静雄は休みを取っていたはずだと手帳を開いて例の予報を確認する。がやがやとした人混みが嫌いな静雄は休日は自宅でのんびりと過ごすことが多いのだと、以前運び屋が話していた。それを踏まえて静雄の休日の遭遇率は全体的に低く設定してある。案の定太陽マークの横の数字は十と記されていた。
 この程度の確率ならまず会うこともないだろうと行き交う人々の波を壁に寄りかかりながら見つめる。賑やかな場所は人を呼ぶ。若さがある。活気がある。
 それは臨也にとって淡水魚と海水魚が豊富な餌を求めて集まる河口と同じようなものであった。多種多様な人種がアミューズメント目当てに集まり、待ち構えていた捕食者の餌になる。様々な人間でごった返しになっている交差点を観察し、どこに餌を仕掛けておこうかと獲物を探す。
 そういえば、と何かに触発されたのか、ふとある男のことが頭に浮かんだ。そうだ、はじめの男に声をかけられたのもこの辺りだった。あの男はなかなかよかった。セックスはそこまで下手でなかったし、なにより割り切ることを知っていた。その軽さが一種のメリットであったのだ。
 それに比べて、昨日の男ときたら最悪だった。下手くそどころの話じゃない上に、極めつけは最中にしつこく話しかけてくるその汚い声だ。声を出さないという条件が破られた途端、当然有無を言わせず切り上げた。それ以上その行為をする意味がなくなってしまったのだから。それでも尚もしつこくしがみついてくる男に辟易し、「君だと勃たないって、わからない?」と吐き捨てると、力が抜けたようにようやくその男は臨也から手を離した。
 大きくかぶりを振って男を思考から追い散らす。ただでさえ今日は事務所にからかう相手がいなかったりと気分が晴れないというのに、あんな男の事を考えている時間がもったいない。なんのために池袋へ来たというのだ。本来の目的を思い出し、面白いこと探しを再開する。
 人間観察に精を出そうとしたその時、重量感のある灰色の塊が臨也の顔のすぐ前を風を切って飛んでいった。凄まじい音を立てた落下地点を確認する間もなく二つ目の塊が飛んでくる。
 すんでのところでなんとか身を捻り紙一重で躱したものの、後から追いかけてきた風圧で僅かによろめく。第二波で飛んできたものは一波目のゴミ箱より大きな赤い鉄の塊だった。
「おおっと……! ダメじゃないかシズちゃん、いきなり人に物を投げちゃあ。さっきのあれ、ポストでしょ? 郵便屋さん困っちゃうよー? かわいそうに。それじゃ悪いけど、今日は残念ながら構ってあげられる気分じゃないんだよね」
 ポストだったものは熱でも加えたようにへしゃげていて、もう二度とその役割を果たす日がこないのは誰の目にも明らかだった。出会い頭からジャイアニズム全開な静雄に鉢合わせるとは、どうやら今日はよっぽどついていないらしい。
 全くどうしてよりにもよって今日なのかと胸中で独りごちる。当たってほしいときに限って外れてしまった静雄予報を恨む。天気予報に例えるなら予期せぬ雷雨あたりだろうか。
 いつもならば会いたくて仕方がないその顔は、今日だけは見たくないものだった。昨日の男が下手くそすぎて、体のあちこちが痛むというのに、これでいつものような逃走劇を演じるのは難易度が高い。
 とっとと人混みに紛れてしまおうと背を翻したが、無理な動きに悲鳴を上げた腰に意識を持っていかれ、静雄のほうが僅かに早く臨也の左手首を捕らえた。
「……シズちゃーん、しつこい男は嫌われるよ?」
 気づかれぬよう掴まれていないほうの手の袖口からすっとナイフを取り出して、一気に首元を狙う。が、本調子でないこともあってあっさりとそれははたき落とされ、自由だった右手も捕らわれてしまう。手加減をしたわけでないのにいとも容易く落とされたナイフに舌打ちする。落ちたナイフは煙草の火をもみ消すように足で踏みつけられ、ガラスのように粉々に砕けた。
 静雄を相手に近距離戦では勝ち目がないがないのは火を見るよりも明らかだった。どうにかこの手を振り払って距離をとることができれば勝算もあるのだがと静雄を窺うが、掴んだ手を離す気配はない。それどころか次の攻撃を繰り出してくる様子もなかった。両手をそれぞれの手に掴まれているという端から見たら仲良しごっこもどきの光景に苛立ちが募っていく。
「俺さあ、今すんごく機嫌悪いんだよね。だから見逃してくれないかなあ」
 静雄に握られた両手を振り払えるほどの力が自分にないのは考えるまでもなくわかりきっている。仮に力で真っ向にやり合うことができる者がいるとしたらそれはこの街ではサイモンくらいだろう。臨也としてもみすみす腕を二本とも折られるのは避けたかった。
 下手に抵抗しないのがベターだろうと判断し静雄の一挙一動を見逃すまいと睨めつける。表情に目立った変化はなく、次に取る行動を読むことは困難だ。相手がどう出るかわからない以上はこちらとしても文字通り手出しの仕様がない。
 静雄はその手を折るわけでもなく握り潰すわけでもなく、ただただ臨也を鬼の形相で睨み続けている。静雄らしくもない。いつもならこのまま臨也をぶん投げるか掴んでいる手をとっくにへし折っているだろう。
 普段の静雄とは纏っている空気がどこか異なることに胸騒ぎを覚える。これはよくない。本能的に危険を察し、腕二本で済む方がマシだと判断して無理やり手首を内側にひねって抜け出そうとするも、相手は非常識な膂力の持ち主の平和島静雄だ。
 常人であれば関節の可動範囲がついていけなくて咄嗟に手を離してしまう女性の護身術としてメジャーなそれは相手の手を巻き込んで逃げ出すものであって、ピクリとも動かないこの圧倒的な力の差では無意味であった。
 臨也が逃げ出そうと奮闘したことでようやく静雄は行動に出た。なんとか振りほどこうと暴れる抵抗など物ともせずに、押さえていた両手を片手に持ちかえる。いきなり一纏めにされた手を引っ張るものだから、つんのめってバランスを崩しかけた。投げられると身構えもしたがその衝撃は一向にやってこない。そんな臨也を知ってか知らぬか、静雄は臨也の両手首をしっかりと掴んで離さぬままずんずんと歩き出した。
 ここでは始末するのに人目につきすぎるということだろうか。すでに臨也と静雄の周りには沢山の人間が集まり、怖いもの知らずな若者が携帯内蔵のカメラをこちらに向けている始末だった。進行進路にいた者たちは急に歩きだした静雄に怯え、慌てて関わるまいと目を逸らしては二人を避けて道を作っていく。先程までは野次馬根性をみせていたくせに自分が巻き込まれそうになった途端これだ。いかにも人間らしい。
「少しは頭使えるようになったんだ? これじゃあ目立ちすぎるからね。でもまあ、もう遅いと思うけど。どこで俺を殺したってこの状況から考えて犯人は平和島静雄だなんてこと小学生でも推理できる」
 静雄は何も答えない。苛立っているのか、歩くペースはどんどん加速していく。認めたくはないが静雄のほうが十センチ程度臨也より身長が高かったはずだ。必然的にコンパスの長さも変わってくるので臨也は小走りになることを強要される。
「ねえ、どこ行くのってば。あれ、もしかしてこれって誘拐? そうだよね? おまわりさーん! 助けてー!」
「ああくそうるせえ! 少しは黙るってことができねえのか!」
 わざわざ周りの人間に大袈裟なアピールをするように喚く臨也に我慢の限界がきたのだろう。終始無言を貫いていた静雄が怒鳴り立てる。
「あのさあ、自分がどれだけ理不尽なこと言ってるかわかってる? 無理やり手を掴まれて、どこに連れてかれるかもわからないのに黙ってろだって?」
 この際いつも通り逆上させて殴らせてしまおうと考えた。何をされるかわからない状況よりは身の安全は保証されるはずだ。静雄が変わった行動に出るときは経験上痛い目をみてきた。
 挑発するように御託を並べ続け静雄の気をどうにか逸らそうとするも、その手に乗る気はないようで複雑な路地を迷う素振りも見せずにずんずんと進んでいく。大通りから外れて人通りはみるみる減っていき、稀に見せる静雄の忍耐力にさすがに不安がちらつき始める。
「ああ、それともなに、空き家とかに連れて行って俺を処分するつもり? 空き家もあんまりオススメしないけどなあ。ああいうところって実は定期的に業者が来たりするものだからね」
 焦燥感を誤魔化すために一人つらつらと無言を決め込む静雄に話し続ける。静雄が関わるといつもこうだ。自分ばかりが余裕のないことが悔しくて仕方ない。
「俺んちだ」
「え?」
「だから、俺んちに行く」
 想定外だった答えに一瞬返答を迷うが、静雄のことだ、どうせ他の場所だと迷惑になるなどと考えたのだろうと考察する。
「シズちゃんがそのつもりならとりあえずはついて行ってあげるけど、君の家で殺そうが結局は大家さんとかその他大勢に迷惑かかるからあんまり賢い選択とは言えないと思うなあ。ていうかほとんど最悪の選択だよ、それ。ない脳味噌絞って考えたんだろうけどさ、まあお疲れ様」
 静雄がいつ激昂してもおかしくないくらいに焚き付けたが、臨也の手を握る力が増しただけに留まった。激痛に顔を歪めるも前を進む静雄の目にそれが映ることはない。もう少しで折れるところだったと、挑発したのは自分であったが冷やせをかく。
 もう返事をしただろうといった態度で、静雄はそれ以上答えるつもりはないようだ。予想だにしてなかった展開と、逃げられそうもない状況に今世紀最大の命の危機を感じた。



「ったいなあ! なにすんだよ!」
 宣言通り静雄のアパートに着いたや否や、控えめにも柔らかいとは言えないベットにボールのように投げ飛ばされる。突然だったため受身もろくに取れずに、ベッドにバウンドする羽目となった。
 打ち付けられた腰が痛むがそれ以上に、強く掴まれすぎて血の流れが止まっていた両手首がドクドクと脈打っていて気持ち悪い。ヒリヒリと痛むくっきりと手形のつけられた手首を静雄に見せつけるように大袈裟に振ってふうっと息を吹きかける。
 昨日の男のせいであちこち痛む身体が厄介だが、これはチャンスだ。ようやく身体が自由になったのだ、これを逃したら今度はいつ逃げる機会がまわってくるかわからない。問題なのは唯一の出入り口である玄関へ続く扉を静雄が塞いでいることだ。
 ならば窓からとも思ったが、残念なことに窓は静雄のすぐ脇にある。臨也のやりそうなことは静雄も多少なりとも把握しているということなのだろう。
 そうすると大変不本意だが強行突破を余儀なくされることになる。掴まれていた痺れが残る腕で静雄とやりあえるかどうかなんて答えは明らかであったが、一瞬でも静雄の隙を作ることができれば脱出の可能性はあると、コートの内ポケットにしまわれているサバイバルナイフに手をかける。
 するとここへ来るまでほとんど表情に変化をみせなかった静雄の顔に笑顔が浮かんだ。ぞくりと悪寒が走る。思わず身震いすらした。静雄と殺し合いをするときに見せる激情からのそれとは異なり、内に秘めた黒さが滲み出ているような笑い方だ。
 自分が静雄に対して恐怖を抱いているということに気づくのに時間がかかった。ここ数年、リスクの高い取引にだって高揚こそはすれど、恐怖心を抱いたことはなかった。しばらく感じていなかった恐怖という本能的な感情に身体は持ち主のいうことを聞いてくれない。
 竦んでしまった身体を叱咤するが強張り思い通りに動かないどころか、小刻みに震えていることに気づく。まだ赤い手首を握りしめ、震えを痛みのせいにした。
 臨也の反応をよそに、身を屈ませ何かを取り出そうとする静雄に一層警戒が深まる。どうやら財布を探していたようだった。ブランド物の、おそらく無頓着な兄を思って弟から贈られたであろうその財布から抜き出された三枚の諭吉を臨也に差し出す。
「これで、いいんだよな」
「…なに、これ。情報でも買うつもり?」
 差し出された物を用心深く一瞥する。なんの変哲もない一万円札だ。顎をしゃくって突っ返すような仕草をとり、受け取る意思がないことを示して睨みつける。静雄は別段気にしたような様子もなく、テーブルの上に諭吉を三人並べて置いた。
「ある意味そうかもしれねえなあ」
 ベッドの端で猫のように逆毛を立てていた臨也の肩を引っ張り倒す。ぐんっと頭がベッドに沈み、何が起こったのか理解できずに反応が遅れてしまった。静雄が自分に覆いかぶさっているのだと認めて、慌てて腕を突っぱって押しのけようと抗う。
 それでも退かない静雄に渾身の力を込めて顔や首を殴りつけるがまるでダメージを与えられない。ダメージを受けたのは攻撃した臨也の拳のほうだった。素手では歯が立たないとナイフを取り出そうとしたものの、静雄の腕が邪魔をしているこの体勢ではそれは叶わなかった。静雄は抵抗を諦めない両手をここに連れてきた時のように素早く片手でまとめ、頭上で縫いとめる。
「い……! なにすんだ! 離せよ!」
 無様な格好に怒りがぶわっと膨らんだ。馬乗りになられてしまうと、もうウェイトでは勝ち目がない。急所を狙って足を蹴り上げたが、その足も静雄の膝で押さえつけられてしまう。
「っくそ、どけよ! ふざけんな!」
 憤怒をギラギラと孕ませた視線を向ける。さぞ馬鹿にしたような顔をしているのだと思ったが、その目に色はなかった。臨也を見つめる冷ややかな目に再び恐怖が蘇ってくる。
「手前、体売ってんだってな」
 唐突な言葉を受け、思わず言葉を飲み込んだ。あれだけ噂が流れているのだ、そういった情報に疎い静雄の耳にも嫌でも飛び込んできたということだろう。
「へえ、シズちゃん知ってたんだ。俺は気持ちいいことが大好きだからね。ギブアンドテイクってやつだよ」
 できるだけ動揺をおし殺して煽るように笑う。わざとらしく身振り手振りもつけてやりたいところだったが、自由は静雄の手の中だ。すると静雄はニヤアっと効果音でもつきそうな笑みを浮かべ、臨也の通った鼻に触れるか触れないかの距離まで自分の顔を近づけた。
「俺にも、売れよ」
「なっ……」
 脅すように低く発せられた言葉に思わず耳を疑う。静雄がなにを言っているのか、瞬時に理解できなかった。
「散々いろんなやつに売っといて、俺はダメなんてこたあねえよなあ?」
 ふざけるなと激したままに静雄の鼻に噛みついてやろうかとも思ったが、冷静さを欠いたら負けだとあくまで平静を装った。
「なに考えてんのかと思ったら……あのさ、俺と君だよ? ありえない。俺にだって選ぶ権利はある。俺は人間を愛してるんだ、化物なんてこっちから願い下げだね」
 予想だにしていなかった展開に、自分を落ち着けるために敢えてゆっくりと口にする。ようやくこの体勢に合点がいった。屈辱だ。
 いくら臨也が静雄に好意を寄せているからといって、静雄は全くそういった感情を抱いていないのは歴然としていた。普段の嫌がらせの仕返しか、それともただ単純に抜きたいだけなのか分かりかねるがどちらにせよこういった形で静雄と致すのは本望ではない。
「やめようよ、こんなこと。お互いトラウマになる。絶対にだ。そもそも俺の裸みて興奮するわけ? 君そういう性癖じゃないだろ? 大方萎えて終わりだね。それでもシズちゃんが男がいいっていうなら適当に紹介もしてやるから」
 どうにか宥めすかしてこの場から脱出したい、その一心だった。爛々と肉欲を湛える静雄の瞳に僅かな変化があったが、期待していたものとは毛色が異なる。
 汚いものを見るような目と言えばいいのだろうか、静雄は臨也と対峙する時にそういった目を向けることは多々あったが、それは臨也の卑怯な性格に向けられているものであった。だがこの目は腐りかけた生ゴミや排水溝の汚れを見るような生理的に嫌悪している目だ。
「手前の意見なんて聞いてねえんだよ。この淫売が」
 ぎゅうっと心臓が縮む。心を握り潰されたような感覚だった。なるほど、静雄は臨也の存在そのものが汚らわしいと区別したわけだ。静雄がそういった感情を抱くことは、心のどこかでわかっていた。どれだけ自分が薄汚い行為に溺れているのか自覚していたにもかかわらず、それなのにどうして心は今更傷つくフリなんてするのだろう。
 これからこんな目をされながら犯されるのか。嫌だと心臓が泣き喚いて暴れる。固まった臨也を見て覚悟が決まったのだと勘違いしたのだろう。
「せいぜい楽しませてくれよ。臨也くんよぉ?」
 冷水を浴びせられたように固まったままの臨也の黒いVネック部分に指をかけ、一気に引き裂いた。
「……っ…………」
 声など絶対に出してやるものかと、静雄に破かれてかろうじて肩に引っかかっているシャツを肩の肉ごと噛みしめる。ただただ悲しくて、それでも静雄が自分の身体に触れているという幸せとがごちゃまぜになって気を緩めたら涙が溢れそうだった。
 臨也を淫売と呼んで貶したのに、なぜそのようなやつの身体に触れられるのか不思議でならない。静雄の顔を焼きつけたくて、けれど何も見たくなくて瞼をきつく閉じた。
 なにもかもを拒んだようなその態度が気に入らなかったのか、強引に肩から噛みついている頭を外し、臨也の口に指を突っ込みかき回していく。汗で少し塩っ気のある静雄の指が臨也の舌を摘んだり引っ張ったりと蹂躙する。
「んう、んんっ……」
 喉の奥で殺しきれなかった声が唇から漏れた。口内で好き勝手に暴れる指を噛みちぎってやろうとしたところで咥えていたシャツごと指が引き抜かれてしまい、結果、噛み切れたのは自分の唇だった。独特の鉄臭さが鼻をつく。
 引き抜いたシャツを紙のようにビリビリと破り、それを臨也の両手首とベッドのポールに結びつけ頭上できつく固定した。縛られたという事実に怒りと屈辱で顔が熱くなる。何度か手首を動かしてみたがキシキシとポールが鳴るだけで解ける気配はなく徒労に終わった。この程度の拘束なら時間さえ稼げれば抜け出すこともできるのだが、静雄が睨みを利かせている前で縄抜けをするのは不可能だと諦め、静雄をひたすら睨みつける。臨也の格好にそぐわない強気な態度がおかしかったのだろうか、鼻で一つ笑った。
 なぜ殺したいほど嫌いな奴にここまでできるのかと激しく問立てたかった。寧ろ殺したいほど嫌いな奴だからこそ、だろうか。それなら臨也は当初の目標を達成したわけだ。そんなことも知らずに静雄は臨也を犯そうとしている。ざまあみろと一人ほくそ笑んだ。口角を上げた臨也を見て馬鹿にされたと感じたのか、静雄の目に鋭さが増す。目だけで人を殺せるとはまさにこのことだ。
 ジリジリと浴びせられる視線が痛い。皮膚が焼けそうに熱かった。腹部や心臓、ヒトの弱点を強制的に晒け出される格好がこんなにも恥辱的であるのかと、怒りで熱を帯びていた頬が更に火照るのを感じて目の前の男から顔を背けた。向いた先でコートのパーカー部分のファーが臨也の呼吸に合わせてふわふわと踊る。どういうわけか息をすることすら躊躇われた。
「んむ!? ふ……んぅ……!」
 強い視線からまぬがれようと逸らした顔を覗き込んだかと思うと、静雄は唐突に臨也の唇を奪った。突然のことで塞ぎきれなかった唇の間を縫って静雄の舌が口内に侵入する。
 驚いて頭ごと反らすもしつこく追いかけてくる舌に逃げ惑う。ギリギリまで引っ込めた舌を執拗につつき、器用に臨也の舌をちゅうっと吸い上げた。喉の奥で抑え切れなかった声が響く。苦いタバコの味が口内を占領していった。
 静雄はどうやら、臨也が一番されたくないことをするのが楽しくて仕方がないようだ。顔を背けることなど許さないとでもいうように、顎に手をかけ無理やり自分のほうを向かせ性感を掻き立てるようなキスを続ける。
「……っは……やめ、ふぁ……!」
 経験の浅い行為に息継ぎさえままならない。唾液が口から耳に伝い、それにすら過敏に反応してしまう。
 いつもは突っ込んで出せればいいという男ばかりだったから不慣れであるということもあったが、そもそも臨也はキスが好きではなかった。なんでもない他人の顔が自分の顔のすぐそばにあって相手の呼吸を間近に感じるのが不快であったし、何より舌を絡め合うなど単純に気持ちが悪いものだと思っていたため強請られた時はやんわりと避けていた。
 全く経験がないわけではないが、臨也自身が好きでなかったために女性とするときにだってさらっと挨拶程度のもので済ませてきたのだ。ムード作りに不可欠だと言う者もいるが言葉や仕草でいくらでも補える。だからキスがこんなにも気持ちのいいものだということを知らなかったのだ。
 臨也が甘い声を堪え切れなくなったところで静雄は一度顔を離した。
「なに純情ぶってんだよ」
 まともに酸素を取り込めずに身悶えしている臨也をせせら笑う。まただ。胸の奥がきゅっと詰まった。静雄の言葉の一つ一つが臨也の心で重いしこりとなって沈んでいく。静雄はそんな臨也を嘲るようになおも息をも奪い取るようなキスが続ける。
 息継ぎのたびに首を振り逃げようとする臨也の頭をしっかりと固定して深く深く舌を絡められてひっきりなしに声がこぼれた。静雄の舌が臨也の上顎をなぞるとびくんと大きく身体が跳ねる。あんなに気持ちが悪いと思っていたキスに翻弄され、平衡感覚を掻き乱されていく。
 酸素が足りなくなって足をばたつかせて限界を訴えた。拘束されている両腕はとっくに力が抜けきっていて使い物にならない。静雄は腹を蹴る足など全く気にせずに、何度も何度も角度を変えて逃げる臨也を追いかけるように口づけする。
 そのうちだんだんと閉じているはずの視界が白に染まり、酸欠からか快感からか、ふわっと浮かび上がるような感覚に陥った。臨也の限界を察した静雄は名残惜しそうにゆっくりと顔を離していく。つうっと銀の糸が二人の唇を繋いだのがやけに背徳感を喚起させた。ひゅーひゅーと自分の荒い息がうるさくて周りの音が聞こえない。
 酸素を取り込もうと必死に肩で息をする臨也に、静雄の口からどちらのかわからない唾液が注ぎ込まれる。どうしていいのかわからず本能的にこくりと喉を鳴らして飲み干した臨也は、とても扇情的だった。
 ぼんやりと焦点の合わない瞳で静雄を見つめ続けていると、瞼に一つキスが落とされ、次いで頭を撫でられた。ああ、恋人同士みたいだと馬鹿げたことが頭をよぎる。そんな妄想を切り離すために力の入らない手のひらに爪を強く突き立てた。手のひらの痛みが、切れた唇の鉄の味が、これはそのような優しいものではないと教えてくれる。
 臨也の呼吸が落ち着くのを待たずに、静雄は適度に引き締まった臨也の痩躯を堪能していった。
「ひゃ! はっくすぐっ……ひん!」
 耳の後ろ、首筋、そして剥き出しの脇の窪みをくすぐって遊ばれる。ゆっくりと降りていった手は、腹から鼠径部にかけてをひたすら柔く愛撫した。静雄の指が皮膚をなぞるたびにピクピクと身体が揺れる。
 どうにか溺れまいようにとなけなしの理性にしがみつく。丁寧にあちこちを撫で回し、快楽を生み出していく大きな手に苛まれる。酷くされると思い込んでいた臨也にとってこの仕打ちはまるで拷問だった。臨也に触れているその手が静雄のものであるという事実だけで腹の奥がきゅうっと引き締まるのを感じる。
「あ、まっ、そこ……!」
 静雄の手がなだらかな腹筋を行ったり来たりする。ひくひくと引き攣る臍の穴を指先で弄ぶと臨也の反応が変わった。普段いじられもしなかったから気づかなかったが、これはつらい。皮膚の薄い部分を責められて声が上がる。快楽に茹だった頭からは声を抑えなければという思考がすっかり抜け落ちていた。
「あ、だめっ……そこ、やめ!」
「へえ、ここな」
 面白いおもちゃを見つけたように臍の中に指を入れてくにくにと掻き回される。どうにかしてやめさせたいと腕を引っ張るも、括り付けられたポールから離れそうもない。ひくひくと薄い腹が波を打つように痙攣を繰り返す。
「ひっ、ん! あぅ、やだ、やだ! なんで、そんなとこ……!」
 不意に反対の手で、まだ触れてもいないのに主張していた乳首をいじられ息が乱れる。コリコリと触れる手に手加減を感じて胸が締めつけられた。
 こんなふうに静雄の手が、傷つける目的以外で触れてくる日など一生こないと信じきっていた。その優しい手加減がどんな感情から生まれているものなのかなど、今は知りたくない。
 ぎこちないペッティングを施されるほどおめでたい身体は敏感になっていく。その事実を認めたくなくて、力の入らない身体に鞭を打ち、目一杯暴れた。
「暴れんな。腕、折るぞ」
 たいした抵抗にならなかったが、それでも目障りだったのだろう。縛られた手首に力を込められると骨が軋んだ。乱暴な静雄に安心する。もっと、酷くして欲しかった。そうすれば現実と夢との区別がつく。
「ははっふはは……折れよ……!」
 一層激しさを増した抵抗に静雄はため息をつき、再び愛撫へと戻るために腕から手を離した。臨也をおとなしくさせるのには暴力より快楽のほうが簡単だと思ったのか、先ほど反応を示した乳首の周りをくるくると円を描いていく。
 焦れったい動きがもどかしくて目を伏せた。両腕をベッドのポールに括り付けられ、まるで触ってくださいと言わんばかりの光景に静雄は躊躇なく胸の飾りを口に含んだ。
「や! ちょ、あ、どこ舐めっんん!」
 背中を反らして逃げようとするも、知らず知らずのうちに胸を突き出すような格好になってしまう。乳首を舌で転がされ、甘噛みされ、先程の濃厚なキスを思い出して体温が上がる。上目遣いに臨也の反応を窺う静雄と目が合った。静雄も興奮しているのか頬が若干赤みがかっている。
「どうした臨也くんよ。おら、腰動いてるぜ?」
「えっ……や、ちが、ちがう!」
「違わねえって。ほら」
「ひゃう!」
 ぱんっと軽く尻たぶを叩かれて情けない悲鳴を上げてしまった。ゆるゆると首を振ると瞳に留まりきれなかった水分がはらはらと落ちていった。指摘されてはじめて自分が醜態を晒していたことに気づくが、どうしても止めることができない。
 静雄はすっかり快楽に沈んだ臨也を含みのある笑みで見下ろして、触れてくれと叫んでいるそこをそっと包み込むように手のひらで覆う。
「しっかり反応してるじゃねえか」「そ、りゃ……生理現象……!」
 当然だ、と言い切るのと裏腹に頬に血が上ったのが自分でもわかった。
やわやわとズボンの上から揉まれるだけの刺激がもどかしくて、腰の動きは自然と大胆なものになる。静雄の手に押しつけるように腰をくねらすと、静雄が喉で笑った。
「随分積極的じゃねえか」
 意地の悪い顔をする静雄に言葉に詰まる。わかっていてやっているのだと悟り、悔しさに歯噛みした。
「だっ、て……シズちゃんが、ちゃんと……」
「ちゃんと?」
「さ、触って、くれないからっ」
「触ってるじゃねえか」
「っから……! 直接……!」
 なにを言わせようとしてるのかわかってしまった臨也は、ニヤニヤと意地の悪い顔をする静雄を精一杯睨む。
「いつもはベラベラ余計なことまで喋るくせに、今日はやけに言葉足らずなんじゃねえか?」
「し、ズちゃんこそ、いつにも増して理不尽じゃない」
 反論する声も、自然と上擦ったものになってしまう。とにかく溜まった熱を解放したかった。
「まあ…そういう手前を甚振るのも悪くねえ、か」
 そうつぶやいたのと同時に、燻らせるようにやわやわと動かしていた手が離れ腰をなぞり、ズボンと下着の端を掴まえた。
「っぅあ! なに……!」
 ズボンと下着を一度にまとめて下ろされ、慌ててでたらめに蹴りを繰り出すが、そんな抵抗も虚しくするんと衣服は臨也の足首を抜け、ベッドの下へと放り投げられる。
 最後の砦を失い静雄の目に晒された性器は、すっかり勃ち上がっていた。すでに滑り気を帯びている先端をぐにぐにと刺激され、今までのと比にならないくらいの快感が襲う。
「あっんん! ……あ、や、あああ!」
「うおっ……はやすぎねえか?」
 焦らしに焦らされたこともあり、大きすぎた波に簡単に呑まれて達してしまった。白い液体が茂みや腹を汚していく。静雄の指摘に反論したかったがそれどころではなかった。
「はっはあっ……はん……ああっくぅ……!」
 目を閉じて余韻に浸ろうとするも、休む間など与えられずに次の波が押し寄せる。出されたそれをすくわれ、後ろの蕾を解すように塗りこまれていく。どうにか快感から逃れようと身体をよじるが、相変わらず拘束されたままの手を握ったり開いたりすることくらいしかできない。本当なら脇をしめて身体を丸めてしまいたい。
 少しでも身体の中で暴れる快感を逃がすために楽な姿勢をとりたかったが、両手首を固定しているシャツだったものがそれを許してくれない。
 唯一動かせる両足を曲げたり伸ばしたりしていたが、それも静雄が捕まえぴったりと腹部に張りつけるように折り曲げられる。恥ずかしいところが丸見えの格好に羞恥で目を瞑るも、すぐに大きく見開くこととなった。尻に静雄のモノが押し当てられたのだ。
 本当に最後までするつもりだろうかと漠然とした疑問が臨也の中で渦巻いていたが、これ以上にないくらいにわかりやすい答えを突きつけられ無意識に身体が強張る。
「ま、まって! イったばっかで、無理! そもそも慣らさないで入るわけ……!」
 これ以上刺激を与えられてしまうと本当におかしくなってしまいそうだった。どうにかしてやめさせようと回らない舌で説得を繰り返すも静雄は耳を傾けない。
「俺は手前を買ったんだぜ? 手前だけいい思いするなんて、そりゃあ違えだろ」
「そんなの、君が勝手に……ぅあああ!?」
 身体を裂かれるような痛みとともに、呼吸もまともにできないようなものが中に入ってくるのがわかった。間違いなく入口の皮膚が裂けただろう。ズキズキと痛んで焼けそうだ。痛みを少しでも逃がそうと浅く息を吐き出す。
「お、ら!……入ったじゃねえか……!」
「っうぅ……! 待っていたい……おねが……いた……」
 いくら経験があるとは言え、全く慣らしていないそこに突っ込まれたのだ。入口に気持ち程度に塗られた精液でどうにかなるわけがない。眉に力を入れて痛みを耐える臨也の耳元に、静雄の顔が寄せられた。
「もう、待ちくたびれたんだ」
 落ち着き払った、抑揚のない声だった。思わずすぐ隣にあった顔を凝視する。苦しそうに歪んで、何かに堪えるような顔をしていた。
「シズ、ちゃ……?」
 疑問は襲いかかった衝撃に打ち消された。挿れてから動きを見せなかった静雄がぐんと奥を突いたのだ。
「っあ! ぅん! や、いたっあ……!」
「……くっ……は……! 臨也……!」
 耳元で余裕のない声に名前を呼ばれ、ずくんと奥が疼いた。静雄が自分の中で興奮していると考えただけで熱が込み上げてくる。
「や、やっ……はげし……!」
 ガンガンと欲望のまま突いてくる静雄に耐えられるだけの体力など、臨也にあるはずもなかった。されるがままに腰を打ちつけられ、浅ましい身体はすっかり快感を見出している。
 先程までは痛くて仕方のなかったそこが今はとても気持ちいい。あ、と静雄から微かに漏れた声が臨也を高ぶらせた。
「ばっか、んな締めんなっ……」
「だ、てっあ、だめ、ーーっ!」
 一度達していた臨也はあっけなく再び頂点を迎える。いつもは後ろだけではイけないからと前も同時にいじるのだが、後ろだけでイったのは初めてだった。予想の遥か上をいく快感に耐えられず、あっあっと意味をなさない言葉がひっきりなしに開きっぱなしの口から溢れていく。
 臨也が脱力するのと同時にようやく緩んだ締め付けに、なんとか射精を堪えた静雄は抽送を再開する。
「……っはう! あんっも、むり! むりい……!」
「悪いな、俺は、まだイッてねえん、だよっ」
 既に数度達している臨也にとってこれ以上の快感は苦痛でしかなかった。頭を振って少しでも快感をやりすごそうとする。
「や、ああ! もうイけなっ、でな、いってばあ……!」
「そう、か? まだまだイけそうだぜ?」
「っああ、や、や、やめ」
 静雄の手がすっかり弛んでしまっていた臨也のものに伸ばされる。全体を手のひらで包み込むと上下にさすった。油断していたところからの刺激に腰を浮かせて逃げようとするも静雄はしつこく性器を弄り続ける。
「ほら、勃つじゃねえか」
「ひっあ、あ、あ、や……う、そ、な……!」
 再び反応をみせる己が恨めしい。耳元で低く囁かれる声に、静雄の息づかいに、挙句、静雄から落ちてくる汗にさえ感じてしまっている始末だった。敏感な二箇所を同時に責められ蕩けきっている臨也をみて、追い討ちをかけるように静雄の動きがさらに激しくなる。
「ひ、う! あ、んン! ……ぁああ!」
「……っ!」
 把握した弱いところだけを的確に突いてくる苦しいほどの快感に、ガクガクと全身を震わせて三度目を迎えた。静雄が息を飲んだのが朦朧としている臨也にも伝わる。今度こそ静雄もうねって搾り出そうとする中に逆らえず、臨也のあとを追って欲を吐き出した。



 少しの間、意識が飛んでいたらしい。気がつくと臨也の腕の拘束は解かれていて、申し訳程度になっていたシャツも、汗でべったりとくっついていたコートも脱がされている。こちらに背を向けて横になっている静雄も下着以外を脱ぎ去っていた。
 もう抵抗する体力が皆無であると判断したのだろうか、もしくはヤることはヤったからもう用済みということだろうか。答えを導くのも億劫で考えることを放棄する。そのような気力は残されていなかったし、今も少しでも気を緩めたら再び闇の中へ意識が攫われてしまいそうだ。
 最初で最後なんだから。ちゃんと、確かめたい。触れたい。鈍い思考の中で好きという気持ちが勝って、痺れで思い通りに動かない腕で静雄の首に抱きつく。
「シズちゃん……」
 好きだという言葉は飲み込んだ。これを言ってしまったら全てが瓦解することは考えずともわかる。臨也の思いがけない行動に戸惑い、わずかに静雄の肩がはねた。
「シズちゃん、こっちむいてよ」
 ぎゅうぎゅうと抱きついて離れない臨也が鬱陶しくなったのか、身体を反転させた静雄と向かい合わせの形になる。
「……なんだよ、犯され足りねえのか」
 そうではないとかぶりを振って、正面からぎゅうぎゅうとありったけの力をこめて静雄に抱きつく。静雄が自分の腕の中にいる。それだけで欠けていたどこかが満たされていく。いままで致したあとは虚しくなるだけだったのに、静雄が相手だとこんなにも顕著なものなのかとなんだか自分がおかしかった。
「今日だけ、今だけだから。そしたら全部、忘れるから」
 震える声を押し殺す。偽物でもいいから今はこの幸せに浸りたかった。静雄の汗ばんだ胸板に顔を押しつける。とくとくと響く静雄の鼓動が愛おしかった。
「……なかったことにするつもりかよ」
 自分の罪が告発されることを恐れているのだろう。普段より低いトーンだった。
「心配いらない、誰に言わない。なにもなかったんだ。俺、もう十分だから」
「いざ、」
「大丈夫だから……」
 静雄がなにか言っているのはわかったが、強烈な倦怠感と眠気についに耐えきれず意識を手放した。臨也の記憶にはその声しか残らなかった。


 寝返りをうとうとして、上手くいかず目が覚めた。なにを思ったのか臨也の両腕は背中でタオルでぐるぐるに再び拘束されていたが、静雄よりどうにか早く起きることができたのが僥倖だ。
 意識がはっきりしている臨也にとって、この程度のものは拘束にはならない。なんということもないようにタオルをベッドの隅に引っ掛けて解いていく。自由になった両腕を前に持ってくると、案の定手首にはくっきりと縛られた跡が残っていた。
 愛おしそうに跡を何度か撫で、隣で寝息を立てている静雄に目を落とす。最後にもう一度だけ触れたかったが、どんな刺激で目を覚ますかわからない。臨也を拘束していたタオルで素早く身体を拭き、使用済みとなったそれをゴミ箱へ放り込んだ。
 一秒でも早くここを出なければと自分の服を摘み上げて頭を抱える。シャツはもはや服としての役割を果たせるような原型を留めておらず、コートには白いものがべったりと付着している。
 仕方がないと自分の服を着るのは諦めた。何か着れるものがないかとクローゼットを漁るけれど、外に着ていけるような服は静雄のトレードマークと化した大量のバーテン服しか見つけることができなかった。
 迷っている時間などなかったので、一番使い古されていそうなそれを手にとって手際よく着替える。少々ぶかぶかなのが体格差を物語っていて気にくわない。タイまでする必要もないだろうとポケットに押し込んだところで、ふとテーブルの上に置かれた諭吉が目に入る。それがこの冷たい関係を映し出していた。
 なにか書くものはないかと辺りを見回して電話の横に無造作に置かれてあるメモとペンを発見した。音を立てないように、且つ迅速にメッセージを書き上げる。諭吉の側にあればすぐに気がつくだろうと、特に作為的なことはせずに隣に並べた。
 バーテン服には少々浮いてしまうが、唯一無事であった玄関に投げ出されている靴を集める。靴を履こうと屈んだ時にポケットがつっぱった。着替えの際に押し込んだ蝶ネクタイを取り出して優しく握りしめる。最後にいいものを手に入れることができた。
 臨也を池袋に縛りつけていたものが緩々と解かれていくのがわかる。初恋は叶わないなどというジンクスを身を以て証明してしまったことが少しばかり寂しいが、もうその名を呼ぶこともないだろうと静かに扉を閉じた。




『お金はいらないから、そのかわりバーテン服もらっちゃった☆ これだけあれば一着くらいいいよね。バイバイシズちゃん(^□^)』




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